星の海で遊ばせて

nomaz

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1章 星の海で遊ばせて

寄り添う二羽(5)

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 柚子は、詩乃の首筋に優しく触れた。

 熱い。

 手を引っ込める。

 水上君は、いつも一人でいる。水上君の孤独は、私には絶対に致死量の孤独だと柚子は思った。こんな高熱を出しているのに、誰にも助けを求めない。もし私がここに来なかったら、水上君は今日も、ずっと一人で、誰にも知られずに、苦しんでいたことだろう。そう思うと、柚子は、来て良かったと心から思うのだった。

 安心すると、柚子も、急に眠くなってきて、ころんと、詩乃の隣に転がった。

 夕方頃、いつの間にか眠ってしまった柚子と詩乃と、二人は、どちらともなく、目を覚ました。詩乃と目が合い、柚子はふんわりした笑みを浮かべた。詩乃はこみあげてくる吐き気に上半身を起こした。柚子も心配して、その背中をさすった。

「大丈夫? 気持ち悪い?」

 詩乃は苦い顔をして頷いた。

 弱い所を隠す余裕は、今の詩乃にはなかった。

「うぅ……」

 詩乃は苦しげな吐息を吐いた。

「水飲む?」

 詩乃が頷いたので、柚子は、さっき買って冷蔵庫に入れておいたスポーツ飲料のペットボトルを冷蔵庫から出し、薄水色の液体をコップに入れて詩乃の布団に戻った。詩乃はそれを、ぐぴぐぴっと喉を鳴らして一気に飲み干した。そうしてそのまま、背中を丸めて立ち上がり、トイレに向かった。気持ちが悪い時には、我慢せずに、思い切り吐く――そうするとひとまず楽になるので、詩乃はそれをまた実践した。

 吐いた後は、吐き気はマシになり、意識も少しはっきりするが、体の方はどっと疲れる。トイレから戻ってきた詩乃は、掛け布団の上に、転がった。

「あぁ……風邪ひいたなぁ……」

 吐き出す息と同時に、そんな言葉を乗せる。

「何かほしいものある?」

「……」

 家族ならいざ知らず、同級生の女の子、しかも自分の好きな子に甘やかされるというのは、こんな時でもやはり気恥ずかしい詩乃だった。しかし、見栄や意地を張るほどの元気も、今はない。

「ゼリーとか買ってきたけど、食べる? 気持ち悪くなっちゃうかな?」

「食べる」

「ちょっと待ってて。――あ、冷蔵庫勝手に開けちゃってごめんね。色々、勝手に開けちゃって……」

 そんなことを言いながら、てきぱきと、柚子はさっき買ってきたゼリーを準備して、スプーンも持って、詩乃の布団に戻った。美柑、葡萄、林檎、桃の四種類。

「どれがいい?」

「これで」

 詩乃は美柑のゼリーを指差した。すると柚子は、ピリっと容器の袋を取って、スプーンでゼリーを掬った。明るいオレンジ色のゼリーがぷるんと揺れる。

「はい」

 柚子は口を小さく開いて、自分の左手を受け皿にし、詩乃の口にゼリーを近づける。自分の口に迫ってくる美柑色のゼリーを、詩乃はじっと見つめた。それから、柚子の顔を見る。柚子は頬を引き締めた、真面目な顔をしている。

「……」

 新見さんは本当に何を考えているんだと思いながら、詩乃は差し出されたスプーンにぱくついた。

 冷蔵庫で冷やされた冷たいゼリーが、つるんと喉を通る。口内に広がる美柑の香り。詩乃はすぐにもう一口ほしくなって、口を開けた。柚子は詩乃の求めに応じて、ゼリーを食べさせる。そのゼリーを飲み込んだ詩乃は、ころっと掛け布団の上に転がり、目を閉じた。

