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プロローグ
しおりを挟む母がぼくを殺し
父がぼくを食べた
きょうだいたちはテーブルの下に隠れていて
ぼくの骨を拾って冷たい石の下に埋めたんだ
〈マザー・グース『母がぼくを殺した』〉
虫の羽のような軽い音をたてて風を切り、透明で薄い翼を持ったエアプレーンがゆったりと滑空していく。少女は満面の笑みを浮かべて、その華奢な飛行機を追った。
「すごいすごい!」
そのエアプレーンは数メートル以上も飛び、緑の芝生にゆっくりと着地した。
長い髪を背に垂らした少女は、興奮してぴょんぴょんと跳ねながら、その黒髪に結んだピンク色のリボンを揺らして振り返る。
彼女もその小さな手に、よく似たエアプレーンを持っていた。
「ねえねえ! どうやったらおにいちゃんみたいにうまく飛ばせるの? 教えて!」
遊びに夢中になる子犬のようなそのさまに、黒髪の青年は目を細める。
彼が身に纏っていたのは青色のフライトスーツだった。その肩には銀糸で「UAF」と刺繍がしてある。
ゆっくりした足取りで歩み寄り、芝生の上に着地したエアプレーンを拾うと、彼はくすりと笑った。
「ちょっとしたコツがあるんだよ。機体の重心付近をこんなふうに軽く持って、まっすぐではなく斜め上方向に投げることだよ。やってごらん」
青年が仕草で示してみせると、少女は真剣な表情でその動きを幾度もシミュレートしてから、こくこくと頷いた。
「うん。わかった。こうだね」
「そうそう、そんな感じ」
「えい!」
そして、気合の入った掛け声とともに、手に持ったそれを大空へ向けて放つ。
しかし彼女の思惑とは別に、派手な宙返りをきめて、それは無残にも墜落した。
青年のプレーン同様に大空高く舞い上がるそれを期待していた少女は、露骨にがっかりして肩を落とす。
「ええー!」
「ありゃあ、見事なインメルマンだったねえ」
「なんでなんで! なんでおにいちゃんのみたいに飛ばないの? おにいちゃんと一緒に作ったのに!」
喜んだり落ち込んだり、まるで一人百面相だ。くるくるまわって忙しい。
青年はくすくす笑いをこらえながら、少女を手招く。少女は落ちた愛機を拾い上げると、青年の元に駆け寄った。
「ねえおにいちゃん、おにいちゃんの飛行機はちゃんと飛ぶのに、こっちはどうしてこんなふうに落ちちゃうの? あたしもちゃんと飛ばしたい!」
青年は目を眇めて、少女の作った小さな飛行機をあれこれひっくり返して見ていたが、やがて顎に手を当てて小さく頷く。
「うーんこれはたぶん、エレベータだね」
「えれべーた?」
少女はきょとんとして首を傾げる。
「あの、上がったり下がったりする箱のこと?」
「え?」
今度は青年が呆気にとられる番だ。けれどすぐに、にっこりと笑う。
「ああ、まあ、当たらずとも遠からず、ってところだね。エレベータっていうのは、飛行機の翼の一部のことさ」
「つばさのいちぶ?」
「そうだよ。ほら、見てごらん」
青年は、その小さな飛行機の主翼と尾翼の一部に、ちょんちょんと指先で触れながら説明する。
「飛行機はごく大雑把に言ってしまえば、このエルロン、ラダー、それからエレベータの自由に動く翼により、機体の動きを制御するものなんだ」
「えるろん? らだー?」
「うん、そう。飛行機がくるりとロールできるのはこのエルロンのおかげ。日本語で言うと補助翼のことだね。きみにはまだちょっと難しいかな?」
「難しくないもん。いいからもっと教えて!」
少女はむっとしたように頬をふくらませて抗議する。その、どこかおっとりしたような見た目によらず、負けん気は強いようだ。青年は微笑み、頷くと続ける。
「飛行機が横方向にまわるとき――つまり旋回するときは、上へ浮かぶ力、難しく言うと揚力というものなんだけど、この揚力を利用するために、まず旋回したい方向へバンクする必要がある。バンクっていうのは、身体を傾けることだね。普通の飛行機は、主翼の動翼であるエルロンの操作でこれをするんだ」
青年は手にしたエアプレーンを少女の目の高さに掲げると、少し傾けた状態で横方向にゆっくりと旋回させてみせる。
「ラダーは垂直尾翼――飛行機のお尻にある縦の翼だね――の後ろにある部分で、ヨーイングを起こしたり止めたりすることに使う。ヨーイングというのは、左右の首振りのこと。でも飛行機は、左右に首を振るだけではまわれない。そのためにはラダーと同時にエルロンで機体をバンクさせる必要があるんだ」
