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1章 星の海で遊ばせて
寄り添う二羽(6)
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柚子に言われるがまま、詩乃は差し出された体温計を脇に挟む。
「空気入れ替えようか?」
「うん」
詩乃の返事を待って、柚子は空調機の除湿を切ると、キッチンの所のガラス戸とベランダの冊子扉を半分ほど開けた。さあっと、カーテンが広がって、風が入ってきた。まだ風は生暖かい。ピピピっと、体温計の音が鳴る。
「どう?」
「六度九分」
「三十六度?」
「うん」
「良かった、だいぶ下がったね」
柚子は詩乃から体温計を受け取り、その数字を確認すると、柔らかい笑顔を見せた。詩乃は急に、自分の恥ずかしさや情けなさ、熱があるのに変な意地を張ってしまう自分の子供っぽさを思い、くすくす、けらけらと声を上げて笑ってしまった。
「え、何なに!?」
「いや……もう、おかしくて。はぁー……そりゃ、風邪もひくよね」
寝不足、不規則な食事リズム、日によっては食べない、寝る時も、面倒くさいからと冷房の温度を最低にして風量も最大のままにしている。これで、体調を崩さないわけがない。新見さんのお見舞いに行ったあの日の帰りは、嵐の中を、約一時間かけて家に帰った。どうして先に、新見さんの家から自宅までの帰り道のことを考えなかったのか。新見さんの家は学校の南にあって、自分の家は学校の北にある。あの時は、ただ新見さんの家に行くことだけを考えていた。思い返せば、ゲリラ豪雨の予報も出ていた。つくづく、馬鹿だなぁと、詩乃は思った。
柚子も、なんだかよくわからないまま、詩乃の笑い声に釣られて笑ってしまう。詩乃が声を上げて笑うのを見るのは、柚子は初めてだった。水上君は、こんなに笑うこともあるんだと、それを見られたことへの驚きと幸せで体が暖かくなる。
ひとしきり笑いあった後、詩乃は腕を組み、俯いて目を閉じた。
なんだろうと、柚子はドキドキしてしまう。
「夏風邪もいいもんだね」
詩乃は、考えた挙句、そう言った。
「え、良くないよ。苦しいよ」
「苦しいけど、一生夏風邪っていうのも、悪くないかもしれない」
「嫌だよ、一生夏風邪なんて! 元気になってよ」
「体が元気なことと、心が元気なことは違うよ」
「――心は元気だったの?」
「ある意味病気だけど」
詩乃はそう言って、自然なやわらかい表情で、柚子を見つめた。詩乃の優しい眼差しにあてられて、柚子は、目を逸らせなくなってしまった。そして、もっと見てほしいと柚子は思った。そうしてそのまま、私の目から、この感情も、気持ちも、全部覗いてほしいと思った。
「水上君、明日も、来て良い?」
「え?」
この申し出は、詩乃には意外だった。今日はまだ少しだけ熱が残っているが、明日になれば、もうすっかり熱も治まっていそうだ。来週はテストがあるのだから、新見さんは、看病よりもそっちを優先した方がいいのではないかと思う。よくよく考えれば、新見さんがわざわざ自宅にまで来て看病してくれている理由もわからない。おかげで、心はものすごく元気だけど、新見さんはそれでいいのだろうか。
「いいけど、いいの?」
「うん」
新見さんは、どうしてこんなに、自分のことを構ってくれるのだろうか。そのことが、やはり詩乃にはわからなかった。弱っている人を見たら放って置けない優しさと同情のため、学級委員長という役職上の責任からくる義務感のため――そんなわけがない。それくらいは、詩乃にもわかった。同情でも義務感でもないとすれば、愛情か怨情だ。恨みだとすれば怖すぎるが、そこまで恨みを買うようなことをした覚えはない。さりとて、愛情についても、自分が新見さんにそれを抱かせるような男である覚えもない。
その日、柚子が帰った後も、詩乃は柚子の行動をどう解釈すべきか頭を悩ませながら、部屋を掃除したり、風呂に入ったりして過ごした。夜には熱も下がり、風呂に入ると汗も出てきた。そうして頭にかかっていた靄が晴れると、この二日間のことを鮮明に思い出し、身もだえし、その後で落ち込むのだった。
