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第一章「無限の愛」
(1)砂漠の部屋
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「……お疲れさまでしたー」
「おつかれさん」
「おつかれー」
空虚な言葉がオフィスを飛び交った。バッグを担ぎ一瞥する。同僚らは画面から目を離さない。安っぽい眼鏡に光を反射させたまま無機質にキーを叩いていた。
黙って席を立ったところで誰も何も気にすまい。
多少の呆れを覚えたが、それもまた無意味に思えた。どうでも良いことだ。僕にとっても、彼らにとっても。
腕時計に目を落とす。時刻は9時半。まあ早いとしたほうだ。半額の惣菜を買うには丁度良かったので、そうすることにした。
バッグの重みに肩を垂らし、暗い夜道で靴底を引きずる。景色には何の面白味も感じなかった。今まで何千日と歩いてきた道であるし、これからも何千日と歩くことになる。役所が税金の出し惜しみをしているのか、いくつかの外灯が切れかけている。柵も錆びに塗れて久しい。そして何より……道幅の狭さがどうにもならない。レールの上を歩かされている気分になるのは今夜が初めてではなかった。息苦しさを覚え、遠くの景色に意識を逃した。ビルの窓にぽつぽつと灯が点っていた。
あれは蜂の巣だ。
命じられ、集め、運搬し、また命じられる。当然のように同じ働きを強いられ、何も残せず死んでいく。それは遠い将来の話ではないのかも知れない。
昨晩の出来事を思い出すと、足元が崩れていくような目眩を覚えた。
玄関のドアを重たく感じたのは疲労のせいばかりではなかった。僅かに開いた戸の隙間から部屋の中を覗き込む。外廊下の灯りが照らしたのは土間の一部だけだった。続く廊下は真っ暗で何があるのか見通せない。実際は見飽きたワンルームが続くだけなのだが、今は、それすら確信が持てなかった。心臓をなだめ、スイッチに指を伸ばした。暖色の光が玄関を照らす。
何もなかった。
少なくとも、ここまでは。
革靴を脱ぎ慎重に床を踏む。居間へと続く扉を開いて、もう一つスイッチを押した。やはり何も……誰もいなかった。簡素なベッドに、脱ぎっぱなしのシャツ。ローテーブルにはカップ麺の容器。積み上げられた十数冊の漫画。雑誌。そして、黒い装丁の本が一冊。
緊張が緩んだ。部屋に足を踏み入れる。ネクタイを適当に放り投げ、デスクチェアに体重を預けた。シャツが一日分の疲れを吸い込んだみたいに重たかった。
パソコンの電源に指を延ばす。ブラウザを立ち上げSNSのアカウントを開いた。通知はゼロ。書き込みにも、投稿した漫画にも、何の反応もなかった。こんなものだろうと画面を閉じた。みんな忙しいのだ。話の種にもならない素人の漫画に、誰が、何を言ってくれるというのだ。
瞼を閉ざし、視界を暗闇に委ねた。独りの部屋は、鼓膜が痛くなるほど静かだった。
トレイの中身を口に掻き込み、適当にシャワーを浴びた。再びディスプレイに向き合い、ペンタブを握る。真っ白な画面と睨み合った。そのまま数分。くたびれた脳味噌には何のアイデアも浮かんでこなかった。代わりに、詮のない疑問が思考を埋め尽くした。
(一体、何のために)
天井を見上げ、左右の壁を無為に眺めた。息苦しくなるほど狭いのに、叫びたくなるほど心寂しい。ここは砂漠だ。向かう場所など何処にもない。
視線は力なく垂れ下がり、ローテーブルに辿り着く。
黒い装丁の本。
「あら、何も描かないの?」
どくりと心臓が跳ねた。転げ落ちそうになりながら椅子を回す。
背後の壁際に一人の少女が佇んでいた。
黒い少女だった。
夜空の黒さとも、金属的な黒さとも、まるで違う。
黒い絵具をべったりと塗りつけたような、そんな黒さ。
濡羽色の髪に、黒い制服。黒のストッキングで覆われた両脚。黒いローファー。一転して病的なまでに白い頸元。そして紅い瞳……。
怖気が振うほど美しい少女だった。異様としか言い表せない。だが、その美しさには猛毒を孕む生物、あるいは強力な捕食者が放つ危うさがあることも理解できた。
蜘蛛。
慎重に唾を飲み、玄関のほうを見やった。確かに鍵はかけたはずだ。
視線を戻した瞬間、はっと息を呑んだ。少女の姿が消えていた。
「可哀相に。誰にも相手にされなかったのね」
背後で何かを覗くような声。慌てて振り返った。だが少女の姿はやはりない。代わりにSNSの画面が開いていた。何の反応も得られなかった、僕の漫画。
「私は、漫画のことはよく分からないけれど」
今度はベランダの方角。いつの間にか開いた硝子戸の向こうで、少女は柵に腰かけていた。優雅に、満月を背負って、支配者のように。
「認めて欲しかった……ううん、愛して欲しかったのでしょう? だったら」
黒い少女は、唇の端を釣り上げた。