「布団掛けた方がいいよ」

 心配そうな柚子の優しい声。詩乃は聞こえてはいたが、体のダルさに、動くのを諦めていた。柚子は、無理やり詩乃をどかすこともできないので、目を閉じて、眠ってしまいそうな詩乃に、覆いかぶさるようにして背中を軽くさすった。鼻が頬に触れるような至近距離で、柚子は詩乃を見つめる。やわらかくて甘い香りが詩乃の鼻腔をくすぐった。

 不思議だなぁと、柚子は思った。中学三年生の時、一つ上の、学校を卒業したばかりの先輩と付き合った。友達の彼氏に言い寄られ、それと同じ時期に、友達の好きだった男の子から告白されてしまったそのことを相談していた先輩だった。――柚子は嘘でも彼氏作った方がいい。じゃないと女子は、取られると思って警戒するし、男子も、いけると思ってアプローチ掛けるだろう――そして先輩はこうも言った。

 ――彼氏役なら、俺がやってやるよ。

 そして私は、彼氏役の先輩と、付き合うことになった。私が中学を卒業するまで――つまり、一年間の約束で。先輩のことは、嫌いだったわけじゃなかった。でも、彼氏彼女という関係は、本物じゃないと思っていた。お互いにそのはずだったのに、私が中学を卒業するとき、先輩は私に、本物の彼女にならないかと、迫ってきた。抱きつかれて、キスされそうになって、私は、逃げてしまった。先輩のことは嫌いじゃなかった。でも、勝手に身体が、そういう反応をした。

 先輩との関係はそれで終わった。でも、私の中で、先輩から言われたことは生きていた。『――女子は、取られると思って警戒するし、男子も、いけると思ってアプローチをかける――』。環境を変えたくて、中高一貫校から離れ、茶ノ原高校に入学した。入学して間もなく、林間学校のキャンプファイヤーの時、紗枝ちゃんの友達――川野君に告白されて、付き合うことになった。でもそれも、体育祭の打ち上げでダンスの時、キスを迫られて、やっぱり私は逃げてしまった。

 怖い、と思った。

 川野君が嫌いなわけじゃない。でも最初から、川野君への好意は、他の友達に対する好意と同じものだとわかっていた。だから付き合った後、「好きになる努力」もした。でもやっぱりあの瞬間――キスを迫られた瞬間、私の身体は、川野君を拒絶してしまった。川野君ともそこで終わってしまった。結局私は、誰かを「好き」と思って付き合ったことはなかった。先輩とも、川野君とも、女友達に嫌われたくないということのために、彼氏彼女という関係を利用したのだ。

 それなのに今、水上君の近くにいると、うっかり、その唇を奪いそうになってしまう。

 あんなにキスは怖かったはずなのに、男の人に迫られることが怖かったはずなのに、水上君が近くにいると、その「怖い」という気持ちが、解けていくみたいだ。どうしてかはわからない。でも、あの林間学校の森の中で、予感はあった。そして今は、もう「予感」じゃない。

 柚子は、眠ってしまった詩乃の無防備な頬に唇で触れた。





 柚子が詩乃の家を出たのは、すっかり夜も暗くなって、月のくっきり見える頃だった。外気はもう涼しく、風が肌に心地よい。これから帰る、という旨の電話を家に入れてから、電車に乗った。

 水上君、一人で大丈夫だろうか。

 電車に揺られながら、考えるのは詩乃の事だった。

 家に着いたのは十時過ぎ。柚子の感覚から言うと、非常識な時間だった。祭りや体育祭の打ち上げの日ならまだしも、友達と遊ぶとか、そういった日常の中では、こんな時間には帰宅しない。

 家に帰ると、リビングにはいつものように、柚子の姉、兄、母、そして父がいた。

「今何時だ」

 父の第一声。

 柚子はすぐに、怒られるのを悟った。もうそれは、詩乃の家にいる時からわかっていた。こんなに遅くなって、九時という門限をすっかり破っている。素直に謝ろう、最初はそう思った。

