狼少女のタカラモノ

橘 志摩

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10.弱音と戸惑い

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 幼い頃から、つかず離れず、ずっと傍にいた。
 血は繋がってなくとも、それはどこか家族として一緒にいたような感覚の方が強い。
 菜摘も悠一も、きっとお互いに、お互いをそんな風にしか見ていなかったのだろう。

 だが、突然変わった関係に、突然触れた唇に、どこか照れくさくて、どこかで戸惑っているのは、菜摘だけのようだった。

「ゆうちゃ…悠一、まだ帰らないの?」

 ソファで寛いでいるのは幼馴染改め、恋人となった悠一だ。
 彼はテレビを見ながらビールを飲んでいて、声をかけた菜摘を見上げて、へらっと笑う。
 人の唇を唐突に奪っておいて、平然としたまま、彼女に会いにくるのは変わらなかった。

 いつもと違ったのは、来て早々ビールを飲み始めた事だ。
 何故急にキスをしたのか、聞きたかったのに何かを問いかける事を許してくれるような雰囲気はなく、だがだからと言って不機嫌な訳でもない。
 彼がこうなると、きっと厄介な問題か、酷く落ち込むことがあったんだろうなと、察せるぐらいには長い付き合いで、尚更問い詰めるような事は出来なかった。

「まだいいだろ、俺飲みたんない」
「飲みたんないって、結構飲んでるじゃん。もう」

 リビングのテーブルの上に並んでいる空き缶を見て、思わずため息がこぼれ落ちてしまう。
 これはきっと泊まっていくんだろうなという菜摘の予感は、おそらくあたっている。
 そこまで酒に弱くない悠一が、すでに頬を赤くして、陽気になっているのがその証拠だ。帰る気はないのだろう。

 だが、ここまで飲んでいる彼も珍しいと、菜摘は思う。
 仕事か、はたまた別の事か。酒を飲んで鬱憤を晴らしたいと思うような事でもあったんだろうか。
 以前なら、それを聞いたところで彼は何も言わない人で、ただただごまかすように笑って酒を飲み続けるだけだった。それが心配でもあったし、何も言ってもらえない事実に、菜摘は少しだけ、傷ついていた。
 きっと、今回もそうなのだろうとは思う。
 傷つく事があったのだろうとはただの予感だが、それを愚痴る事もないのだろう。
 キスはされたが、彼にとって菜摘は、まだ妹分だという感覚は抜けていないと菜摘は思う。だからと言って、半ばやけになっているような飲み方を続けている兄貴分をほおっておくこともできないのは、彼女の優しさだろう。

 気がつかれないように小さくため息をついて、彼の横に腰を下ろした。

「ん? どうした、お前も一緒に飲むか?」
「飲まないよ。私悠一ほど強くないもん。…ただ、悠一はまだ飲みたいんでしょう。何があったかは知らないけどさ。…私でいいなら、隣にいるけど」
「…菜摘…」

 どこか驚いた声色に、視線を向けることなくテレビを見つめた。
 いつもと同じだ、やけになっている彼の傍を離れることはためらわれて、だからと言って何かを聞くこともできない菜摘は、いつもただ黙って悠一の隣にいた。
 今日もそうするつもりで隣に座ったのだ。他の意図はない。

 違ったのは、悠一の方だった。

「…悠一?」
「…お前、馬鹿だなぁ…」
「はあ?」

 突然の罵倒に眉間に皺を寄せて睨みつければ、彼は嬉しそうに笑っている。
 その表情に気を取られて、呆然としていると、今度はその身体を力強い腕に引き寄せられた。
 気が付いた時、菜摘の身体はすでに抱きしめられていて、彼の腕の中に囚われている。

 慌ててその身体から離れようともがいても、彼の力が強くて抜け出せない。

 何が起こったのかわからないまま、混乱する頭で彼の名前を呼ぶが、反応はなく、だが、その腕がかすかに震えているような気がして、思わず身体が固まった。

「…ゆうちゃん…?」
「…悪い。菜摘、落ち着くわ。もうちょいこのままでいさせて」
「………何か、あったの……?」
「……少し落ち着いたら、話す」

 その言葉に驚いて、だが何かをいうのはやめた。
 きっと、それほどまでに彼は疲れているのだろう、私に愚痴を言いたくなるくらい、疲弊しているのだろうと、そう思ったのだ。
 彼が落ち着くまで、そういうのなら、もう少しだけ好きなようにさせてみよう。
 菜摘はそう考えて、そっとその広い背中に腕を回して、ゆっくりとさすった。

