推しのおじさんにガチ恋しない

堂宮ツキ乃

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 展示会から早数週間。

 ゆいなは元カレと再会したことでトラウマがよみがえり落ち込んでいた。しかしそれを怒りに変え、仕事に没頭した。

「何その男! 私が一緒にいたらブチ殺してやったのに!」

「まぁまぁしのちゃん……」

 ある日の休み。ゆいなはしのと共にカフェでお茶をしていた。

 ゆいなの心に整理がついたので、展示会での一部始終をしのに話した。すると彼女はゆいな以上に怒り狂った。手にしているフォークを捻じ曲げてしまいそうなほど。

「潰れてまえそんな店ぇ!」

「しっ! 声!」

 休日でせっかくキレイめの格好をしているというのに、しのの口は毒を吐き散らしていた。ここがテラス席で回りに誰もいなくてよかった。

 夏休み最後の週の街は、最近に比べて人が少なかった。このカフェにいるのはゆいなたちと同年代の女子グループやカップルばかりだ。

「それよりこの席、日陰で涼しくていいよね! このケーキもすごくおいしいし!」

 話題をそらすと、しのは手元に視線を移した。

 二人の前にあるのは桃をまるごと使ったケーキ。しかもその桃が大きい。おやつにしては量が多いしお値段もいいが、日ごろのご褒美と称して注文することにした。

「私だったら殺人事件起こしてたけど、木野さんは颯爽と現れて中野ちゃんのことを連れ出してくれたのかー。イケメンはやることが違うよねぇ~」

「うん……」

 守るようにそばに立ってくれた時の体温を思い出す。同時に、急上昇した自分の体温も。

 ゆいなは真っ赤になるとうつむいた。

 しのはニヤニヤしながらゆいなのことを見ると、わざとらしくため息をついた。

「そのまま家に送ってくれたんでしょ? 本当は木野さんの家に連れてかれたとかじゃないの~? もしくは木野さんが中野ちゃんの部屋に上がり込んだとか」

「ち……ない! ないってば! 木野さん紳士だもん!」

 しのは椅子から体を浮かすと、ゆいなの肩をつつきまくった。

「あーそおぉ~? あれからあなたたち、さらに仲良くなったと思ったんだけどなぁ~?」

 ゆいなは真っ赤な顔でしのの腕を叩き返す。

「どこが!」

「仕事中に顔を合わせるとニコニコしてるよね」

「目が合えば普通のことでは……」

「中野ちゃん、推し語りしなくなったじゃん」

 しのの突然の真顔にゆいなは固まった。

 本当は自分でも気が付いていた。

 木野が花の水替え中に思い切り水を浴びて髪からしずくがしたたるところを見ても、冷静にタオルを渡していた。今までだったら”きゃー水もしたたるいい男ー!”と高い声を上げていただろう。

 他にも木野にほほえみかけられるたびに”眼福”……と手を合わせていたのにやらなくなった。ドキドキして顔を赤くするだけ。木野のほほえみも優しさがさらに凝縮されたように見える。

