看取り人

織部

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 キーボードを叩く音が店内に響く。
 ハンバーガーのスパイシーな香りとパティの甘い肉汁が咀嚼する度に口中に膨らんでいく。
 ピアノを弾くようにキーボードを叩く右手の滑らかな指の動き、クレーンゲームのような均一で乱れなくハンバーガーを口元に持っていく左の手の動きは、側から見ると唖然とし、間近で見ると興味の対象へと変化する。
 看取り人は、一心不乱に画面に文字を打ち付け、目が生み出された文字を監視するように動く。
 その向かい側の席に座ったアイは、感心するように息を吐く。
 看取り人とアイがいるのはどこにでもあるファストフードのチェーン店の角席だ。この席を選んだのに特に意味はない。看取り人が店に入った時に空いていたのがたまたまこの席だっただけだ。その後にコーヒーを持って現れたアイが席を見て「気を使わなくていいのに」と呟いた。
「器用ね」
 看取り人の右手でキーボードを叩きながらハンバーガーを食べる看取り人を見て、低いが女性らしい柔らかい声でアイは言う。
「習慣なもので」
 キーボードから顔を上げずに看取り人は言う。
「学生の時間は限られています。優雅に食べ終えてから小説を打つなんて余裕はありません」
「大人だってないわよ」
 心外と言わんばかりにアイは唇を尖らす。
「大人なんてそれこそ時に常に置いていかれるのよ。何もしないままに、した気がしないままに何十年と時が過ぎ去るの」
「無駄ですね」
 看取り人は、短く、ナイフので切るように言う。
 アイは、コーヒーに口を付ける。
「無駄かどうかは分からないわ。人にはね。熟成する時間が必要なのよ」
 看取り人の手が止まる。
 顔を上げて、驚いたように目を丸くする。
 アイは、怪訝な表情を浮かべる。
「どうしたの?」
「いえ・・何も」
 看取り人は、ハンバーガーを置き、炭酸の葡萄ジュースを飲んだ。
「・・・遺骨を引き取ったの」
 アイは、視線を落として言う。
「そうですか・・」
 看取り人は、再びキーボードを叩こうとする。が、触れるだけで動かない。
「葬儀を終えた日にね。代理人さんに遺骨を引き取れないか聞いたの。彼のことだからきっと遺言で海に散骨しろとか言ってるんじゃないかと思ったからダメ元でね。そしたらね・・」
 代理人は、にこやかな顔をしてアイに遺骨の受渡を了承した。それどころか位牌と彼の遺産で仏壇、必要とあればお墓まで用意すると言ってくれたのだ。
「貴方が来てくれて、彼はとても喜んでいると思います」
 代理人は、少し涙を潤ませながらアイにそう告げたと言う。
「彼の葬儀ね。たくさんの人が集まっていたわ」
 アイは、目を閉じて1週間前にあった彼の葬儀を思い出す。
 有名企業の元代表取締役の葬儀としては非常に簡素なものだったと思う。斎場も小さく、物も遺影と献花と最小限に留められていた。
 しかし、その雰囲気は静謐で荘厳、そして賑やかなものであった。
 代理人が喪主を務める中、会社の役員や社員、取引先、高校時代の友人、バスケ部員、そして大学の同窓生が集まり、彼の死を惜しみ、昔話に花を添えていた。通夜と告別式と火葬だけで食事も出ないのに誰も帰ろうとはしなかった。
 皆が皆、宗介の冥福を祈っていたのだ。
「宿題・・・ちゃんとこなしてたんですね」
 何が人望がないだ、と看取り人は、胸中で宗介に愚痴るがきっと宗介自身も驚いたのではないだろうか?
 自分のことをこんなに想い、こんなに悲しんでくれる人達がいたことに。
「先生も・・・ちゃんとお別れは言えましたか?」
「今は、先生は止めて」
 アイは、口の端を小さく釣り上げる。
「アイと呼んで。彼の事を知ってくれた貴方とは対等でいたいの」
「・・・分かりました。アイさん」
 看取り人は、抑揚のない声で頷く。
「お別れはしっかりと言えたわ。貴方のお陰よ」
「・・・僕は、何もしてません。ただ、話しを聞いただけです」
「でも、そのお陰で私は彼の最後に立ち会うことが出来たの。貴方が看取り人であったおかげで」
 アイは、彼が看取り人であると知った時の事を思い出す。
 彼は、アイが教師として勤めている、アイの母校でもある私立高校の生徒であった。
 宗介から離れ、教職を離れたアイは、県外に引っ越し、塾の教師や家庭教師をして生計を立てながらひっそりと暮らしていた。
 全ては宗介から離れるため。
 宗介の幸せのために、と思って。
 日々の生活をしている中で連絡を取り合っていた友達や宗介が雇った興信所の人間がやってきて宗介が捜している、会わないかと聞いてきたが断った。興信所の人間は依頼だからとしつこかったが、父がお金を渡して黙らせた。
 父は、ずっとアイを受け入れることが出来なかった罪悪感に駆られていたと言う。いや、今でも受け入れることは出来ていないのだと思う。それでも親として出来ることをしたいと思い、アイの代わりに宗介に会い、そしてアイを守るために矢面に立ってくれたのだ。
 アイが母校に復帰したのは1年前だ。
 母校の理事の1人になった主治医であった精神科医がやってきて復職しないかと声を掛けてきたのだ。流石の父も人格者である精神科医を止めることは出来なかったようだ。
 精神科医は、アイの全てを分かった上で声を掛けてきた。
「もう長い時間が経ちました。そろそろ自分を許して見てはいかがですか?」
 年は取ったがあの頃と変わらない優しい笑みで精神科医は言った。
 確かに時間は経った。
 きっと宗介もアイを忘れて誰かと出会って結婚したに決まっている。それに塾の講師や家庭教師をやっているうちに再び教壇に立ちたいと言う思いが膨らんでいた。
 アイは、精神科医の話しを受けることにした。
 昨年の4月から教職に戻り、2年生のクラスの担当になった。そのクラスの生徒の1人が看取り人であった。
 教師生活は、充実したものだった。
 生徒は、可愛くて頼もしく、教員達は自分を受け入れてくれた。
 若かりしあの頃の夢が、喜びがゆっくりとだが蘇ってきた。
 そんな時、生徒の1人が変わったボランティアをしていると話しを聞いた。
 それが看取り人だった。
 アイは、彼を呼び、何のボランティアをしているのかと聞いて愕然とする。
 死にゆく人を見送るボランティア。
 そんなものがあることにも驚いたし、そんなものを平然とこなしている彼が信じられなかった。
「変なボランティアではありません。きちんと人に貢献しています」
 確かにその通りだ。
 変なボランティアではない。
 ホスピスだって真っ当なところだ。目的だって理解はできないが間違ってはいない。
 しかし、問題は彼の動機だ。
 小説のネタ探し。
 果たしてそんな動機で人の死を興味本位で見ていいはずがない。
 しかし、彼の真剣な眼差しを見て簡単に否定する訳にもいかない。
 アイは、悩んだ末、ホスピスでの話しを聞かせて欲しいと、彼と共にホスピスに出向き、そしてそこで宗介を見たのだ。
 ベッドに横たわり、天井をじっと見つめる宗介。
 あれだけ逞しく大きかった身体は白く痩せ細り、知性に満ち溢れた目からは光が消えかけていた。
 アイは、幸せに暮らしていると思っていた宗介がホスピスにいることに愕然とした。そして結婚もせずに1人で最後を迎えようとしていることに・・・。
 会いたい。
 彼を抱きしめたい。
 しかし・・・出来ない。
 アイは、彼のボランティアを許した。
 そして、もし宗介の旅立ちを看取ることになった時、自分にも教えて欲しいとお願いした。

