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3章
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あの人────雫は、”天”の精霊の1人だ。
雨系の精霊の中で、あたたかみのある雨を降らす者で、誰からも慕われていた。
彼が雨を降らすと大地は潤い、植物は活き活きとし、湖は美しい波紋を広げ、自然は歓喜に満ち溢れる。
それだけではない。雫は枯れそうになっている植物には優しく、泣いている人間には慈しむように雨を降り注ぐ。時には外出の用事がある人間のために雨を降らすのをやめたことも。
雫の心は誰よりも広くて温かくて、万物を愛している。
露は正式には”天”ではないのに”天”にいることを許されたのはきっと、雫の持つ生きとし生けるものへの愛のおかげだろう、と露は思っている。
今から百数十年前に露は生まれた。
正しくは”生み出され”た。
彼女は”天”の優秀な頭脳を持つ研究員たちが開発した、降雨機の精霊だ。
研究員たちにとって露の存在は偶然の産物に過ぎなかった。まさかこの機械から生まれるなんて、と。
精霊のほとんどが自然界のものから生まれるため、露の存在は特異に見られ、忌み子だとささやかれもした。
そのため生まれてからしばらくの間、”天”での居場所が無いに等しかった。表情筋を動かす、ということも学べなかった。
他の精霊から嫌がらせを受けることはなかったが、存在自体がないように扱われていた。そのことに対してつらいとか、苦しいという感情はなかったが無性に悔しかった。実は負けず嫌いな所があると感じたのも、ちょうどこの頃だった。
そんな中。露は雫と出会った。
いつも通りひとりぼっちで過ごしていた露は、暇だからと人間界に降りてフラついていた。
これはほぼいつもの習慣だ。人間界というのは様々な人間がいておもしろい。
水色の着物に身を包んで町を歩いていると、自分も人間であるかのような錯覚に陥る。
でもそれは一瞬で消されてしまう。自分と見た目が同じ年代の少年少女を見た時に。
風車に息を吹きかけて回して笑う姿。5、6人で集まって何して遊ぶのか話し合う姿。幼なじみ以上の感情で見つめあっている姿。
それは露には無いものばかりで心細い。
寂しさを抱えたまま水茶屋に入って熱いお茶を注文した。
精霊もお金を持っている。もちろん、それなりに働くことが必要だ。
人間界で正体を隠して商人に雇ってもらったり、作ったものを売ったり。
露は気まぐれに森で取ってきた蔓で籠を編む。教わったり書物で知ったわけではないのに、手が勝手に器用に動き出す。他の者が手を添えられているように。
その蔓籠は高度があってよく売れる。露はそのお金で駄菓子を買ったり、今日のように茶屋に入る。
今日はお茶を飲んでそのまま帰ろう思っていた。雲行きが怪しく、そのうち雨が降り出しそうだったから。
だが雨が降るより先に、露の前に雨の精霊が現れた。
「やっほー。露、だよね」
店の軒先に腰掛けていた露は顔を上げた。そして大して興味がないような冷めた声を返した。
「うん」
「え…そんだけ? もうちっとなんかしゃべろーぜ。親父、冷茶1つ!」
男は露の態度に害することなく、店の者にお茶を頼んで露の隣に座った。
陽気そうに口笛を吹いてお茶を待つ姿は、露とは正反対だった。
「何かあった? 楽しいこと?」
男は視線を空の方に巡らせてから露の方を向き、ニカッとした笑いを見せた。
「別に?」
「じゃあなんでヘラヘラ…」
「あ、そう見えた? ごめん、俺いっつもそうなんだわ…アマテラス様にも”もう少しシマリのある顔をせい”って怒られるんだよな」
「ふーん…」
2人は運ばれてきたお茶を手に取ると、ほぼ同じタイミングで一口飲む。
男は湯飲みを置くと、思い出したように名乗った。
「そーいや俺の名前言ってなかったな。俺は雫」
「知ってる」
「え?」
「言われなくてもしってる。有名人だから」
露がそう返すと、男────雫は照れたように頭をかいた。
「あっ、そう? なんだよ。知ってたなら早く言ってくれよー」
「存在、目立つから」
露が横目で雫のことを見ると、彼はのほほんとした笑いを浮かべた。
「そうだったのか。でも、露だって目立ってるじゃないか」
「…悪目立ちでしょ」
露が瞳の影を濃くし、空気をも冷やしてしまうような冷徹な声を出すと、雫は慌てて言い繕い始めた。
「わ! ごめん、嫌みとかじゃないんだ。俺は露のことを、他のヤツみたいな目で見てないよ」
露は怪訝そうに雫の顔を見た。彼からはさっきまでのヘラヘラとした様子が消え、シマリのある顔になった。
「あんたは────」
「うん?」
例えそれがお世辞でもうれしかった。1人だけでも、自分を疎んでいない精霊がいることに。
雫はにこやかな表情で露を見つめている。真面目な顔はあの一瞬だけだったようだ。
