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 私は星屑鉄道に乗って夜の海を渡っていた。
 車両は両端に座席がある、よく私鉄の各駅停車とかで使われているタイプで、私は座席に座って向かいの大きな窓から流れてくいく景色を見てた。
 街並みはずっと遠く、海辺に灯ったネオンの光が綺麗やった。星屑鉄道は水平線の上を真っ直ぐに進んでいるみたいで、窓からはいつまでもそんな付かず離れずの美しい街並みが見えた。
 ガタンゴトンと列車は進む。
 一人、座席に座ってる。
 てかさ、今気づいたんやけど、何かお客さん減ってない?
 さっきまでは私を含めて五、六人はいたのにいつの間にか同じ車両に誰もいなくなってる。
 おかしいなぁ。一度も駅になんて停まってないのに。どこ行ったんやろ? あ、トイレ? うそ、みんないっぺんに? 有り得ないやろー。それは。車両内も別に寒くないし。冷えちゃったとか、ないと思うし。ちょっとだけ暖房もついてるし。ちょうど良い室温やし。
 まぁ、いいや。
 私は再び窓の外に目を向けた。
 さっきまでと変わらない風景。めっちゃ綺麗やけど、こうも続くとさすがに飽きてくるなぁ。私は制服のスカートをふわっとさせて足を組んで欠伸をした。
 あれ、そう言えば私、なんで制服なんて着てきたんやろ?
 もうとっくに春休みなのに。着慣れたビリジアン色のブレザーとスカート、白のシャツ。学校指定のリボンはしてない。これはいつも。邪魔やから。
 というか、私は何処へ行くんやろ?
 そもそもこの列車、どこへ向かって走ってるんやろ?
 車両には私一人。聞こうにも誰もいない。これは困る。
 私は溜息をついて立ち上がった。ここに座っていても仕方ない。とりあえず前の方の車両に歩いて行こう。一番前まで行けば少なくとも運転士さんがいるはず。行き先を聞こう。
 車両間のドアは古く、重かった。動かすと、ぎいい、と古くなった油を削り取るような嫌な音がする。もー、何よ、このドア。最近の電車は市営地下鉄でも取っ手を握ったら自動でドアが開くのに。
 移った一つ前の車両はさっきまで私がいた車両と同じで誰もいない。造りも同じやから、まったく同じ場所に見えた。
 私はうんざりした。車両を移る毎に入り口と出口、ドアを二枚開かなくてはならないのだ。ここが前から何車両目か分からない。先が分からない分、気持ちが暗くなる。
 まぁ、でも仕方ないよなぁ。行くしかないやん。なんて自分を奮い立たせてドアを開いていく。案の定、次の車両も無人。そしてその次も。その次も。
 なんなのー、これ。
 十車両移った時、私は自分が汗をかいていることに気づいた。何、もう最悪。着替えなんか持ってないのに。てか私、何も持っていない。手ぶらだ。携帯も財布もない。
「あー、もう」
 何て声に出してみる。無人の車両やから声、響くかと思ったけど意外とそうでもない。何かガックシ。更に私は進む。額から汗が流れ落ちる。汗、ムカつくなぁ。なんて思ったけど、そう言えば汗かくの久しぶりやなぁ、とも思った。多分、体育のマラソンの授業以来やな。あ、お風呂とかは別ね。それ入れるなら先週お母さんと岩盤浴も行ったし。運動してかいた汗って意味。
 とにかく進む。
 しかし、このドア、どこまで続くのか。重いし。もう私、汗びっしょりやん。スカートが足にへばりつく。腕やってだんだん痺れてきた。やばい。私、だいぶ限界。マラソンよりヤバいよ、これ。なんて思ってたら唐突にさっきまでと感じの違う車両に出た。
 何が違うって、何だかトロッコ列車みたいなのだ。
 窓とかなくて屋根と柱だけ、座席も前向きの一方向になっていて、その先にまた、次の車両へ続くドアがある。ドアの造りとやはり無人なところだけが同じで、あとは全然違った。
 変な車両。星屑鉄道は水平線の上を走っているわけやから、船みたいやった。風が気持ちいい。けっこうなスピードで走っているのにそんなに強くもなくて、寒くもない。
 私は座席に座って海を覗きこんだ。
 夜の海は真っ黒で、もし私が今間違って落ちたら確実に死ぬなぁ、なんて思った。それは怖かったから車両の端についた手すりをしっかり握った。
 何気なく沖合いを見ると、少し離れたところに海面から飛び出す魚の群れを見つけた。
 あ、あれ、テレビで見たことある。イルカだ、多分。私は興奮した。だって野生のイルカなんて見たことなかったし。生涯見れることなんてないと思ってた。
「おーい、イルカー。こっちおいでー」
 冗談のつもりで呼んでみたんやけど、聞こえたのか、魚たちは群れをなしてだんだん私の方に近づいてくる。
 わ、わ。すごい。すごい。
 てか、なんで私の言葉が分かるん? きゃー。なんて喜んだんやけど、徐々に近づいてくる魚たちを見て私は違和感を感じた。
 魚たちがいつまで経っても大きくならないのだ。
 列車から十メートルくらいのとこまで近づいてきた時、ようやくそれに気づいた。あれは遠近法じゃない。イルカじゃない。もっと小さな、トビウオのような魚だった。
 えー、イルカちゃうんか。ガッカリした。近くで見ると姿形もイルカとは全然違う。彼らはイルカのようにシュっとスタイリッシュではなくて、海面から飛び出した瞬間に口をパクパクさせて、小さな羽を羽ばたかせ、何だか必死な顔をして飛んでいた。