だいぶ噛み砕いて説明はしていても、おそらく、日本の小学校なら低学年といったところの少女には、この話はまだ難しかったかな。そう思って青年は彼女の顔を覗き込んだ。
しかし、意外にも彼女のまなざしはいたって真剣だ。時折小さく頷きながら青年の話に聞き入っている。おそらく、感覚的にだろうが本当に彼の話が理解できているのだろう。
この年頃の女の子は、たいていこういった話にはあまり興味を示さないものだと思っていた青年は、その意外さに内心では驚いていた。後になって思えば、それが彼女に対する認識を改めたきっかけではあったのだが。
「じゃあ、最後にエレベータだけど、エレベータは水平尾翼の後ろにある部分だよ。水平尾翼全体が動くタイプは、スタビライザとエレベータを兼ねることから、スタビレータとも呼ばれ、精密な舵取りが必要な戦闘機に使われることが多いね。あそこにいる飛行機の尾翼にあるのもそうだよ」
そう言って青年は前方を指差す。そこには銀色に光る優美な流線型のボディを持つ飛行機が佇んでいた。UAFの曲技専用機、ダルフィム‐マークⅡ、通称D‐2だ。
「ラダーはコックピットにあるラダーペダルで操作するんだけど、普通の飛行機は、このラダーペダルでタキシングのときの操縦もすることが多いね。タキシングっていうのは、飛行機で陸上を移動すること。よく滑走路上を飛行機がタイヤで走っているだろう。あれだよ。なんなら、実際の飛行機の近くに行って見てみるかい?」
青年が言うと、少女は笑顔で頷いた。少女が見やすいように肩車をしてやる。彼女はきゃっきゃと明るい声を上げてはしゃいだ。
「おや、こんなところにいたのか。てっきりハンガーの中かと思っていたから、探したぞ」
その声に振り向くと、二人の後ろには青いフライトスーツに身を包んだ男性が立っていた。
少女の笑顔がぱっと輝く。
「おとうさん!」
「テストフライト、お疲れさまです、鷹羽大尉」
青年は敬礼する。
「お預かりしたお嬢さんを、勝手に連れまわしてしまって申し訳ありません」
青年は肩車していた少女を父親に引き渡す。
「いいや、こちらこそすまないね、森岡少尉。すっかり子守をさせてしまって」
少女を自分の肩に座らせて、鷹羽大尉は前髪をかき上げると口元に笑みを浮かべた。
空の色を写し取ったかのようにきれいな青い文字盤の腕時計が、その手首できらりと陽光を反射する。
「今日は非番だから、せっかく私がテストパイロットとして開発に参加したD‐2を、この子に見せてやろうと思って連れてきてみれば、ちょうどいいと技術屋連中に捕まってしまってこのざまさ。まったく、あいつらは非番の人間をいったいなんだと思ってるんだ」
「そんな、子守だなんて、お嬢さんと話せて、ぼくも楽しかったですよ。それにしても、大尉のお嬢さんはすごいですね。飛行機についてぼくが話したことを、あっという間に理解して、吸収してしまうんです」
大尉は意外だとでもいうように目を丸くする。そうして、愛娘の顔を見上げた。
「驚いたな。お前が飛行機に興味があったなんて」
「うん!」
少女は父の肩の上で楽しそうに笑う。
「おとうさん、飛行機って面白いんだね。それに、おにいちゃんのお話もとっても楽しいの!またここに遊びに来てもいい?」
「ああ、いいよ。でもお父さんが休みのときで、一緒に来られるときだけだ。それでもいいな? わがまま言って、森岡少尉を困らせるんじゃないぞ」
「うん」
少女は満面の笑みで頷く。その黒い瞳に、青い空が映り込んでいた。
背後に広がるのは、どこまでも澄みきった青いキャンバスのような空。
そろそろ初夏を迎えようという頃ではあったが、大気はしっとりと湿り気を帯びており、気温はやや低い。今朝方まで降っていた弱い雨のせいだ。
遥か遠くには、薄い二連の虹も見える。その空に、不意に轟音が響き渡った。
思わずびくりと少女が肩をこわばらせると、鷹羽大尉はやさしく笑う。
「心配いらないよ。練習機が飛ぶだけだ。見ててごらん」
「うん」
少女が驚いたのはその音、しかも一瞬だけのようだった。幼い瞳が見守るその先を、空を翼で切り裂くようにして、ほとんど垂直に急上昇してゆく白銀の機体。
鋭く切れ上がった翼の両端から生まれるヴェイパー・トレイルが、まさに大空に引かれた鮮やかなレールのようだ。
機体は一度、翼を左右に振ったかと思うと、くるりとロール。その一瞬に、白銀のボディが陽光を弾く。大海原を翔るイルカのように自由に、そしてしなやかに空を舞い、それはやがて白雲の彼方へ消えていった。
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