弱い所を見られた。こんな汚い部屋も見られた。布団をかけてもらったり、飲み物も、食べ物も、何から何まで世話をされてしまった。こんな情けない男のどこに、恋愛感情を抱けるというのだろうか。だから全くわからない。恨みでも愛情でもないとすれば、新見さんが自分を構うのは、好奇心のせいなのだろうか。おままごとの様に、楽しんでいるのだろうか。
おままごとは、あり得る線かもしれない。自分を、手のひらの上で転がして、反応を楽しんでいる。でも、それにしては大人しいと思う。遊びならもっと、遊ぶのではないだろうか。きゃぴきゃぴ、べたべたと、いかにもな言動をするものではないだろうか。新見さんの看病は、おままごとのお遊びと言うには、真剣味が違っていた気がする。
バスタオルを首にかけたまま、詩乃はデスクチェアーに座った。
部誌の準備にテスト勉強。やることはたくさんある。
しかし詩乃はその後二時間、椅子に座って頬杖を突いたり、天井を仰いだり、キーボードの前に突っ伏したりして、やるべきことの何もかもを放棄していた。そして、そのままうつらうつらと眠り始め、気づくと外は明るくなっていた。
柚子が詩乃の家にやってきたのは昼の一時過ぎだった。
地元のケーキ屋に寄ってケーキを五つほど買い、その後電車に乗り、詩乃の家の近くにあるスーパーで昼食のための食材を買ってきていた。
「こんにちは、新見です」
『はい、どうぞ』
ブザーを鳴らし、スピーカーから詩乃の声が聞こえてくる。安心感と緊張感が同時に沸き上がってきて、思わず柚子は、自分の感情の滅茶苦茶さに笑ってしまうのだった。
「あ、新見さん。――どうぞ」
詩乃は扉を開けて、柚子を玄関に招き入れる。
扉を開けて柚子を確認するその一瞬は、詩乃に色々な衝撃をもたらした。新見さんがここにいる、本当に来た、という驚きがまずあり、そして次に、その着ている服にドキリとする。ブラウンレッドの薄手のニットセーター――白系統のイメージが強い柚子がそれを着ていると、それだけで何か、特別な感じがする。下はスカートを穿いていた。ベージュのフレアスカートである。リボンベルトが可愛らしく、丈もひざ丈で、ふくらはぎから足首のラインが露になっている。ニットの上から羽織っている白いショートカーディガンに詩乃は妙な安心感を覚えた。
柚子も柚子で、詩乃が昨日までの灰色一色の部屋着から着替えているのを見て、体調が回復したらしいことを見て取った。髪もサラサラで、微かにシャンプーの匂いもするから、きっと今朝、シャワーでも浴びたのだろう。若葉色のカットソーに黒い七分丈のパンツ。――パンツの方は花火の時に着てたやつだ。でもその気づきは、柚子は言わないことにした。そんな花火大会のことを思い出すよりも、柚子はまず、シャワーを浴びたり、服を着替えたりしている詩乃の気持ちが嬉しかった。自分の存在が、認められているような気がした。
「水上君、緑色も似合うね」
「え?」
服を褒められたことのない詩乃は、突然そんなことを言われたので、驚いてしまった。そんな詩乃の初心な反応さえ、柚子は愛おしく感じた。
「――ごめんね、遅くなっちゃって。お腹空いたよね」
「大丈夫……」
詩乃は、何の警戒もなく玄関に入ってくる柚子に緊張してしまった。狭い玄関にいるので、柚子は、扉を開けた詩乃の無防備な懐に入り込むような形になる。高原の草花を思わせる清涼な香りの中に微かな甘さがある、そんな柚子の香りを吸い込んでしまい、詩乃は思わず息を止める。何かものすごく悪いことをしているような気がした。
「熱、どう?」
そう言いながら、柚子は空いている左手を持ち上げて、詩乃の額を触った。詩乃は、予想外のボディタッチに、固まってしまった。
「もう、下がったよ」
詩乃がロボットのようにそう言うと、柚子は満足げに頷いた。
詩乃は、柚子に右手を差し出した。最初柚子は、それが何を意味しているのか分からなかったが、荷物を持ってくれるという意思表示であるということを理解して、小さな「ありがと」という言葉と一緒に、持っていた二つのビニール袋を詩乃に渡した。
柚子は靴を脱ぎ揃えて廊下に足を踏み入れた。立ち上がった時、部屋から流れてくるバニラの香りに気が付いた。
