蜂蜜色の苦い恋人

橘 志摩

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17.焦燥と逃亡

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 どうして。

 なんで。

 どういう事。


 頭に浮かぶ疑問符は何一つ言葉に載せられることはなく、だが解消されることもなく、思考を埋め尽くした。

 何をすることもできず、ただ呆然と立ち尽くしてしまうだけだ。
 心が、何かを考えることを拒絶していた。

「―――岩代さん? どうした?」
「…ぁっ…」

 肩に置かれた手に、聞き慣れた声に、これほど助かったと思ったこともないだろう。
 振り返ったそこにいたのは、心配そうな顔をしている、同僚の姿で、ほっと深く息を吐いた。

「…霧村さん、今、帰りなんですか?」
「うんそう。大丈夫? 顔真っ青だけど」
「あ、へ、平気です。ちょっと、立ちくらみ…」
「あぁ、たまにあるよねぇ。でも無理しちゃダメだよ、少し休んで行きなよ。あぁほら、あそこ、喫茶店はいろう。俺も付き合うからさ」

 申し訳ない、そう思ったが、今この場から離れられるならなんでもよかった。
 見たくなかった光景を、なかったことにしたくて、彼に促されるまま喫茶店に足を向ける。

 距離があるから、おそらく青葉はこっちの存在に気がついてないんだろう。
 何より、黛さんは泣いているように見えた。そんな彼女を、青葉がほおっておけるはずがない。彼はそういう人だ。

「…すみません」
「あぁいいよいいよ、気にしないで。岩代さんにはいつも頑張ってもらってるしさー、倒れられたら困っちゃうもん。ほら気にしないで気にしないで」
「―――陽菜!」
「っ」

 呼ばれるはずがない、そう思っていた声が聞こえて、身体がこわばってしまう。
 顔を上げられなくて、じっと視線を地面に向けたまま固まっていると、霧村さんは背中をさすって、「大丈夫?」と顔を覗き込んできた。

「…だ、大丈夫です…」
「…陽菜って、岩代さんの事だよね。蓮田にそう呼ばれてた、と思ったけど」

 奈美の結婚前の苗字に反応して、小さくうなづいた。
 霧村さんが後ろを伺う気配がして、はあと小さく溜息をつく音が聞こえる。
 おそらく、さっきの声は青葉だ、間違いない。あんな状態でどうして、私の存在に気がついたのかは知らないけれど、どうして気がついてしまったのだという恐怖の方が上回って、カタカタと身体が震えた。

 もう、嫌だ。
 あんな想い、したくない。

 青葉が傷つかないなら、他に相手がいるなら、もういいじゃない。
 私は用無しでしょう、あなたの言葉で止めを刺さないで、せめて私に自衛させてよ。

 心に浮かんだ望みに、ぎゅっと瞼を閉じると、ポンポンと優しく頭を撫でられた。

「―――何があったかはしんないけど、ここはお兄さんに任せなさい」
「…え…」
「ま、岩代さんになんかあったら俺が怒られちゃうし。大丈夫だよ。少なくとも、頭に血が上ってる彼よりかは人生経験あるからねー」

 人をかき分けている気配と、荒々しい足音が近づいてきて震えが大きくなってしまう。
 後ろを振り向けなくて、固まったままの私を、霧村さんはその広い背中に隠してくれた。

「陽菜!」
「はい待った」

 私の身体を掴もうとして伸ばされた手は、あっけなく掴まれて阻止された。

「…っ…俺は、彼女に話があるんです。どいて頂けませんか」
「あれ、意外と冷静? なら結構。それなら見てわかるよね? 岩代さん、話せる状態じゃない事くらい」
「…っ…けどっ」
「気持ちはわからんでもないけどさぁ、自業自得だと思わない? …君にとって岩代さんがどういう存在なのか、…まぁ必死でここまできたってことなら大体想像つくけど。それならそれで、なんであんな大胆にラブシーン繰り広げちゃうかなぁ」
「あれは…っ」

 霧村さんもあれを見ていたのだろう。あのタイミングで私に声をかけたなら当たり前だ。駅前で、あんなに人が通るところであんなシーン、目が向かないなんて言う方が無理がある。
 青葉は何も言わないままだった。

「少し冷却期間置いた方がいいんじゃないの、岩代さんだって冷静になれてないみたいだし。君もさ。感情のまま女の子を傷つけるのは良くないよ。自分の行動、よく見返しなよ、青年」
「……あんた、一体誰なんですか」
「岩代さんの同僚です。…君のライバルだと思ってもらっても、全然構わないよ」
「な…っ」
「き、霧村さん…っ!?」

 彼の言葉に驚いて顔を上げたが、霧村さんは相変わらず笑ったままだ。
 その笑顔に怖いと思うのは私だけだろうか。

 漸く見た青葉の顔も、酷く焦ったような、傷ついたような顔をしていて、胸が軋む。
 今ここに霧村さんが間に入ってくれてよかったと、心のそこから思った。

 霧村さんがどういう意図があってそんなことをいうのかはわからないけれど、きっと何か考えがあるのだろう。
 何より今の私に、青葉と対峙するだけの余裕なんて欠片もない。
 私を見て息を呑んだ青葉から視線を外して、口を閉じた。

「彼女を大事にできないなら、君みたいな若造に彼女は上げられないかな。泣かせるだけならとっとと離れてくれない?」
「…俺は、陽菜を泣かせるつもりなんてない」
「現に今、泣かせてるじゃん。説得力ないなぁ。…とりあえず、今日は俺が彼女連れて帰るから。君も帰って頭冷やしたほうがいいよ。じゃあね」
「陽菜!」

 霧村さんに肩を抱かれて、青葉の横を通る。
 呼ばれた声に肩がはねたが、すぐに宥めるように撫でられて、私は一度も青葉を振り返らなかった。


 ◇◇◇◇◇


 少し歩いてから曲がったところで、ぱっと霧村さんが私の肩を離して、大きく息を吐いてから「ごめんね」と笑った。

「好きでもない男と密着させちゃって、本当ごめんねぇ。気持ち悪かったら気持ち悪いってはっきり言ってね!?」
「あ、…いえ、大丈夫です。私の方こそすみません…」
「……まぁ、とりあえずさ、どっか入ろうよ。岩代さんさっきより顔色悪くなってるし。このまま返したら俺本気で殺されると思うからさ。俺を助けると思って付き合って」

 苦笑しながらコーヒーショップを指さした彼に漸く微かな笑みが浮かべられて、はいと頷いた。

 店内はそれほど混んではなくて、奥まった席に腰を下ろすと、霧村さんが暖かいコーヒーを二つ、買ってきてくれた。

「あ、す、すみません、お金…っ」
「え? いらないよ~、ほら飲んで飲んで。冷えたのもあるだろうから身体あっためないと」
「…す、すみません…」

 ミルクと砂糖までもってきてくれて、本当に申し訳ない気持ちになってしまう。
 だが今ここで固辞してても無意味だ、何より私も、早く気持ちを整理したかった。

「…ありがとうございます…」
「うん、まぁ俺のことは気にしないで、ちょっと落ち着いた方がいいよ」

 そうかけてくれる言葉がありがたく、口に含んだコーヒーはとても暖かかった。



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