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89.一緒に温めてよ
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「トリシャ、ケガはなかったの?」
「っ、はい」
慌てて涙を拭ったのか。トリシャの勢いこんだ声に頷く。ソフィからの反論がないなら、傷はないみたいだ。あの花瓶を投げつけていたら、末端の指先から擦り下ろして処分してやったけど。さすがに体に痕が残る方法は取らなかったようだ。
貴族、とくに未婚女性同士の争いは醜い。体に見える痣を残さない代わりに、純潔を奪わせたり、精神的に叩きのめしたり、過去を探って突いたりする。陰湿さは男性でもあるけど、直接的な戦いを選ぶ者が多かった。この辺は男女の差というより、育てられた環境の差だ。
女性は醜聞が命取りだ。夫や婚約者、または目をつけた異性から嫌われることを最も恐れ嫌う。一度流れた噂は取り返しがつかないからだ。慎重に相手を貶めることを狙った。だが男性の場合、家柄や金銭的な支援を餌に妻や婚約者を得る。多少の醜聞があっても、金で黙らせることが可能なのだ。そのため裏にこもって攻撃するより、表で己の権力や実力を見せつけることを好んだ。
貴族でなければ別だろうけど。考え事をしながら手を引かれて浴室に入る。靴を脱いだ僕の素足が、慣れた感触の床を踏んだ。温かな湯が張られた浴室で、トリシャが申し訳なさそうに声を掛ける。
「エリクも……冷えてしまったのに」
自分だけ入浴して温まるなんて。謝罪に似た言葉が出る前に、彼女の手を引っ張る。思わず言葉を止めたトリシャにほっとした。君が気にすることなんてない。かつての自室の浴室で、膝をついて浴槽の縁に触れる。
「僕は腕が濡れただけだ。トリシャほど冷たくないけど……一緒に温めてよ」
ぽちゃんとお湯の中に指先を入れる。伝わる熱とは別の熱が、僕の指先を握った。引き寄せるように動く彼女の手に任せて、できるだけ力を抜く。指先に触れる肌の感触に、びくりと肩が揺れた。
トリシャの素肌……え? どこに当てたの。目隠しを外したくなる衝動を耐えていると、トリシャがくすくすと笑った。
「トリシャ、今の悪戯はなに?」
「だって、エリクが真剣な顔をしてるから」
「からかったの? あとが怖いよ」
ふふっと笑って返す。トリシャの声が明るくなった。自分の中でそうして飲み込んで、解決してきたんだね。抱え込むことに慣れた彼女の心は僕がほぐすとして、まずは今日の舞踏会の記憶を塗り替えることだ。
「ラベンダーのドレスを作らせたの、正解だったね。衣装替えして登場したら、きっと皆が見惚れるよ。なんだか悔しい気もするけど」
「悔しい、のですか?」
「そうさ。トリシャの美しいドレス姿を1日で2着も見られるんだよ? 僕だけならいいのにな」
軽い口調で文句を言って唇を尖らせると、トリシャの指が触れて押した。素直に引っ込める。うん、指先までちゃんと温まってるね。僅かに香る湯は、リラックス効果の高いラベンダーか。ドレスの色と合わせて用意させたけど、こういう優しい香りが似合うね。
「もう出ます。舞踏会が終わってしまいますもの」
「安心して。僕が帰らないと一晩中終わらないよ」
まぁ……愛らしい声は少しくぐもって、手で口元を押さえたみたいだ。思ったより耳から拾える情報は多く、僕の妄想を掻き立てる。今夜の僕は危険だから、ニルス達に寝ずの見張りをお願いしないと無理かな。
衣擦れの音がする室内で、僕はトリシャの着替えを待つ。ようやく目隠しを取ってくれた僕の前で、薄紫のドレスを纏った天使が微笑んでいた。
「っ、はい」
慌てて涙を拭ったのか。トリシャの勢いこんだ声に頷く。ソフィからの反論がないなら、傷はないみたいだ。あの花瓶を投げつけていたら、末端の指先から擦り下ろして処分してやったけど。さすがに体に痕が残る方法は取らなかったようだ。
貴族、とくに未婚女性同士の争いは醜い。体に見える痣を残さない代わりに、純潔を奪わせたり、精神的に叩きのめしたり、過去を探って突いたりする。陰湿さは男性でもあるけど、直接的な戦いを選ぶ者が多かった。この辺は男女の差というより、育てられた環境の差だ。
女性は醜聞が命取りだ。夫や婚約者、または目をつけた異性から嫌われることを最も恐れ嫌う。一度流れた噂は取り返しがつかないからだ。慎重に相手を貶めることを狙った。だが男性の場合、家柄や金銭的な支援を餌に妻や婚約者を得る。多少の醜聞があっても、金で黙らせることが可能なのだ。そのため裏にこもって攻撃するより、表で己の権力や実力を見せつけることを好んだ。
貴族でなければ別だろうけど。考え事をしながら手を引かれて浴室に入る。靴を脱いだ僕の素足が、慣れた感触の床を踏んだ。温かな湯が張られた浴室で、トリシャが申し訳なさそうに声を掛ける。
「エリクも……冷えてしまったのに」
自分だけ入浴して温まるなんて。謝罪に似た言葉が出る前に、彼女の手を引っ張る。思わず言葉を止めたトリシャにほっとした。君が気にすることなんてない。かつての自室の浴室で、膝をついて浴槽の縁に触れる。
「僕は腕が濡れただけだ。トリシャほど冷たくないけど……一緒に温めてよ」
ぽちゃんとお湯の中に指先を入れる。伝わる熱とは別の熱が、僕の指先を握った。引き寄せるように動く彼女の手に任せて、できるだけ力を抜く。指先に触れる肌の感触に、びくりと肩が揺れた。
トリシャの素肌……え? どこに当てたの。目隠しを外したくなる衝動を耐えていると、トリシャがくすくすと笑った。
「トリシャ、今の悪戯はなに?」
「だって、エリクが真剣な顔をしてるから」
「からかったの? あとが怖いよ」
ふふっと笑って返す。トリシャの声が明るくなった。自分の中でそうして飲み込んで、解決してきたんだね。抱え込むことに慣れた彼女の心は僕がほぐすとして、まずは今日の舞踏会の記憶を塗り替えることだ。
「ラベンダーのドレスを作らせたの、正解だったね。衣装替えして登場したら、きっと皆が見惚れるよ。なんだか悔しい気もするけど」
「悔しい、のですか?」
「そうさ。トリシャの美しいドレス姿を1日で2着も見られるんだよ? 僕だけならいいのにな」
軽い口調で文句を言って唇を尖らせると、トリシャの指が触れて押した。素直に引っ込める。うん、指先までちゃんと温まってるね。僅かに香る湯は、リラックス効果の高いラベンダーか。ドレスの色と合わせて用意させたけど、こういう優しい香りが似合うね。
「もう出ます。舞踏会が終わってしまいますもの」
「安心して。僕が帰らないと一晩中終わらないよ」
まぁ……愛らしい声は少しくぐもって、手で口元を押さえたみたいだ。思ったより耳から拾える情報は多く、僕の妄想を掻き立てる。今夜の僕は危険だから、ニルス達に寝ずの見張りをお願いしないと無理かな。
衣擦れの音がする室内で、僕はトリシャの着替えを待つ。ようやく目隠しを取ってくれた僕の前で、薄紫のドレスを纏った天使が微笑んでいた。
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