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ただの子供

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 ふとレインは自分が一人だった時のことを思い出す。路地裏で餌を求めて彷徨い続け、ありつく先はゴミ箱の中。路地裏から抜け出し、人々に餌を乞うものなら「汚い」だの「臭い」だのと言われて避けられる日々。

 家族の姿を見たことはない、生まれてこのかた他の猫とつるんだこともなかった。それが当然で、当たり前で、現実だったのだ。

 だが、レインはふとした時に『師匠』に拾い上げられた。汚いはずの自分の体を気にせず触れて持ち上げて、家まで連れて行ってくれた。怪我を魔術で癒やし、たらふくご飯を食べさせてくれて、いろんなことも学ばせてもらった。

 人間の言葉を話せる猫、人の姿を自力で手に入れた猫。

 自分は運に恵まれたのだろう。今では、大切なことがいっぱいだ。そんな経験をしていると、どうしてもあの幼女、グラシアを見捨てることはできなかったのだ。

 一人であることに苦しみ、助けを願っているあの子を。

 レインはコアを砕いた感触を思い出しながら、手を握りしめる。

 コアを破壊してもグラシアが死ぬことはなかった。グラシアの中での賭けは勝ったのだ。だがしかし、ここでレインの中には一つの疑問が生まれていた。

 コアが破壊されたのにも関わらず、グラシアに生死を分けるような甚大なダメージは見受けられない。それすなわち、根本的な部分でグラシアとコアのつながりはないのではないだろうか?

 つまり、コアと肉体は別々なものであり、グラシアも元々はただの人間だったのではないだろうか?

 グラシアの記憶の量は少ないと思われる。気がついたら異常な力を持って生まれ、そして今に至るまでの記憶しか持っていない。記憶をなくしているだけならば、以前のことも思い出せるのではないだろうか?

 あくまでそういう仮定にしか過ぎないが、その可能性は十分にあると思っている。

 レインは手に力を込めた。魔力を通せば赤く禍々しく光る靄がレインの手を包み込んでいる。それを壁にかざし、魔力を放てばそれは力となって壁を変質させた。

 ただの壁は鏡に変わり、レインの姿を映し出す。その中に映るレインはいつものレインであった。

 この力はおそらくグラシアのコアを破壊した時に鏡の力の一部を継承してしまったものなのではないだろうか。コアの力に当てられた手にのみこの力を使うことができる。

 反対の手に魔力を流してもなんの効果も発現しなかったのがその証拠である。

 レインの手の中にある鏡の力はそコマで強いものではない。グラシアのように鏡の世界を自分の意思で生み出すなんてものは絶対にできない。

 手の中に感じる新たな力は微々たるものしかない。おそらく残りの力の残滓は空中に漂う魔力に溶けて霧散してしまったのではないだろうか?

 となれば、今のグラシアには鏡の魔法を使う力は残っていないはずだ。

「レイン様ー、とりあえずあの子はベッドに寝かせておきましたー」

「ありがとう、ロザリー」

 ひとまずあの後レインは使用人寮に向かってロザリーの部屋の中でグラシアを休ませることにした。レインはギルと同居しているし、空いている場所がここしか思い浮かばなかったのだ。

「この子は一体誰なんですか?」

「僕もよくわからない、『異常現象』を起こす力を持っていた子だ」

「えっ!あ、いや……持っていたってことは今はないんですか?」

「そうだ、コアを破壊したから今ではなんの力も無くなっているはずだ」

 だから、もうグラシアには危険性はない。あの子はもう普通の子供である。

「いきなり夜中に押しかけて悪かったな……」

「いえいえ!レインちゃんのお役に立てたなら何よりです♪」

「そう……ひとまずグラシアをここで匿ってやってくれないか?」

「そんなのお安い御用ですよー。猫は確かに好きだけど、人の子供も私好きなんです!」

「いつもありがとうな」

「うふふ、それより早く寮に戻ったほうがいいのでは?門限なんてとっくに過ぎてますし」

「ああ、そうだな」

 ロザリーの忠告に従って、部屋を後にしたレイン。部屋を出た先に待っていたのはシエラだった。

「……レイン隊長」

「なんだ?」

「あの子は危険ですよ」

「鏡の力は使えない。今はもう無害な子供だ」

「ですが、いつ暴走するかわかりません。なのにどうして?」

「……僕に、なんの力もない子供を殺せと言うのか?」

「……いえ」

「そうか。心配する気持ちはわかるが、君の想像するような事態は絶対に起きないし、起こさせない。僕たちが彼女の面倒を見るからな。安心しておけ、君も今日はもう帰って休め」

「はい、了解しました」

 シエラはそう言って暗闇の中を歩き出した。

 レインはふとこの場にいないグレンについて気になった。

「さっきはいたのに、もう帰っちゃったの?」

 グレンならまあ……「問題ねえだろ?」とか言って、シエラのようにここまで来ないだろう。大雑把というか……僕のことを過信しすぎなのだ。

 だが、信頼されるのは嫌いじゃない。

 だからこそ、僕はその期待に応えたい。

「大丈夫、なんの心配もいらないさ」

 だから、今はゆっくり休もう。
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