蜂蜜色の苦い恋人

橘 志摩

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18.感傷と決意

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 店内の雑踏が、私の心に落ち着きを取り戻してくれつつある。
 ぼーっと周りを見回していると、霧村さんはくすくすと笑って、「大丈夫かな」と呟いた。

「一人で抱えてるの、しんどいと思うよ。俺じゃ頼りないかもしれないけど、言ってみない?」
「…でも…」
「あぁでも、相談するなら友達の方がいいか。言いにくいなら奈美呼ぶよ。その方がいいでしょう?」

 にっこりと笑ってくれた霧村さんの気遣いが心に染みる。
 この夫婦はなんて優しい人達なんだろうと、涙がこぼれそうになって、口元を抑えた。

「蓮田」という呼称から「奈美」に変わったのは、彼にとって今がプライベートな時間だと区切られたからだろう。

 霧村さんはれっきとした奈美の旦那さんで、1児の父だ。にじみ出る空気は立派にお父さんで、落ち着く雰囲気はそのせいだろう。
 さっきのライバル云々は、ただの方便だろう。どんな意図があってそれを口にしたのかはわからない。

 霧村さんが頼りないという訳ではなく、だが話すなら奈美がいい。そう思って、彼の言葉に頷いた。

 ちょっと待っててねと声をかけて、携帯を手に店内を出て行った霧村さんはおそらく奈美にかけてくれているんだろう。
 本来であれば自分でだって連絡を取れるのに、そんな事をさせてしまっている自分が情けない。

 それに今は、夕食どきで、奈美も忙しいだろうに。
 一人で解決できない自分が、腹ただしいのに、何もできなかった。


 ◇◇◇◇◇


「陽菜…!」

 奈美は急いで出てきてくれたのだろう。娘を腕に抱えて、店に入ってきた。
 私達のいる席を見つけるなり足早に近づいてきてくれて、腕に抱いていた娘を霧村さんに預けると、私の隣に座って、ぎゅうと抱きしめてくれた。

「おお、悪いなぁ急に呼び出して」
「呼び出さなかったら帰ってきたらフルボッコよあんた」
「なんで?!」
「はー急いだら喉渇いちゃった。涼、ちょっと飲み物買ってきて、私ミルクティーね」
「人使い荒いなこの嫁は…。はいはい行ってきますよ。美嘉はパパと一緒に行こうな~」

 霧村さんが子供を抱いたままレジカウンターに行くと、奈美は小さく息をついて、私の頭を撫でてくれた。

「…まぁ、よかった」
「え?」
「涼がちょうといい時に陽菜の事見つけてくれてさ。私また、なんも助けてあげられないところだった」
「……そんな事、ないよ。私、美奈にいっぱい助けてもらってるよ。…なのに、また、おんなじこと、繰り返しちゃうところだった…っ」

 こらえきれなかった涙が勝手に頬を伝う。
 俯いて、涙を拭ってもそれは止まってくれることはなくて、ますます身体が縮こまってしまう。
 奈美はそんな私を咎めるでも慰めるでもなく、ただだまって、頭をコツンと合わせた。

「…何があったのか、陽菜が話せるようになったらでいいよ。でも一人で抱え込んで、一人で結論だしちゃだめだからね」
「…っ…」
「全部は聞いてないし、陽菜しかわかんない悩みもあるんでしょう? その全部、聞かせてよ。私も一緒に考えるから」
「…うん…っ」

 霧村さんが遅くなったのは、偶然じゃないだろう。
 私が落ち着いた頃を見計らって戻ってきた彼は、奈美の前に飲み物だけを置いて、そのまま荷物を持ちあげた。

「俺先帰って美嘉に飯食わせとくわ。奈美も外出るの久しぶりだろ? 今日はゆっくりでいいから」
「あぁうん、ありがとう。ご飯もお風呂もできてるから。ごめんね、よろしく」
「いやいや、今岩代さんに倒れられたら困るの俺だしなー。岩代さん、奈美の息抜き付き合ってやってね。じゃあまた明日」
「あ、ありがとうございました…!」

 ひらひらと手を振って、彼は店を出て行った。
 そんな後ろ姿を見送ってから奈美は我ながらいい男見つけたわと笑った。

「…奈美が羨ましいなぁ」
「そう? 多かれ少なかれ喧嘩はするけどね。それに、陽菜にしては、今回いい男見つけたんじゃないかって思ってたんだけどさ」
「…でも、…でもさ、…それが、誰かの変わりだったなんて、…笑っちゃう、よね」
「………変わり、ねぇ」

 ソファ席の背もたれに寄りかかった彼女は息を吐いて、天井を見つめている。
 ご馳走してもらったコーヒーは、もう覚めて少しだけ冷たくなっていた。

「若月君、そういうことする子だったっけ?」
「……そんな事、出来ない子だって、そう思ってた、けど…」
「だよねぇ。私も、すごい一途な子に見えたんだけど」
「…私も、そう、思ってたよ。でも、…何が正解なのか、もう、よくわかんない」

 ポツリとこぼした言葉に、奈美の視線が私に戻ってくる。
 その視線に促されるように、ポツリポツリと、今までの事をこぼすと、それはすぐに止まらなくなった。

 不安も、焦燥も全部、心を巣食っていた黒いモヤも全部吐き出した。
 彼女はただ黙って聞いて、時折使える私の背を優しく撫でてくれる。

 すべてを吐き出したとき、自分の心が少しだけ落ち着いたような気がした。

「…陽菜はさぁ、考えすぎだよ」
「…そう、なのかな…」

 そう返すと、奈美は苦笑して、手に持っていたグラスをテーブルに置いた。

「だってそうじゃん。恋人だろうがなんだろうが、付き合い自体は陽菜の方が長いじゃん。だったら、陽菜の方が若月君の人となり知ってるでしょ。それなのに自信ないとかいうのおかしいよ」
「だ、だって、恋人に対する態度と友達に対するのって違う、訳で…」
「その、黛さん? だっけ? 彼女が若月君とどれくらい付き合ってたのか、あんた知らないんでしょう。それなのに、自分が身代わりとかなんとか、そう結論付けるの早いんじゃないのって。大体その話聞いたのだって今日の今日で、しかも聞かされた相手は理由はどうあれ信用していい人間じゃないじゃん」
「…そ、そうだけど…」
「悩むのも考えるのもさ、若月君とちゃんと話してからだと思うよ。別れる別れないもそれからでしょう?」
「…うん…」

 厳密に言えば、付き合ってはいないんだけど。それは口に出さないで置いた。

「……聞くの、怖いなぁ…」
「好きなら当たり前じゃない? 自分の恋心がかかってんだからさ。でも、聞かないままでこのままズルズルだったら、やっぱり傷つくのは陽菜なんだよ」
「…うん」
「大丈夫、例えやっぱりダメだったってなっても、ちゃんと私が受け止めてあげるからさ」
「…ありがとう」

 残っていたコーヒーを飲み干して、奈美に言う。
 彼女も笑って、うんと返事を返してくれた。


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