 木野の行きつけの居酒屋に行かなくなったのは、終始至近距離で過ごしていたら呑むどころではなくなるから。

 まばたきすらしなくなったゆいなを見つめると、しのは小さく笑って座り直した。

「推しにガチ恋しちゃったんでしょ」

「推しをそういう意味で好きになるのは解釈違いだと……」

「あ、ごめん違うわ────推しじゃない! 好きな人でしょうが!!」

 しのが熱い声を放った。

 ここは日陰で涼しめだが、夏の本来の暑さを思い出させる。

 彼女はテーブルに肘をつくと、流し目になった。

「いい加減素直になりなさいよ。それに……そういう意味で好きじゃなかったら、デートの服選びに人を頼らないと思うんですけどー?」

「うっ……」

 それもそうだ。

 今日は木野と出かけるので服を買いたい、としのに付き合ってもらっている。

 もしなんでもないお出かけだったら、この前一緒に選んで買ったワンピースとかちょっとキレイめの服を着ていけばいい。

「その感じだと木野さんも中野ちゃんのこと好きなんじゃないの?」

「それは……そうなのかな……」

「そうでしかないでしょ! なんでもなかったら二度目のお誘いはないでしょ! 仕事中に家まで送ってくれないやろ!」

 ゆいなの体がビクンと跳ねる。

 木野が自分のことをどう思ってるかなんて、恋愛経験が少ないゆいなでも察し始めている。

 本当にそんなことがあっていいのかと、心のトラウマが答えを出すのを邪魔する。

「……告白しちゃいなさいよ」

「こっ……こぉ!?!?」

「……恋愛に関しては中学生よね…………」

 しのは肩をすくめてお手上げポーズをしている。半笑いをしているあたり、楽しんでいるようだ。

「だって……付き合っても離れてるんじゃあ……」

「何?」

「う、ううん」

 瀬津からは口外禁止にされている異動の話。彼はどうしてもこちらにいてほしいらしい。

 しかしゆいなは”お世話になった富橋支店が大変なら……”と、帰ることを決めかけている。最近は、富橋支店時代の友人たちからもそういった内容の連絡を受けていた。










 しのと新しい服を買ったゆいなは、次の週にそれを着てマンションの下へおりた。

 水色の膝丈のシャツワンピースで、黒い太目のベルトをウエストに巻き付けている。足元にはヒールがついた白のパンプス。

 髪はハーフアップにし、母親からもらったバレッタで留めた。青い花弁をたくさん散らしたバレッタは涼し気で、夏にぴったりなデザインだ。

 お昼が過ぎると日差しは一層強くなる。ゆいなは”ちょっとの間だけど……”と日傘を差した。

「あ、ゆいな。あーたどこ行くん?」

 道路を挟んだ家の庭から家主が話しかけた。

 あけこだ。彼女は園芸用鋏を片手に立ち上がった。今日も作業をしているらしく、腕には長い手袋をしている。

 彼女の足元にあるフェンスの前では、真っ赤なブーゲンビリアが咲いている。赤い部分は花に見えるが、それは花を取り巻く苞葉ほうようだ。実際の花は苞葉の中央に咲く小さな小さな点のようなもの。ゆいなからは見えない。

 あけこは帽子のつばを上げるとゆいなの格好を、頭のてっぺんからつま先までじっくりながめた。”ええやん”と感想を言って作業に戻ろとしたが、彼女はバッと振り向いて目を見開いた。

「またデートやな!? この前よりスカートの丈短くなっとるやんけ!」

「めんどくさいのに見つかった!」

 ゆいなは日傘を前に倒してあけこの視線を遮った。

「なんやねん、教えてくれてええやん。また木野ちゃんか?」

 その瞬間、二人の間に一台の車が滑り込んできた。

 真っ青なハッチバック。窓が開き、運転手が顔をのぞかせた。

 しかし、真っ黒なサングラスのせいで素顔が分からない。

 もしかして怖い人……と、ゆいなはさりげなく背を向けようとした。それと同時に運転手はサングラスを外し、片手を上げた。

「中野ちゃんおまたせー」

「ぎゃーなんちゅうタイミングで! てか木野さんかい!」

 木野は再びサングラスをかけると口元を横に伸ばした。

 車の向こう側ではあけこがフェンスに寄り掛かった。

「木野ちゃんや~ん」

「こんにちはー」

 木野は反対側を向いてあけこに会釈した。

 彼女は二人を見比べるとニヤニヤと口角を上げた。

「なんや、そういうことか。まぁ二人で楽しんできや」

「はい。行ってきまーす」

「なんなら今日は帰って来なくてもええで」

「全くこのおばはんはぁ!」

「うらやましいわぁ若いわぁ」

 ゆいなが怒ったのに動じず、あけこは笑いながら背を向けた。





 木野の運転姿を見るのは展示会の帰り以来だ。ただ、あの時はすぐに寝てしまったのであまり覚えていない。

 今日はしっかり拝もう……と心に決めていた。が、彼の引きしまった腕がまぶしくてそれどころではない。

 今日の木野は白地に黒のペイズリー柄が散らばった半袖のシャツ、黒のテーパードパンツ。シックに決めた彼も当然かっこいい。腕時計はお気に入りなのか緑のベルトのもの。おまけに真っ黒なサングラス。