 柚子の父はまず、遅くなった理由を聞いた。

 柚子は、一人暮らしの友達がいて、その子が高熱を出していた、という話をした。男か女か、と聞いてきたので、そんなの関係ないでしょ、と柚子は言い返した。関係ないわけあるか、男なのか。そう聞かれて、最初は素直に謝ろうと思っていた柚子だったが、自分に変な疑いをかけられている事を感じ、小さな怒りが湧いてきた。

「一人暮らしの男の家に、こんなに遅くまでいたのか」

「だから何」

 柚子は語気を強める。

 その一言で、リビングに緊張が走った。柚子が門限を破ることも初めてだが、父に、明らかな怒りをぶつけるのも、初めてだった。本を読んでいた兄までも、視線を上げて二人を見た。

「熱出してたの!」

「そんなの理由になるか!」

「だって一人暮らしだよ? お父さんだって、熱出した時、皆に看病してもらってるじゃん」

「……一人暮らしとはそういうものだ。その男の子だって、わかってそうして――」

「なんでそんなこと言えるの!? お父さん、心無いんじゃないの?」

 父親も、門限を破った娘が、まさかここまで食い下がるとは思っていなかった。しかし一度振り上げてしまったこぶしである。ここでこの、怒りの表情を緩めるわけにはいかない。ここで納めてしまっては、大黒柱としての面目が立たないではないか――と、父は必死である。

「そんな言い訳が社会で通用すると思うか」

「別にいいよ、お父さんにわかってもらわなくたって! 嫌い!」

 柚子はそう言うと、怒ったままリビングを出て、階段を上がっていった。

 翌日、柚子はまだ暗いうちに家を出て、ほとんど始発のような電車に乗って詩乃の家に向かった。まだ人通りのない駅を降り、細い道を、詩乃の家に向かって歩く。それだけで、柚子の胸は高鳴った。

 詩乃の家に着いた。扉の前で、柚子は一呼吸すると、扉を開けた。やっぱり、不用心にも、鍵は開いている。昨日、柚子は詩乃から合鍵の場所を教えてもらっていたが、それを取り出す必要もなかった。

 柚子は玄関から部屋に入った。詩乃はまだ寝ていた。

 ひとまずはおかゆを作り始める。その気配に詩乃がぼんやり目を開けたので、柚子は詩乃の熱を測った。昨日よりは少し低い。悪化はしていない。おかゆを作り終えると、詩乃はまたいつの間にか眠ってしまったので、柚子は詩乃の家を出、学校に向かった。

 そうして学校が終わると、柚子はすぐにまた詩乃の家に戻った。朝から詩乃は一眠りしていて、柚子が学校の後やって来た時には、熱はまだ高かったが、昨日よりも頭痛と吐き気が治まっていた。柚子はそれを聞いてひとまずは安心したのだった。その日も、柚子は夜まで詩乃の家にいて、自宅に帰るのは夜の十時を過ぎた後だった。二日連続での門限破りを柚子の父は咎めようとしたが、柚子は父の説教を聞こうともしなかった。追い出されたっていいと腹をくくっていたので、その覚悟から来る娘の迫力に、気局父は、何も言えないのだった。

 金曜日になると、詩乃の体調もだいぶ良くなっていた。

 学校のあと、柚子は詩乃の家に行き、朝作ったおかゆの鍋が空になっているのを見て、表情を緩めた。詩乃は、柚子が家にあがって来ると、上半身を起こして布団の上に座った。吐き気もなくなり、熱も下がってくると、頭も回り始める。ここ二日間、柚子に甘えてしまった事を思い返して、その恥ずかしさで体を小さくしてしまう。

「もう吐き気は、大丈夫?」

「うん」

 良かった、と息を吐く柚子。詩乃の布団の脇に、ペタンと座る。

「熱は? 計った?」

「たぶんもう、そんなにない」

「一応計っとこ?」
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