 抱きしめる腕の力が、かすかに強くなったような気がした。

 彼にとって、菜摘にキスしたことは、何かが変わったのだろうか。
 菜摘はあの日、キスをされた事に驚きはしたが、何かが変わったような気はすれど、その答えを見つけることはできてない。
 変わったのも、ほんの少しだけだろうとも、思っていた。

 だが、彼にとっては違ったのだろうか。
 こんな風に、弱っているところを見せてもいいと、思える程の何かがあったのだろうか。

 菜摘は考えたが、結局悠一の思考も感情も、彼のものであって、彼の出している答えを、彼女がわかるはずもなかった。

 ◇◇◇◇◇

 彼に抱きしめられたまま、しばらくその体勢のままでいた。
 腕の力が緩むことはなくて、動けなかったといった方が正しい。菜摘も動く気はなかったが、どうにも落ち着かなかった。
 だが同じ体勢で長い時間いるのは少し辛く、少しだけ身じろぎをしたとき、ようやく彼の腕が離れた。

「…悠一?」
「…ごめんな、急に」
「…ぁ…や、それは別に、大丈夫だけど…。悠一は…? 平気?」
「…あぁ、もう平気」

 そう言って、彼は笑いながら頭を撫でたが、その表情はまだどこか辛そうで、心配が胸をよぎる。
 だが、悠一が自分から話し出すまで、きっと何も言わないのだろう、そういう人だとわかっている。
 ため息をついて、ソファに寄りかかると、とんと、肩に重みが乗っかった。

 悠一が菜摘の肩に頭をもたれさせたのだ。そんな大勢になったことはなくて、心臓が一度だけ音を立てた。

「…なぁ、お前さ、」
「…うん?」
「…仕事でさ、客に罵倒された事ってあるか?」
「…え、うん、そりゃ…」

 そうならないように努力はしているが、失敗することもある。新人の時なんか目も当てられないくらいだった。
 今でこそ、そんな事はなくなったが、新人のミスを肩代わりするのも仕事のうちで、怒らせてしまったクライアントに怒鳴られることだってある。
 対人の仕事だからこそ避けては通れない事だ。もちろんそうならないように日々努力も教育もしているが、それでもそういう日はある。

 接客業をやっている人ならそれはもっと顕著だろう。そんな事を聞いてくるって事は、悠一もそうされたのだろうかと、頭を掠めた。

「…俺さぁ、これでも自分の腕にそれなりの自信はあるんだよ、修行だってしてきたしな」
「うん」
「…まずいって言われた」
「…え?」
「まずいってさ。こんなもんで金取るのかって、言われた」
「え、それって、悠一の料理が? え? どうして? あんなに美味しいのに!」

 思わず口からこぼれた本音に、視線だけを菜摘の顔に向けた悠一のそれと目があって、途端に恥ずかしくなってしまう。
 だが言葉を覆す気はなかった。彼の料理がまずいなんてそんな事、あるわけがないのだ。現にこないだ食べたビーフシチューは本当に美味しかったのだ。
 失礼な話、まずいといったお客様の方の味覚がおかしいんじゃないかとまで思う。

 しどろもどろにそうつなげると、彼はかすかに笑って、菜摘の手を握った。

「…だよなぁ。俺の料理、うまいよな」
「…美味しいよ。まずいって思う方がどうかしてるよ」
「…だよなぁ。…きっと、虫の居所が悪くて、誰かに絡みたかっただけなんだろうな」
「…そうだよ。失礼だし身勝手にも程があるけど、悠一がそんなに気にする必要ない。絶対」
「だな」

 彼は笑うが、その心の重石を取り除いてあげられたかどうかはわからなかった。

 黙り込んだ彼に、菜摘がそっとその視線を向けると、彼女の肩に持たれたまま静かな寝息をたてている。
 相当飲んでいたし、寝落ちしても仕方ない。
 その眉間に皺が寄ってない事にほっと胸をなでおろして、菜摘は彼の頭をそっと撫でた。

 こんなふうに、弱っている姿を見るのは本当に初めてで、菜摘は嬉しいと思う反面、なんだか落ち着かなくて仕方なかった。


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