「まぶしい……」

「まぶしい?」

 心の声が漏れ出た。車内なので木野にしっかり聞こえたようだ。

「今日天気いいもんなー」

 赤信号で止まると、彼はゆいなの座席の上のサンバイザーを下ろした。

 今日の彼の感想なのでサンバイザーは意味がない。ゆいなは顔を覆ってうつむく。意外なアクセサリーが似合う彼のポテンシャルの高さに静かに悶えた。

 水族館が近くなると、車内では仕事の話題になった。

「最近は木野さんや瀬津さんは外出することが多かったですね」

「展示会の後にお問い合わせがたくさん来たからね。中野ちゃんたちのおかげで取引先が増えたよ。支店長も大喜び」

 木野によると、オレンジのエプロンの男性がゆいなのことを絶賛していたらしい。

 彼は部下から”いいお菓子を扱っている会社がある。商品説明が丁寧な女性がいた”と報告を受け、自らブースに訪れることを決めたそうだ。

 元々名前を知っていた会社で、手土産を携えて訪れたらビンゴ。

 許されるならゆいなを引き抜きたいと、半分本気で木野に話したそうだ。

「それで……木野さんはなんと」

「重宝してる社員だから困りますって丁重にお断りしたよ」

 高速を下りて最初の信号で停まる。木野はゆいなのことを見ると二カッと笑った。子どものような笑顔がまぶしい。

 いつものようにワックスで横に流していない前髪がふわふわしている。

「そんな……。私のことをそんなに買ってもらえるなんて……」

「ちょっと待て。まさかあちらの会社に心揺らいだりしてないよね!?」

 恥ずかしさでうつむくと、肩に手をかけられた。

 心が揺らいだのはどちらかというとあなたからの褒め言葉です。

 そんなことが言えるわけもなく、ゆいなは”さぁどうでしょうね……”とはぐらかした。

 水族館に到着し、ゆいなが入り口で財布を取り出そうとしたら止められた。

「え、ダメです! 今日は車を出して頂いてるし前回だってあんなに……」

「俺から誘ったから。君は俺の隣でニコニコしていて」

「ニコニコ?」

 ゆいなが呆気に取られている間に木野は入場料を払った。入場券を彼女に渡しながら”行こうか”と笑いかけた。

 館内は薄暗くて涼しかった。

 歩き始めると大きな水槽から小さな水槽がある。北太平洋の海など地域によって生き物が展示されていた。

「中野ちゃんはお魚好き?」

「好きですけどどちらかというと食べる方が」

 二人の前を大きなエイが優雅に泳いでいく。その下にはサメがジッとして、目だけをキョロキョロさせている。

 時々アジやカンパチなどの食べられる魚も通過する。

「俺も。回転寿司とか好きなんだ」

「私もです! しのちゃんとの買い物帰りにも行ったんですよ」

「へぇ、何買ったの?」

 木野の前をマンタが大きな身体を上下させ、泳いでいる。

 ゆいなは地べたで寝そべっているサメのように目を泳がせ、自分のことを指さした。

「こ、これです……」

 余計なことを話してしまった気がする。今日を楽しみにしていてめちゃくちゃ気合を入れた人に見えたことだろう。

 急に今日の格好が恥ずかしくなって顔を背けた。しかし木野が追い、顔をのぞきこんでほほえんだ。

「今日もかわいい」

 また褒めてもらえた。さらっと人のことを褒められる彼の笑顔がまぶしい。

「木野さんだって今日もかっこいいです!」

 前回は帰り際になってしまった言葉。今日は早い内に言えた。

 本当にそう思っていることを知ってほしくて、声は自然と大きくなっていた。





 水族館は親子連れやカップルでいっぱいだった。

 今日も前回のように周りにはカップルに見えるのだろう。二人の間には微妙な距離があるが。

「特別展だって」

 木野が壁を指さす。そこには『クラゲ特集! 映えること間違いなし! あなたの知らないジェリーフィッシュの世界』と書かれたポスターが貼ってあった。