「取引をしましょう」
対等な取引を。
繰り返す少女を、僕は呆然と見上げるしかなかった。
「おつかれさん」
「おつかれー」
空虚な言葉がオフィスを飛び交った。バッグを担ぎ一瞥する。同僚らは画面から目を離さない。安っぽい眼鏡に光を反射させたまま無機質にキーを叩いていた。
黙って席を立ったところで誰も何も気にすまい。
多少の呆れを覚えたが、それもまた無意味に思えた。どうでも良いことだ。僕にとっても、彼らにとっても。
腕時計に目を落とす。時刻は9時半。まあ早いとしたほうだ。半額の惣菜を買うには丁度良かったので、そうすることにした。
バッグの重みに肩を垂らし、暗い夜道で靴底を引きずる。景色には何の面白味も感じなかった。今まで何千日と歩いてきた道であるし、これからも何千日と歩くことになる。役所が税金の出し惜しみをしているのか、いくつかの外灯が切れかけている。柵も錆びに塗れて久しい。そして何より……道幅の狭さがどうにもならない。レールの上を歩かされている気分になるのは今夜が初めてではなかった。息苦しさを覚え、遠くの景色に意識を逃した。ビルの窓にぽつぽつと灯が点っていた。
あれは蜂の巣だ。
命じられ、集め、運搬し、また命じられる。当然のように同じ働きを強いられ、何も残せず死んでいく。それは遠い将来の話ではないのかも知れない。
昨晩の出来事を思い出すと、足元が崩れていくような目眩を覚えた。
玄関のドアを重たく感じたのは疲労のせいばかりではなかった。僅かに開いた戸の隙間から部屋の中を覗き込む。外廊下の灯りが照らしたのは土間の一部だけだった。続く廊下は真っ暗で何があるのか見通せない。実際は見飽きたワンルームが続くだけなのだが、今は、それすら確信が持てなかった。心臓をなだめ、スイッチに指を伸ばした。暖色の光が玄関を照らす。
何もなかった。
少なくとも、ここまでは。
革靴を脱ぎ慎重に床を踏む。居間へと続く扉を開いて、もう一つスイッチを押した。やはり何も……誰もいなかった。簡素なベッドに、脱ぎっぱなしのシャツ。ローテーブルにはカップ麺の容器。積み上げられた十数冊の漫画。雑誌。そして、黒い装丁の本が一冊。
緊張が緩んだ。部屋に足を踏み入れる。ネクタイを適当に放り投げ、デスクチェアに体重を預けた。シャツが一日分の疲れを吸い込んだみたいに重たかった。
パソコンの電源に指を延ばす。ブラウザを立ち上げSNSのアカウントを開いた。通知はゼロ。書き込みにも、投稿した漫画にも、何の反応もなかった。こんなものだろうと画面を閉じた。みんな忙しいのだ。話の種にもならない素人の漫画に、誰が、何を言ってくれるというのだ。
瞼を閉ざし、視界を暗闇に委ねた。独りの部屋は、鼓膜が痛くなるほど静かだった。
トレイの中身を口に掻き込み、適当にシャワーを浴びた。再びディスプレイに向き合い、ペンタブを握る。真っ白な画面と睨み合った。そのまま数分。くたびれた脳味噌には何のアイデアも浮かんでこなかった。代わりに、詮のない疑問が思考を埋め尽くした。
(一体、何のために)
天井を見上げ、左右の壁を無為に眺めた。息苦しくなるほど狭いのに、叫びたくなるほど心寂しい。ここは砂漠だ。向かう場所など何処にもない。
視線は力なく垂れ下がり、ローテーブルに辿り着く。
黒い装丁の本。
「あら、何も描かないの?」
どくりと心臓が跳ねた。転げ落ちそうになりながら椅子を回す。
背後の壁際に一人の少女が佇んでいた。
黒い少女だった。
夜空の黒さとも、金属的な黒さとも、まるで違う。
黒い絵具をべったりと塗りつけたような、そんな黒さ。
濡羽色の髪に、黒い制服。黒のストッキングで覆われた両脚。黒いローファー。一転して病的なまでに白い頸元。そして紅い瞳……。
怖気が振うほど美しい少女だった。異様としか言い表せない。だが、その美しさには猛毒を孕む生物、あるいは強力な捕食者が放つ危うさがあることも理解できた。
蜘蛛。
慎重に唾を飲み、玄関のほうを見やった。確かに鍵はかけたはずだ。
視線を戻した瞬間、はっと息を呑んだ。少女の姿が消えていた。
「可哀相に。誰にも相手にされなかったのね」
背後で何かを覗くような声。慌てて振り返った。だが少女の姿はやはりない。代わりにSNSの画面が開いていた。何の反応も得られなかった、僕の漫画。
「私は、漫画のことはよく分からないけれど」
今度はベランダの方角。いつの間にか開いた硝子戸の向こうで、少女は柵に腰かけていた。優雅に、満月を背負って、支配者のように。
「認めて欲しかった……ううん、愛して欲しかったのでしょう? だったら」
黒い少女は、唇の端を釣り上げた。
「取引をしましょう」
対等な取引を。
繰り返す少女を、僕は呆然と見上げるしかなかった。
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