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第2章 野に放たれた獣

10.冒涜する悪魔の罠

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 口元を三日月の笑みに歪めたロビンが、右手を短剣へ伸ばした。

 血が飛び散る。

 ……赤く、鮮やかで、美しく、ひどく禍々しい色が教会の床に広がった。

「……神など、いない」

 呟いた声は、傷ついた男の唇から零れた。後を追うように赤い血を滴らせて膝をつく……そう、新たな血を流したのは神父ではなかった。

 首を狙った短剣を右手で防いだロビンが、肘のすぐ下に突き刺さった刃を抜き去る。短剣を遠くへ放り、足元で呆然と己の手を見つめる神父へ吐き捨てた。

「結局、その程度の信仰だったのさ」

 殺人を固く戒めたキリスト教の神父が…両手を赤く染めている。その血は、他者に突きたてた刃からの返り血だった。本来なら有り得ない光景に、コウキが崩れ落ちる。

 ぺたんと座り込んだ足元で、銀の燭台が乾いた音を響かせた。

 神父が殺されると思った瞬間、咄嗟に足元の燭台を掴んで振り翳した。しかし無防備に晒されたロビンの背に突き立てることが出来ず……結局、役目を果たさないガラクタとして転がっている。

 逆に、たとえ命を脅かされても不殺を貫かなければならない神父が、自己防衛の刃を抜いた。

「……やはり、まだ早かったか。残念だよ、コウキ」

 神父の愕然とした表情に目を奪われていたコウキが、その切ない声色に引かれて顔を上げる。蒼い眼差しを正面から受け止めるロビンは、心底残念そうな顔を作って嘆いた。

「まさか、このオレが『失敗』するとはね」

 失敗――その単語に、今までに向けられた言葉が重なって……謎が解けてゆく。


 彼は何と言った?

 『賢いコウキ、だからおまえを選んだ』

 ロビンが俺を選んだのだとしたら、何の為に? どうして必要だったのか。

 繰り返された『まだ早い』は、何に対して?


「もしかして……?」

 足元に転がってきた燭台は、ロビンが投げたものだ。これを使ってコウキがロビンを害することを求めた。

 神父の足元に放置した短剣も同じ、ロビンを傷つけた人間は『カイン』と同じ原罪を負う。狂気の淵を越えて辿り着く場所で、彼は準備を整えて手招いていたのだ。


 気づいた瞬間、ぞっとした。

「ちゃんと聞いただろ? 禁断の果実を食す覚悟はあるかと――おまえはオレの手を取った。どんなにキレイゴトを並べても…人間は弱い」

 短剣に傷つけられた右手に伝う血が、ぴちゃんと音を立てた。小声で神に赦しを請う哀れな神父を嘲笑し、手に伝う血を舌で辿る。唇の端についた血を指先で拭う仕草は、不思議なほど扇情的だった。

 イヴを騙したルシファーに相応しい……。

 ロビンが望んだのは――コウキ自身。誘惑に抗えず、堕ちてくる『ロビンと同じ視点を持てる存在』だ。

 頭の回転が速いだけではなく、見た目が麗しくても足りず、若さを兼ね備えていても……まだ到達できない『高み』で隣に立てる同族を欲した。

 すべては、魅入られたコウキを得る為の茶番に過ぎない。

「オレはおまえを選んだ。だが、さすがに時間が足りない。他の奴なら簡単だが…その程度のモノ、欲しくもないからな」

 手が届かないモノほど憧れ、清らかなモノほど穢したくなるのが……人の性(さが)だ。

 右手を目の高さに翳してみせる。顔を隠すような仕草の後、青紫の瞳はゆっくり瞬いた。

「計画は完璧だったが、急ぎ過ぎた」

 自嘲したロビンの視線が、コウキから外れる。外に聞こえるサイレンに耳を澄ませ、両開きのドアを真っ直ぐに見据えた。強い眼差しはゆるぎない。

 殺した人々を『肉体のくさびから解き放ってやった』と傲慢に言い放った彼が、コウキに執着する理由は……本人以外の誰も理解出来ないだろう。

 当事者であるコウキであっても、それは同じだった。



「傷を癒しながら、次の計画を練るとしようか」

 くつくつ喉を震わせて笑ったロビンが踵を返す。裏口から逃げると思ったコウキを裏切り、彼はサイレンが近付くドアへ向かった。両手で開け放ち、パトカーのヘッドライトに照らされて振り返る。

 逆光で表情は見えないが、ロビンが笑っているとコウキは確信していた。

 警察のサイレンに、神父が悲鳴を上げて十字架を握り締める。彼が問われる罪は――傷害罪、しかし正当防衛が認められる筈だった。

 否、それ以前に『公的には死人』のロビンを傷つけても、司法当局が法的な責任を問うことはしない。

 だが、聖職者としては『失格』の烙印を押されるだろう。

 この現実すら、ロビンにとって遊びの域を出ないというのに……。

「またすぐに逢えるさ」

 響いたロビンの声は――悪魔の誘惑に相応しい艶と闇を秘めていた。
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