「クラゲって英語でジェリーフィッシュって言うんですね」

「ん? そうだね」

「……今、こんなことも知らないんかいって思ったでしょう」

「違う違う、中野ちゃんのことだからおいしそうな名前、って思ってそうだなって。ゼリーみたいで」

「確かにちょっと思いましたけど! 顔が半笑いになってるんですよ!」

 勢いで木野の腕をはたいてしまった。彼は嫌な顔をしたり手を払ったりすることはなく、低音ボイスで笑っている。

 しのの行動が移ってきたのだろうか。筋肉部長や瀬津相手だとこういうことをするようになった。それがとうとう木野にまで。

 狙ってスキンシップをした、と思われたくない。ゆいなは体をぐりんと正反対の方向へ動かすと指さした。

「さ、さっそくクラゲ見に行ってみますかね! あっちですー!」

「こっちだよ!」

 テンパって駆けだそうとしたら木野に腕を掴まれ、軌道修正された。

「あ……ごめん」

 ゆいなが驚いて固まっていると、彼は手を離した。申し訳なさそうに眉を落としている。

「おじさんなんかがごめんね。嫌だよね」

「い……嫌じゃないです!」

 弱気な声に、謝ってほしくなくて首を振った。

「木野さんなら……嫌じゃないです」





 今度は木野が驚く番だった。後頭部をかいた格好のまま、固まった。

「それより早く見に行きましょう」

 先に歩き出したゆいなの頬が赤い。

 例のクラゲの特設展示場は、定期的にテーマを決めて生き物を展示しているらしい。来月は淡水魚を展示予定、と予告のポスターが貼られていた。

 入口は黒いカーテンで覆われ、外の光が遮断されている。

 カーテンをめくって入ると歩きづらいほど人がいた。皆、何基もある円柱型の水槽を囲んでクラゲに見とれていた。中にはクラゲが泳いでいる様子を動画に収めている者もいる。

 明かりは水槽の上にだけあり、薄暗い。ボーッとしながら歩いていると人にぶつかりそうだった。

「木野さん! クラゲがめちゃくちゃいますよ!」

 前を歩くゆいなが振り返った。

 クラゲと一口に言っても様々な大きさをしている。色も意外とカラフルだ。触手の長さ、かさの大きさなど、違いをあげ始めたらキリがない。

 木野は、全身が水色だったり赤茶色のクラゲを初めて見て驚いた。

 触手が七色に光るもの、パステルカラーのかわいらしいもの。

 親指の先っぽくらいのかさを小刻みに動かしているもの。それよりもさらに小さいサイズのもの。

 クラゲというより微生物のような形をしているもの。

 水中で舞わずに底でじっとしているもの。

 ゆいなは水槽の前に立ち止まると、水中を見回してため息をついた。

「綺麗……」

「クラゲってこんなに種類があるんだね」

「これとか刺されたら痛そうです」

「コイツ、触手長すぎて自分に絡まってない? ていうか隣のクラゲの触手を巻き込んでんじゃん」

「ホントだ!」

 ゆわんゆわんという音がしそうな優雅さで泳いでいるクラゲ。自分のかさを何周にもぐるぐると巻けそうな長さの触手は、かさが動くたびに波打っている。

 クラゲのゆったりとした動きに人間の足取りも遅くなる。ゆいなが水槽に見とれている間に距離が空きそうになってしまった。

「中野ちゃ……」

 呼びかけると、彼女も気が付いたらしい。人の波に飲み込まれそうになりながら木野の元へ向かおうとする。

 木野は思わず手を伸ばしたが、彼女が掴んだのはシャツの裾だった。

 これはこの前、瀬津と買い物に行った時に買ったもの。その日は彼の奥さんにも付き合ってもらった。

 デートをするから洒落た格好をしたいと話して。

 瀬津は『木野君告白するんだぜ~』とからかい口調で木野のことを親指でさした。

 瀬津の妻は昔、この会社の事務員だったので木野と面識がある。木野が独身で、長いこと彼女さえいなかったことを知っているので大層驚いていた。あのモテ男がとうとう運命の人に出会ったのか、と。

