しにたがりコスプレイヤーと歌精霊

堂宮ツキ乃

文字の大きさ
1 / 6

しおりを挟む
 お風呂、トイレ、真っ暗な布団の中。自宅で安心できる場所は閉鎖空間だけ。

 紗良さらは頭まで布団をかぶると目をぎゅっと閉じた。この目が二度と開かないように、意識が飛んで戻ることがないように。それが叶わないのなら布団の中の酸素が無くなって息ができなくなったらいい。朝なんて永遠に来なくなったらいい。

(しにたい…………)

 閉じた目から冷たいものがあふれでる。眠たくて仕方なかったはずなのに涙で潤った瞳が冴えてきた。





「バカ! なんでこんな問題も分からない!!」

 帰宅してからというもの、紗良は算数のドリルに取り組んでいた。

 ページをめくって応用の問題が目に飛び込むとめまいを覚えた。晩御飯の時間になっても鉛筆は動かず、頭の中でぐるぐると数字が嵐を起こすだけ。

 算数は低学年の時から苦手だった。苦手なんて単純な言葉では表現できない。もはやアレルギーだ。

 突然、母親が地響きを起こしながら近づいたと思ったら紗良は床に伏していた。ドリルは壁に叩きつけられ、ページが開いて落ちる。

「はい……」

「返事をして何になる、このバカ! 晩御飯はなしだ!」

 強い語気が飛んでくるたびに肩が跳ね、母親はその様子が気に入らなかったらしい。今度はちゃぶ台をひっくり返され、筆箱が下敷きになった。

 小学校に上がる前、ファンシーショップで母親に買ってもらった筆箱。クローバーをたくさんあしらったポーチ風のデザインに一目ぼれした。

 紗良は声を上げることも涙を流すこともなく、むくっと身を起こすと背中を丸めた。手足は震え、母親の顔を見ることができない。彼女はちゃぶ台の端を掴むと紗良の耳をかすめて乱暴に放った。

 彼女はその様子を見ていた妹と弟にゆっくりと歩み寄ると「さ、ご飯にしよ」と背中を押した。





(なんであたしだけ……)

 涙は頬を滑って枕にしみこんでいく。こんな風に夜を過ごすのは何度目だろう。

 宿題が終わらないからと夜遅くまで寝かせてもらえない日が度々ある。学校では21時までに寝ることを推奨されていたし、普段は夜更かしを禁止しているくせに。

 結局ドリルは解けなかった。電気を消す前に時計を見た時、針は11時を示していた。妹と弟はもちろん母親もすでに布団の中。暗い中布団へ滑り込むと威嚇するような寝息に心臓が縮んだ。

『バカは学校に行かなくていい!』

 母親は寝る前、ランドセルをクローゼットの中へ投げつけた。

 祖父母と選んだ桜色のランドセル。

 母方の祖父母は厳しすぎる母親の言動に苦言を呈したことがある。その場では「私もやり方があったかもしれない」としおらしい態度を取ったが、帰りの車内で怒声を浴びせられた。それはそれは華麗な逆ギレ。そのせいでしばらく祖父母宅に行けなくなってしまった。

『あんたのせいで不愉快な思いをした! 文句があるなら直接言え!』

 実の娘だが祖父母もお手上げ。母親にされたことについて同情はしてくれるが「紗良ちゃんも頑張ってるのだから……」と控えめに庇うのが限界らしい。

 教室の隅で陰気をまとっていると先生が声をかけてくれるが、理由を話しても笑い飛ばされるか見当違いな慰めの言葉をかけるだけ。

『え~? 柴山しばやまさんのお母さんが~? あんなに優しいお母さん、先生見たことがないよー』

『お母さん、お一人で三人も育てたんだからわがまま言ってちゃダメ。長女は下の子の面倒見てお母さんを助けなきゃ』

『大丈夫。心から謝ればお母さんも分かってくれますよ。お姉さんだけ愛していないなんて親はいません』

 それはクラスメイトも同様。授業参観で笑顔と穏やかさをまとった母親があいさつをすると、紗良の心の叫びを一笑に付すようになる。

『いいなー紗良のお母さん。全然怒らなさそう』

『あたしも親に叩かれるよ? もっとつらい目に遭ってる人が他にいるんだよ。二組の男子の話知らないの?』

 誰も真剣に話を聞こうとしない。深堀してくれない。紗良の言葉を少しだけすくうと自分の解釈で話を進める。

 母親とうまく付き合っていきたいとか、妹と弟だけでなく自分にも優しく接してほしいとか、そういう話ではない。母親から一刻も離れたい。あの家に帰りたくない。せめて祖父母宅で暮らせたら。

 それを口に出せば母親は烈火のごとく怒り狂うだろう。嫌われるようなことをしているのは自分なのに、それを否定すれば被害妄想に走って紗良を責め立てる。お前のせいだ、お前のやること為すこと全てが人を小馬鹿にしている、と。

 どこにも居場所がなくて夜な夜な一人で泣くことしかできなかった。










 気づくと真っ白な空間で涙にまみれた頬を押しつぶしていた。布団の中とは違って楽に呼吸ができ、母親の気配にビクつくこともない。

「お嬢さん」

 ゆっくりと目を開けると顔に手が伸びた。

 大きな手は父親の姿を思い起こさせる。そんな父の姿を最後に見たのは小学校に上がる前。仕事に行く、と家を出た背中を見送ったきり。

「お父さん……」

 口から出たのは二年ほど口にしていなかった言葉。口に出せば母親が顔をしかめるからだ。テレビから父、という単語が聞こえてくるだけで紗良の背中には滝のように冷や汗が流れる。