「良い匂いするね」
「うん」
詩乃は今朝起きたあと、午前中を使って、ババロアを作っていた。看病をしてくれたお礼に、柚子に食べてもらおうと思ったのだ。
一方で柚子は、ケーキなんて買ってきて、余計なことをしたかなと思った。柚子のケーキは快気祝いではなく、詩乃の誕生日のためのケーキだった。詩乃の誕生日が九月二十日――つまり昨日だったということを柚子は忘れたわけではなかった。本当は昨日お祝いを言いたかったが、まだ熱がある中で、それは迷惑だと思ったのだ。でも今日なら、水上君の熱が下がってれば、お祝いをしたい。柚子はそう思って、ケーキを買ってきていた。
「おぉ、綺麗になってる」
詩乃の部屋はすっかり片付けられていた。布団もクローゼットに仕舞ってあり、布団のあった場所の絨毯の上には、小さなちゃぶ台が置かれている。
「流石にね」
汚い部屋に招くのは、詩乃の本意ではない。できれば、昨日までのことは忘れてほしいと思う詩乃だった。
「ちょっと待っててね、ご飯作っちゃうから」
そう言って、柚子はカーディガンを脱いだ。
その動作の合間に、詩乃は柚子の綺麗な脇を見てしまい、絶句した。セーターが、ノンスリーブだとは思っていなかったのだ。詩乃は、目のやり場に困ってしまう。触ったら気持ちのよさそうな二の腕だなと一瞬思って、自分はおかしいんじゃないかと首を振る。
「――いいよ、作るよ」
また火傷なんかされたら大変だし、という言葉は呑み込む。
「私が作るよ! まだ本調子じゃないでしょ?」
「そうでもないよ。それとも、作りたい?」
柚子はどうしようかと思った。作ってあげたい、という気持ちもあれば、水上君の手料理を食べたい、という気持ちもある。どちらも捨てがたい。詩乃は柚子の考えをその沈黙の中から読み取り、提案した。
「じゃあ、一品ずつ作ろうか」
「あ、それがいい!」
柚子は、早速準備を始める。台所は狭いので、詩乃は、柚子の調理が終わった後、それにあわせてすぐに作れるものを作ろうと、とりあえず台所を開けた。
「水上君、何作る?」
「決めてないよ。新見さんは?」
「私はね、今日はカレイの煮付けなんてどうでしょうか」
「あぁ、いいね」
「ホント? 好き?」
「空気入れ替えようか?」
「うん」
詩乃の返事を待って、柚子は空調機の除湿を切ると、キッチンの所のガラス戸とベランダの冊子扉を半分ほど開けた。さあっと、カーテンが広がって、風が入ってきた。まだ風は生暖かい。ピピピっと、体温計の音が鳴る。
「どう?」
「六度九分」
「三十六度?」
「うん」
「良かった、だいぶ下がったね」
柚子は詩乃から体温計を受け取り、その数字を確認すると、柔らかい笑顔を見せた。詩乃は急に、自分の恥ずかしさや情けなさ、熱があるのに変な意地を張ってしまう自分の子供っぽさを思い、くすくす、けらけらと声を上げて笑ってしまった。
「え、何なに!?」
「いや……もう、おかしくて。はぁー……そりゃ、風邪もひくよね」
寝不足、不規則な食事リズム、日によっては食べない、寝る時も、面倒くさいからと冷房の温度を最低にして風量も最大のままにしている。これで、体調を崩さないわけがない。新見さんのお見舞いに行ったあの日の帰りは、嵐の中を、約一時間かけて家に帰った。どうして先に、新見さんの家から自宅までの帰り道のことを考えなかったのか。新見さんの家は学校の南にあって、自分の家は学校の北にある。あの時は、ただ新見さんの家に行くことだけを考えていた。思い返せば、ゲリラ豪雨の予報も出ていた。つくづく、馬鹿だなぁと、詩乃は思った。
柚子も、なんだかよくわからないまま、詩乃の笑い声に釣られて笑ってしまう。詩乃が声を上げて笑うのを見るのは、柚子は初めてだった。水上君は、こんなに笑うこともあるんだと、それを見られたことへの驚きと幸せで体が暖かくなる。
ひとしきり笑いあった後、詩乃は腕を組み、俯いて目を閉じた。
なんだろうと、柚子はドキドキしてしまう。
「夏風邪もいいもんだね」
詩乃は、考えた挙句、そう言った。
「え、良くないよ。苦しいよ」
「苦しいけど、一生夏風邪っていうのも、悪くないかもしれない」
「嫌だよ、一生夏風邪なんて! 元気になってよ」