『木野君が好きになったのはどんなコなの?』

 わくわくとした様子の瀬津の妻に、ゆいなのことをたくさん話してしまった。

 しかし彼女は呆れるどころか、”はいはい知ってる。旦那に毎日聞いてるから”とニヤケていた。どうやら夫婦そろって人の恋模様を楽しんでいたらしい。

「すみません……。伸びちゃいますよね!」

 ゆいながシャツから慌てて手を離した。この前もそうだった。

 この仕草が可愛くてお好きなだけどうぞと、むしろこちらから差し出したいくらいだ。

「じゃあ……手を」

 おどけた様子でゆいなの手を取ると、彼女は小さく飛び上がった。しかし、手は逃げようとしない。

「あの……これ……」

「人多いから。これならはぐれないで済みそうだね」

 笑いかけると、ゆいなは口元を震わせてコクコクとうなずいた。

 小さな手だ。ほっそりとした指、マニキュアを塗った小さな爪。

 会社では爪を綺麗に塗っているのを見たことがない。もしかして今日のために……と思うと、頬がゆるんでくる。

 思わず笑みをこぼすと、”もーっなんですか!”とゆいながうつむいて首を振った。

「……めっちゃ恥ずかしいのですが」

「じゃあやめとく?」

「それは嫌です! ……あ」

「奇遇だね。俺も」

 木野は彼女の手を握ると、”あっちの方も見ようか”と連れ出した。





 クラゲの特設展示を後にすると、館内放送でイルカショーが始まると告げられた。よく見ると人が少なくなっている。ショーの会場へ移動した人が多いのだろう。

「見に行こうか」

「はい! 行ってみましょう!」

 ゆいなはいつもの調子で返事をしたが、内心ドギマギしていた。

 推しと手をつないで歩いている。半年前まではこんな関係になるなんて想像もしなかった。

 高身長の木野と手をつなぐと、いい腕のポジションが分からなくて歩きづらかったが慣れてきた。

 ただ、まだ緊張しているのでどれくらいの力で手を握り返したらいいか分からない。

 木野はと言うと、まるで大切なものを扱うかのような力加減。ちょっとした段差で手が引っこ抜けてしまいそうだが、彼の大きな手でしっかり包み込まれている。

 イルカショーが行われるのは屋上。二人でエスカレーターに横に並んで乗った。しのと移動する時は縦に並ぶのに。

 会場に着くと、あまりの広さに驚いた。横にも縦にも長い会場に観覧席が数多く用意されているのに、すでに親子連れでいっぱいだった。ショーを待ちきれない様子の子どもたちが、狭い通路を走って往復している。

 観覧席もすごいが、それを上回る規模のプールにも驚いた。

 小学生の時に泳いだ25mプール十個分じゃ足りない広さ。海と見間違えてしまいそうなほど、空の青を綺麗に映している。

 プールの奥、陸地になっている場所の上には大きなモニターがある。観覧席に座っている客をかわるがわる映していた。映った客は手を振ったり、驚いて口元を手で押さえたりしている。

 観覧席を眺めていた二人は立ち止まった。

「立ち見しかなさそうだな……」

「あっちの岩場はどうですか?」

 もちろん本物の岩場ではない。プールの横側を囲うように作られたものだ。ここはプールより高い位置にある。

「俺は見えるけど、中野ちゃん見にくくない?」

「大丈夫です! なんとなく見えます」

 岩場の一部にガラスが埋め込まれている。ゆいなはそこからプールの様子を伺うことにした。

 すると突然、流行りのアップテンポの曲が鳴り響いた。周りの高校生なんかは口ずさんでいる。

 プール奥の巨大なモニターに、大海原を駆けるイルカの映像が映し出された。

 それと同時に水面からイルカが派手に跳び上がった。突然だったので、前方にいる客が歓声を上げた。

 そこだけ座席の色が違う。座っている客の一部は水色のポンチョをかぶっている。

 プールの奥ではウエットスーツに身を包んだトレーナーが手を振っている。イルカたちは一斉に彼らの元へ泳いでいく。

「わーいっぱいいるねぇ」

 のんきな木野の声に笑った。

 奥の巨大なモニターには、たった今のイルカの大ジャンプがリプレイされていた。水中で力強く泳ぐ様子も映し出される。

 その後は見事なイルカショーが繰り広げられた。

 尾びれだけを使って直立で水面を移動したり、ステージに勢いよく跳び上がってつるーと滑ったりくるくる回ったり。

 なんといってもジャンプが見物だろう。トレーナーを勢いよく宙に跳び上がらせたのには木野も驚いていた。

 イルカが高く飛び上がって着水するたび、派手な水しぶきが客席にかかる。レインポンチョに身を包んだ客は明るい悲鳴を上げていた。

 夏限定のイベントと称し、シャチが大きな尾びれを使って客席に水を浴びせていた。今日も暑いし、ある意味いい水浴びかもしれない。ゆいなたちがいるところはノーダメージだ。