 すると大きな手が紗良の目尻をそっと拭った。前髪を払うと紗良を抱き上げ、背中をさすってくれた。

「何がお嬢さんにそんな顔をさせるのですか」

 顔を上げると見たことのないお兄さんと目が合った。

 透明感が高い水色の瞳は一見冷たいが優しさが全面に押し出されていた。薄い唇には穏やかな笑み。こんなにも慈愛に満ちた表情で見つめられたのはいつぶりだろう。

 耳に心地よいバリトンボイスは初めて聴くタイプの声だった。風に吹かれたやってきたビロードのマントが優しく包んでくれるような艶のある声。

「うっ……」

「おやおや。何も怖いことはありませんよ」

 お兄さんは激しく泣き出した紗良の背中をさすり続け、「大丈夫、大丈夫ですよ」とささやいた。

 広い胸に顔を押し付けたのは記憶の限りで初めての経験だ。校長先生のようにスーツを着た彼は涙にまみれたジャケットを気にせず、紗良を抱きしめたまま身体を揺らした。まるでゆりかごだ。

「話せるようになったら聞かせてください。あなたの涙の理由を」

 お兄さんは泣きじゃくる紗良のことを邪見に扱うことはなく、いつまでも待っていてくれた。何度しゃくりあげても怒気のこもったため息を吐かなかった。

 家で泣けば母親に「うざい」と顔を背けられ、学校では弱虫だと教室の隅に追いやられる。誰も紗良の心の叫びを聞こうとしなかった。

 誰でもいいから話を聞いてほしい。いつからか神様に願うようになった。最もそんな存在が実在したら紗良にこんな障壁なんてなかっただろう。

「しにたいよ……」

 やっと絞り出した声は震え、強弱が不安定だった。鼻水をすすったせいでむせてしまった。

「……穏やかではありませんね」

 お兄さんは声を一層低くすると目を細めた。氷のような鋭さを持ったが不思議と怖くなかった。

 この人だけは寄り添ってくれる。最後まで話を聞いてくれると、なぜか信じることができた。

「長く生きられない人にあたしの命をあげたい……どうして優しいお母さんこそ早く死んじゃうの」

 紗良はテレビで見たことがある闘病ドラマを思い出していた。

 病気になり、長く生きられないと知った彼女は一児の母親。優しい夫と可愛い子どもと普通に暮らしていたのに、医師から重い宣告を受けた。

 髪が抜け、顔は痩せこけ、体は今にも折れそうなほどか細くなっていく。日に日に話すことも難しくなっていく彼女だったが、家族がお見舞いに来ると別人のように明るくなる。

 子どもが、夫が愛おしい。実の両親も大好き。周りもそんな彼女のことを愛していた。太陽のような存在でいつも周りを照らしてくれる、と骨ばった手を包み込む。

「私が代わりに死ねたらよかったのに……」

 ドラマを見終わった直後に流れた涙の意味は他人とは違う。自分には無条件に愛を降り注いでくれる人も、心から信頼できる人もいない。

 そして知った。優しい人ほど早く亡くなるのだ、と。

『いい人は神様がそばにいてほしいから早く死んじゃうんだよ』

 ドラマが放送された次の日に教室で聞こえた言葉だ。

 その時、妙に納得してしまった。神様は紗良の母親も紗良のこともいらないからこの世で生きているのだ、と。

 ふと、彼は紗良の頬にそっと手を添えると額に唇を押し当てた。

「では……いつか私が迎えに来ましょう」

 キスを落とされた箇所を手で覆うと、お兄さんは一層笑みを深くした。そして紗良をこわれもののようにそっと地面におろす。

「いやだよぅ……」

 紗良は後を追うように腕を伸ばした。

 いつか、は嫌だ。今すぐにでも連れ去ってほしい。

 彼は逡巡するように視線をめぐらすと膝に手をつき、紗良の頭をなでる。背中を見せた彼を追いかけようと手を伸ばすと背中に強い衝撃を覚えた。










「起きろ!」

 朝だ。恐れていた夜明け。お兄さんもいない。いるのは朝から悪魔のような形相で蹴りを入れる母親と、彼女の愛おしい存在である妹と弟。朝ごはんが用意された食卓で持ち手の大きなスプーンやフォークで食器をガチャガチャと鳴らしている。

「まーたお口汚してぇ。保育園で笑われちゃうよ?」

 母親の猫なで声に箸がにじんだように見えた。いただきます、とつぶやく声もかぼそくて震える。

 聞く人によっては気色悪い、と思うだろうが紗良にとっては貴重な母親の優しい声色だった。

 自分も小さい頃はこんな風に甲斐甲斐しく世話をしてもらったのだろうか。あんなに穏やかな目で見つめられただろうか。

 味噌汁のお椀に口をつけるとやけにしょっぱく感じた。

 その後、食事を終えて身支度を整えてアパートを出た。二階建てのアパートは向かいには川がある。夏になると高学年の男子が遊んでいるのを見かけるが学校では禁止されていた。過去に死亡事故があったらしい。

(お兄さん……。しんだら会えるかな)

 紗良は水底を虚ろな目で見つめた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

女性が少ない世界でVTuberやります!

dekoma26+ブル
恋愛
ある日朝起きてキッチンに行くとそこには知らない男性たちが! …え、お父さん⁉ なぜか突然女性の少ない世界に来てしまった少女がVTuberをしたり、学校に通ったりするお話。 ※忘れてなければ毎週火曜・金曜日の夜に投稿予定。作者ブル

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

処理中です...