「体が元気なことと、心が元気なことは違うよ」
「――心は元気だったの?」
「ある意味病気だけど」
詩乃はそう言って、自然なやわらかい表情で、柚子を見つめた。詩乃の優しい眼差しにあてられて、柚子は、目を逸らせなくなってしまった。そして、もっと見てほしいと柚子は思った。そうしてそのまま、私の目から、この感情も、気持ちも、全部覗いてほしいと思った。
「水上君、明日も、来て良い?」
「え?」
この申し出は、詩乃には意外だった。今日はまだ少しだけ熱が残っているが、明日になれば、もうすっかり熱も治まっていそうだ。来週はテストがあるのだから、新見さんは、看病よりもそっちを優先した方がいいのではないかと思う。よくよく考えれば、新見さんがわざわざ自宅にまで来て看病してくれている理由もわからない。おかげで、心はものすごく元気だけど、新見さんはそれでいいのだろうか。
「いいけど、いいの?」
「うん」
新見さんは、どうしてこんなに、自分のことを構ってくれるのだろうか。そのことが、やはり詩乃にはわからなかった。弱っている人を見たら放って置けない優しさと同情のため、学級委員長という役職上の責任からくる義務感のため――そんなわけがない。それくらいは、詩乃にもわかった。同情でも義務感でもないとすれば、愛情か怨情だ。恨みだとすれば怖すぎるが、そこまで恨みを買うようなことをした覚えはない。さりとて、愛情についても、自分が新見さんにそれを抱かせるような男である覚えもない。
その日、柚子が帰った後も、詩乃は柚子の行動をどう解釈すべきか頭を悩ませながら、部屋を掃除したり、風呂に入ったりして過ごした。夜には熱も下がり、風呂に入ると汗も出てきた。そうして頭にかかっていた靄が晴れると、この二日間のことを鮮明に思い出し、身もだえし、その後で落ち込むのだった。
弱い所を見られた。こんな汚い部屋も見られた。布団をかけてもらったり、飲み物も、食べ物も、何から何まで世話をされてしまった。こんな情けない男のどこに、恋愛感情を抱けるというのだろうか。だから全くわからない。恨みでも愛情でもないとすれば、新見さんが自分を構うのは、好奇心のせいなのだろうか。おままごとの様に、楽しんでいるのだろうか。
おままごとは、あり得る線かもしれない。自分を、手のひらの上で転がして、反応を楽しんでいる。でも、それにしては大人しいと思う。遊びならもっと、遊ぶのではないだろうか。きゃぴきゃぴ、べたべたと、いかにもな言動をするものではないだろうか。新見さんの看病は、おままごとのお遊びと言うには、真剣味が違っていた気がする。
バスタオルを首にかけたまま、詩乃はデスクチェアーに座った。
部誌の準備にテスト勉強。やることはたくさんある。
しかし詩乃はその後二時間、椅子に座って頬杖を突いたり、天井を仰いだり、キーボードの前に突っ伏したりして、やるべきことの何もかもを放棄していた。そして、そのままうつらうつらと眠り始め、気づくと外は明るくなっていた。
柚子が詩乃の家にやってきたのは昼の一時過ぎだった。
地元のケーキ屋に寄ってケーキを五つほど買い、その後電車に乗り、詩乃の家の近くにあるスーパーで昼食のための食材を買ってきていた。
「こんにちは、新見です」
『はい、どうぞ』
ブザーを鳴らし、スピーカーから詩乃の声が聞こえてくる。安心感と緊張感が同時に沸き上がってきて、思わず柚子は、自分の感情の滅茶苦茶さに笑ってしまうのだった。
「あ、新見さん。――どうぞ」
詩乃は扉を開けて、柚子を玄関に招き入れる。
扉を開けて柚子を確認するその一瞬は、詩乃に色々な衝撃をもたらした。新見さんがここにいる、本当に来た、という驚きがまずあり、そして次に、その着ている服にドキリとする。ブラウンレッドの薄手のニットセーター――白系統のイメージが強い柚子がそれを着ていると、それだけで何か、特別な感じがする。下はスカートを穿いていた。ベージュのフレアスカートである。リボンベルトが可愛らしく、丈もひざ丈で、ふくらはぎから足首のラインが露になっている。ニットの上から羽織っている白いショートカーディガンに詩乃は妙な安心感を覚えた。