「せんせ・・・アイさんは、これからどうされるのですか?」
 看取り人の質問にアイは、目をゆっくりと閉じ、口元に笑みを浮かべる。
「教師を続けるわ。宗介と再会し、最後に立ち会うことが出来たのはこの仕事に戻ったからだし、きっと宗介もそう望んでくれているから」
 そう言って祈るように両手を組む。
 その左手の薬指には赤いリンゴの形をした宝石を乗せた指輪が嵌められていた。
 その指輪は・・・?
 看取り人は、そう言いかけて止めた。
 何故だか分からないが、そこに自分が入ってはいけない気がしたから。
 きっと自分がいない時に、そして心の中で2人で話し合って決めた事のはずだから。
「それじゃあ、また明日も会えるんですね」
「当然よ。宿題はやった?夢もいいけど現在いまだって大切なんだからね」
 アイは、教師らしい溌剌とした声で言い、笑う。
 看取り人も釣られて小さく笑みを浮かべる。
 看取り人は、今まで打った文章を保存し、パソコンの電源を落とす。
「分かってますよ。でも、これから仕事なので、それが終わってからちゃんとやります」
 看取り人の言葉にアイの顔から笑みが消える。
 看取り人の仕事、それは一つしかない。
「まだ・・・続けるの?」
 アイの問いに看取り人は、無言で頷く。そしてハンバーガーの残りを飲み込み、ジュースを飲み干し、パソコンを鞄に詰め込む。
 アイは、不安そうに看取り人を見上げる。
「貴方が決めたことだから余計なことは言わないわ。でも、辛くないの?」
 看取り人は、じっとアイを見て、それから視線を移して窓の外に広がる空を見る。
「僕は、1人が嫌なんです」
 看取り人の言葉にアイは、眉を顰める。
「初めて親から離れて寝る時、1人で不安だったのを覚えてます。1人で留守番する時、不安だったのを覚えてます。今の高校に入る時、中学の友達もいなくて1人で不安だったのを覚えています。それだけの事でも不安なのに1人で旅立つなんで不安どころじゃないと思います」
 看取り人は、ゆっくりと立ち上がる。
「だから僕は、1人で旅立とうとしている人達に少しでも寄り添ってあげたい。話しを聞いてあげたい。余計なお世話かもしれないけど、僕はそれをしたいんです。そしてその人たちをどんな形でも覚えておきたい。宗介さんのように」
 アイは、胸元に左手を持っていってきゅっと握る。赤リンゴの指輪が優しく煌めく。
 看取り人は、自分の食べたハンバーガーの紙やカップの乗ったトレイを持つ。
「僕は、やります。必要がなくなるまで」
 看取り人は、そう言ってアイに頭を下げる。
「それじゃあアイさん、また明日」
 看取り人は、そう言って踵を返して、去っていく。
「ええっ」
 アイは、小さく微笑む。
「また、明日」
 アイは、看取り人の背中が見えなくなるまで見送った。
「いい子に見送ってもらえたわね」
 アイは、左手に嵌めた指輪をそっと撫でる。
 ずっと、ずっと嵌めること出来ずにいた誓いの指輪を。
「さあ、私たちも行きましょうか。宗介」
 アイは、飲み干したコーヒーのカップを持って立ち上がる。
 その後ろには確かに背の高い男性が寄り添い立っていた。
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