 ショーが終演すると、ゆいなたちはステージの奥の通路を進んだ。

 来た時とは逆の出入口が近くなると、そこには小さなプールがいくつもあった。そこではイルカやシャチがゆったりと泳いでいる。

「近ーい!」

 丸いプールに二頭のイルカがいる。プールに設置されたバーを飛び越えたり、バレーボールをくわえて遊んでいた。時々、頭のてっぺんからプシャーッと音を立てて呼吸をしている。

 プールに近づくとイルカが水面から尾びれをのぞかせた。

「可愛いなぁ」

「昔、子どもの頃にイルカをさわったことがあります」

「へぇ?」

「ここよりずっと小さな水族館なんですけどイルカがいて、手をさわったんです」

「手?」

「ヒレですね」

 あれです、とゆいなはイルカの一対のヒレを指さした。





 外に出ると西側の太陽は燃えるように赤く染まっていた。

 木野は目が細い方なので、夏に外にいるとまぶしさで目がなくなる。

 ここに来た時、車を降りたらゆいなが日傘を差してくれた。

 あれはなかなかいい。日差しがキツい真夏の昼でも、視界がはっきりとした状態で歩ける。

「今日も本当に楽しかったです」

「俺も楽しかったよ」

 一日の締めに入りそうになっている。このまま駐車場に向かったら、晩御飯を食べて解散になってしまう。

 木野は、”あっちにある花壇を見ようか”とゆいなを誘った。






 花壇には一面、ヒマワリの花。花壇というよりはヒマワリ畑と呼ぶのが合っている。大きな明るい花はそよ風を受けて優しく揺れていた。全員で同じ方向を向いて楽しそうに笑っているようだ。