柚子も柚子で、詩乃が昨日までの灰色一色の部屋着から着替えているのを見て、体調が回復したらしいことを見て取った。髪もサラサラで、微かにシャンプーの匂いもするから、きっと今朝、シャワーでも浴びたのだろう。若葉色のカットソーに黒い七分丈のパンツ。――パンツの方は花火の時に着てたやつだ。でもその気づきは、柚子は言わないことにした。そんな花火大会のことを思い出すよりも、柚子はまず、シャワーを浴びたり、服を着替えたりしている詩乃の気持ちが嬉しかった。自分の存在が、認められているような気がした。
「水上君、緑色も似合うね」
「え?」
服を褒められたことのない詩乃は、突然そんなことを言われたので、驚いてしまった。そんな詩乃の初心な反応さえ、柚子は愛おしく感じた。
「――ごめんね、遅くなっちゃって。お腹空いたよね」
「大丈夫……」
詩乃は、何の警戒もなく玄関に入ってくる柚子に緊張してしまった。狭い玄関にいるので、柚子は、扉を開けた詩乃の無防備な懐に入り込むような形になる。高原の草花を思わせる清涼な香りの中に微かな甘さがある、そんな柚子の香りを吸い込んでしまい、詩乃は思わず息を止める。何かものすごく悪いことをしているような気がした。
「熱、どう?」
そう言いながら、柚子は空いている左手を持ち上げて、詩乃の額を触った。詩乃は、予想外のボディタッチに、固まってしまった。
「もう、下がったよ」
詩乃がロボットのようにそう言うと、柚子は満足げに頷いた。
詩乃は、柚子に右手を差し出した。最初柚子は、それが何を意味しているのか分からなかったが、荷物を持ってくれるという意思表示であるということを理解して、小さな「ありがと」という言葉と一緒に、持っていた二つのビニール袋を詩乃に渡した。
柚子は靴を脱ぎ揃えて廊下に足を踏み入れた。立ち上がった時、部屋から流れてくるバニラの香りに気が付いた。
「良い匂いするね」
「うん」
詩乃は今朝起きたあと、午前中を使って、ババロアを作っていた。看病をしてくれたお礼に、柚子に食べてもらおうと思ったのだ。
一方で柚子は、ケーキなんて買ってきて、余計なことをしたかなと思った。柚子のケーキは快気祝いではなく、詩乃の誕生日のためのケーキだった。詩乃の誕生日が九月二十日――つまり昨日だったということを柚子は忘れたわけではなかった。本当は昨日お祝いを言いたかったが、まだ熱がある中で、それは迷惑だと思ったのだ。でも今日なら、水上君の熱が下がってれば、お祝いをしたい。柚子はそう思って、ケーキを買ってきていた。
「おぉ、綺麗になってる」
詩乃の部屋はすっかり片付けられていた。布団もクローゼットに仕舞ってあり、布団のあった場所の絨毯の上には、小さなちゃぶ台が置かれている。
「流石にね」
汚い部屋に招くのは、詩乃の本意ではない。できれば、昨日までのことは忘れてほしいと思う詩乃だった。
「ちょっと待っててね、ご飯作っちゃうから」
そう言って、柚子はカーディガンを脱いだ。
その動作の合間に、詩乃は柚子の綺麗な脇を見てしまい、絶句した。セーターが、ノンスリーブだとは思っていなかったのだ。詩乃は、目のやり場に困ってしまう。触ったら気持ちのよさそうな二の腕だなと一瞬思って、自分はおかしいんじゃないかと首を振る。
「――いいよ、作るよ」
また火傷なんかされたら大変だし、という言葉は呑み込む。
「私が作るよ! まだ本調子じゃないでしょ?」
「そうでもないよ。それとも、作りたい?」
柚子はどうしようかと思った。作ってあげたい、という気持ちもあれば、水上君の手料理を食べたい、という気持ちもある。どちらも捨てがたい。詩乃は柚子の考えをその沈黙の中から読み取り、提案した。
「じゃあ、一品ずつ作ろうか」
「あ、それがいい!」
柚子は、早速準備を始める。台所は狭いので、詩乃は、柚子の調理が終わった後、それにあわせてすぐに作れるものを作ろうと、とりあえず台所を開けた。
「水上君、何作る?」
「決めてないよ。新見さんは?」
「私はね、今日はカレイの煮付けなんてどうでしょうか」
「あぁ、いいね」
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