露は雫に向けていた視線をそらし、湯飲みに口をつけてポツリとつぶやいた。
「…何もない」
雫はそれに帰すことはなく、湯飲みを一気にあおった。
雨系の精霊の中で、あたたかみのある雨を降らす者で、誰からも慕われていた。
彼が雨を降らすと大地は潤い、植物は活き活きとし、湖は美しい波紋を広げ、自然は歓喜に満ち溢れる。
それだけではない。雫は枯れそうになっている植物には優しく、泣いている人間には慈しむように雨を降り注ぐ。時には外出の用事がある人間のために雨を降らすのをやめたことも。
雫の心は誰よりも広くて温かくて、万物を愛している。
露は正式には”天”ではないのに”天”にいることを許されたのはきっと、雫の持つ生きとし生けるものへの愛のおかげだろう、と露は思っている。
今から百数十年前に露は生まれた。
正しくは”生み出され”た。
彼女は”天”の優秀な頭脳を持つ研究員たちが開発した、降雨機の精霊だ。
研究員たちにとって露の存在は偶然の産物に過ぎなかった。まさかこの機械から生まれるなんて、と。
精霊のほとんどが自然界のものから生まれるため、露の存在は特異に見られ、忌み子だとささやかれもした。
そのため生まれてからしばらくの間、”天”での居場所が無いに等しかった。表情筋を動かす、ということも学べなかった。
他の精霊から嫌がらせを受けることはなかったが、存在自体がないように扱われていた。そのことに対してつらいとか、苦しいという感情はなかったが無性に悔しかった。実は負けず嫌いな所があると感じたのも、ちょうどこの頃だった。
そんな中。露は雫と出会った。
いつも通りひとりぼっちで過ごしていた露は、暇だからと人間界に降りてフラついていた。
これはほぼいつもの習慣だ。人間界というのは様々な人間がいておもしろい。
水色の着物に身を包んで町を歩いていると、自分も人間であるかのような錯覚に陥る。
でもそれは一瞬で消されてしまう。自分と見た目が同じ年代の少年少女を見た時に。
風車に息を吹きかけて回して笑う姿。5、6人で集まって何して遊ぶのか話し合う姿。幼なじみ以上の感情で見つめあっている姿。
それは露には無いものばかりで心細い。
寂しさを抱えたまま水茶屋に入って熱いお茶を注文した。
精霊もお金を持っている。もちろん、それなりに働くことが必要だ。
人間界で正体を隠して商人に雇ってもらったり、作ったものを売ったり。
露は気まぐれに森で取ってきた蔓で籠を編む。教わったり書物で知ったわけではないのに、手が勝手に器用に動き出す。他の者が手を添えられているように。
その蔓籠は高度があってよく売れる。露はそのお金で駄菓子を買ったり、今日のように茶屋に入る。
今日はお茶を飲んでそのまま帰ろう思っていた。雲行きが怪しく、そのうち雨が降り出しそうだったから。
だが雨が降るより先に、露の前に雨の精霊が現れた。
「やっほー。露、だよね」
店の軒先に腰掛けていた露は顔を上げた。そして大して興味がないような冷めた声を返した。
「うん」
「え…そんだけ? もうちっとなんかしゃべろーぜ。親父、冷茶1つ!」
男は露の態度に害することなく、店の者にお茶を頼んで露の隣に座った。
陽気そうに口笛を吹いてお茶を待つ姿は、露とは正反対だった。
「何かあった? 楽しいこと?」
男は視線を空の方に巡らせてから露の方を向き、ニカッとした笑いを見せた。
「別に?」
「じゃあなんでヘラヘラ…」
「あ、そう見えた? ごめん、俺いっつもそうなんだわ…アマテラス様にも”もう少しシマリのある顔をせい”って怒られるんだよな」
「ふーん…」
2人は運ばれてきたお茶を手に取ると、ほぼ同じタイミングで一口飲む。
男は湯飲みを置くと、思い出したように名乗った。
「そーいや俺の名前言ってなかったな。俺は雫」
「知ってる」
「え?」
「言われなくてもしってる。有名人だから」
露がそう返すと、男────雫は照れたように頭をかいた。
「あっ、そう? なんだよ。知ってたなら早く言ってくれよー」
「存在、目立つから」
露が横目で雫のことを見ると、彼はのほほんとした笑いを浮かべた。
「そうだったのか。でも、露だって目立ってるじゃないか」
「…悪目立ちでしょ」
露が瞳の影を濃くし、空気をも冷やしてしまうような冷徹な声を出すと、雫は慌てて言い繕い始めた。
「わ! ごめん、嫌みとかじゃないんだ。俺は露のことを、他のヤツみたいな目で見てないよ」
露は怪訝そうに雫の顔を見た。彼からはさっきまでのヘラヘラとした様子が消え、シマリのある顔になった。
「あんたは────」
「うん?」
例えそれがお世辞でもうれしかった。1人だけでも、自分を疎んでいない精霊がいることに。
雫はにこやかな表情で露を見つめている。真面目な顔はあの一瞬だけだったようだ。
露は雫に向けていた視線をそらし、湯飲みに口をつけてポツリとつぶやいた。
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