 花壇の真ん中にあるフォトスポットに立つカップルもいた。花に囲まれて自撮りをしているらしい。彼氏は照れて直立状態だが、彼女は彼にぴったり寄り添っている。

 どちらもまだ幼い顔立ちをしている。彼女の方は大人っぽい服装だが、彼氏の方はまだ少年らしさが残った服装をしていた。

「高校生の頃に彼氏がいたんですけど、まだ子どもだったから。街中で手をつないで歩けないウブでした」

 幸せそうな学生カップルを見たせいか、自分の時のことを思い出す。そしてそれを口に出していた。

「それってこの前の……?」

「はい」

 ジュンヤと付き合い始めた高校三年生の時のこと。すでに進路が決まり、ぴりついていた心に余裕が生まれた。

 そして当時、同じく進路が決まっていた彼が好きだということを自覚した。もう少ししたら毎日顔を合わせることができなくなる、という寂しさも相まって。

 焦る気持ちと勢いで告白したら、OKをもらえた。

「……昔は本当にいい人だったんですよ、彼」

 誠実で勉強ができて運動ができて、顔もそこそこよかった。

 その頃は少女マンガみたいなイケメンとの恋に憧れていた。だから手をつないだり、デートの最後にキスをしてもらえたら……なんて、妄想にふけっていた。

 しかし、彼はゆいなを大切にして手を出すことはしなかった。高校に入学した頃から付き合いだしたカップルはとっくに経験済みだと聞いていたのに。

「……唯一のスキンシップは、私の頭をなでることでした」

「そんな感じしなかったけどなぁ……」

「大学デビューしちゃったんですよ、たぶん。大学は高校以上に人がいるでしょう? 私なんかより可愛くて綺麗な人がたくさんいたから、目移りしたんですよ」

「やっぱりクソ野郎だな……。展示会にいたってことは何かしらの関係者だよね、事業にしっp」

「木野さんはそういうこと言っちゃダメです!」

 ゆいなは立ち止まり、木野の手を強く握って制した。

「木野さんにその言葉が返ってきたら嫌です……」

 言霊。これもあけこに教えてもらったことだ。言い続けたことは叶う、と。だから逆も然り、だと思う。

 ゆいなは眉を落として木野のことを見上げた。

 優しくて温厚で、時々見せる口の悪さはいいギャップだ。正直胸キュンした。

 だが、そのせいで彼が痛い目に遭うのは嫌だ。

「君は優しいな。こんな時にまで人のことを考えて……」

 木野がゆいなの手をきゅっと握り返すと、そのまま彼女のことを抱きしめた。

「……俺は君にそんな顔をさせない。君のことを裏切らない」

「木野さん……?」

「中野ちゃん。俺と……」

「ダメです!」

 ゆいなは木野のことを突き放した。

 後に続く言葉は経験が浅いゆいなでも分かる。

 本当は抱きしめられて嬉しかった。あんな過去がなかったら拒絶することはなかっただろう。

 彼女は消え入りそうな声で視線をそらした。

「……本当は富橋に帰りたくない。仲がいい人がたくさんできて……」

 新しい職場で仲良くなった人たちの顔が次々に思い浮かぶ。

 しの、瀬津、西、今は遠くにいる真由子。カフェのおばちゃんたち。しかし誰よりも────。

 ゆいなは木野の大きな手を取ると、両手で包み込んだ。

 大きな手。初めてデートした帰りに内緒でふれたこともある。

 富橋支店でも楽しかったし、仲がいい人が多かった。しかし、それを上書きしてしまうほどに木野の存在はゆいなの心を大きく占めていた。彼が与えてくれる全てがゆいなの心に強く刻みつけられた。

 彼女はうつむき、木野から一歩離れた。

「たとえあなたと付き合うことができても富橋支店に呼ばれてるし……。もう、遠距離恋愛は怖いんです」

 木野は誠実だから、ジュンヤのようなことはしないだろう。だが、ジュンヤだって元々は誠実で真面目だった。

 木野が他の女の肩を抱いて歩き去る場面が思い浮かんでしまう。

 しかし、現実の彼はゆいなのことをまっすぐに見ていた。彼女の手をそっと握り返す。

「じゃあさ、遠距離が嫌なら俺のところに永久就職する?」

 その時、強い風が吹いた。周りのヒマワリが一斉に揺れ、ざわざわと音を鳴らす。

 世界に自分たちしかいないと思った。

 ヒマワリに囲まれているせいでお互いのことしか見えない。

 ゆいなが目を見開くと、木野の前髪がさらさらと流れた。その奥の瞳は切なく細められている。

「……こういう言い方しかできないのがおじさんぽいよね」

 沈黙を先に破ったのは木野だった。

「君が富橋に戻らなくて済む方法を他に……」

「待って木野さん!」

「おっ!?」

 ゆいなは木野に抱きついた。あまりの勢いに木野が後ろに下がりそうになったが、しっかり受け止めてくれた。

 こんな大胆なこと、男の人になんかしたことない。

「木野さんへの気持ちは……。黙っていればいるほど膨らんでいくんです。推しのことは好きにならないって決めていたのに……」

 もうダメだ。黙っていることはできない。それなら吐き出してしまえばいい。

 彼だって、一生に一度の言葉を口にしたのだから。

「大好きです。木野さん」

「中野ちゃん……」

 一度は拒絶された相手が受け入れたのに、ホッとしたのだろう。彼は安堵の笑みを浮かべていた。そしてゆいなの頭に手を伸ばした。

「……ん?」

 木野に頭をなでられそうになり、ゆいなはもどかしい表情で顔をそらす。

「中野ちゃん?」

「アイツと付き合ってた頃のことを思い出してしまうので……」

「あぁ、そうだった……。ごめん」

 木野は、抱きついた勢いで乱れたゆいなの前髪を直す。

 軽くかきわける表情は、今までに見たことがないほど優しくて幸せそうで。

 木野は腰を屈めると顔を傾け、目を伏せる。

 ゆいなは彼に寄り掛かって軽く背伸びをした。
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