 いや、頑張ってるなぁ……私は純粋な感想を抱いた。遠目に見てると華麗なのだが、近くで見ると泥臭くて、ほんとに魚たちの頑張ってる感が伝わってくる。不細工な顔。でもだんだんそれが美しく思えてきた。頑張ってる姿ってやっぱり見ていて気持ちいい。よく見ると月明かりに照らされた小さな羽がきらきらと綺麗やった。飛沫も、そのあとの波紋も愛しくなってきた。頑張れ! 魚! 私は強くそう思った。
 そんな姿を見ていると、だんだん触ってみたくなってきて、片方の手で手すりをしっかり握り、もう片方の手を海に、魚たちに手を伸ばした。その頃にはもう彼らは列車のすぐ隣を並走していて、手を伸ばせばほんとに触れそうだった。
 私は頑張って手を伸ばす。魚たちは星空をバックに、私の手をすり抜けて飛んで行く。飛沫が手にかかる。わー、幻想的。なんて思ってたら後ろから急に肩を掴まれた。
 私はびっくりして振り返ると、そこには帽子を被った小さなおじさんがいた。
「何やってんだ?」
「いや、魚が綺麗やったから、触ってみたいなと思って」
「何を馬鹿なことを。落ちたら危ないだろ」
 そう言っておじさんは私を力まかせに車両の中側へ引っ張った。力まかせと言ってもおじさんは小柄で、力も弱かったからちょっと引っ張られたって感じやったけど、それでもちょっと腹が立って、
「ちゃんと手すりを握ってたから大丈夫よ」
 なんて言い返す。
「どうだか」
 するとおじさんは私を押しのけて魚の方に行き、
「おい、お前ら。いつまでも遊んでないでさっさと帰って寝ろ!」
 なんて怒鳴るんやけど、魚たちはガン無視で、相変わらずピョンピョン飛んでいる。
 おじさんは少し不機嫌そうにチッって舌打ちをしてポケットから苺を一粒取り出し、ヘタを取って遠くの海に放り投げた。
 すると魚たちには打たれたかのように方向を変え、苺が落ちた辺りに消えて行った。
「え、魚やのに苺なんて食べるの?」
「何言ってんだよ。苺は魚の好物だろ」
 おじさんが不思議そうな顔をする。
 そうやっけ?
 いや違うやろ。普通に考えて。
 でも現に魚たち、苺を追いかけて行ったよなぁ。なんて考えてるとおじさんが、
「で、お前なんでこんなとこにいるの?」
「あー、その。最初はもっと後ろの車両に乗ってたんやけど、いつの間にか気づいたら周りに私しかいなくなってて、誰かいないかなぁ、と思って前の車両に歩いて来たの。そしたらこの変な車両に出て」
「ふぅん」
「おじさん、この列車がどこ行へ向かってるか知ってる?」
「星屑鉄道の行き先? からかってんのかよ。そんなの誰でも知ってるだろ」
「いや、それが分からんから聞いてるんやって」
「分からないって、じゃお前何で乗ってんだよ?」
「それはー……その。あのー、何でやろ? 言われてみればまぁ、うーん。確かに」
「何じゃそりゃ」
 おじさんがはぁ? みたいな顔をするからちょっと腹が立った。
「仕方ないじゃない」
「何だよ。逆ギレかよ」
「別にキレてないわよ。てか、おじさんこそ何してんのよ?」
「俺はちょっと倉庫車に行ってただけだよ。食材のストックを見に。てかお前、さっきからおじさん、おじさんって、失礼だろ。俺はコックだよ。見ろ」
 そう言っておじさんは自分の被った帽子を指差した。
 帽子は確かによくコックさんが被る白くて長いやつだった。なるほど、そう言われてみると白い服、白い帽子。確かにおじさんの風貌はコックさんそのものやった。
「コックさんなんや。でもコックさんが星屑鉄道で何してるのよ?」
「何してるって食堂車の運営だよ。当たり前だろ」
「あ、そんなんあるんや」
「お前、ほんとに何も知らないんだなぁ。まぁいいや、付いてこいよ」
 そう言っておじさん、もといコックさんは私を促して前の車両へ歩いて行く。特別断る理由もないので私は言う通りに付いて行くことにした。
 コックさんは私よりも頭一個分小さいチビ助やったんやけど、帽子を足したら私より背が高かった。
 私は再び前の車両を目指した。前を歩くコックさんの大きな帽子が左右に揺れる。
 コックさんはどんどん進んで行った。重いドアを難なく開ける。あの小さな身体のどこにそんな力があるんやろ? さっき引っ張られた時の感じではめっちゃ非力そうやったのに、って私は思った。けどわざわざ聞くのもどうかと思ったので、黙ってコックさんの背中を追った。
 トロッコ列車みたいな車両の先は、また最初にいた車両のように普通で、同じように無人やった。それが続いていく。まったく、どんだけ長い列車やねん。そう思い窓の外に目をやると、海岸線のネオンが変わらず見えた。星屑鉄道は相変わらず水平線の上を進んでいるようやった。
 唐突に食堂車に着いた。
 さっきのトロッコ列車の車両と同じで唐突に。ドアを開けたらそこは食堂車やった。幾つかのテーブル、それぞれに真っ白なテーブルクロスが引かれて、その上に紙ナプキンやフォーク、ナイフが置いてある。小綺麗なレストランみたいやった。
「とりあえず座れよ」
「はーい」
 コックさんは車両の端の小さな厨房に入って行った。
 私は言われた通りテーブルについて、紙ナプキンで手を拭いた。そこで初めて気づいたんやけど、あんなに汗をかいていたのにいつの間にか不思議と身体中から汗が引いていた。まるで何もなかったかのように。
 コックさんが厨房から、
「苺か桃、どっち食べたい?」
「桃」
 私は即答した。
「分かった」
 厨房の方からコックさんが桃を切る音が聞こえる。包丁の音が、まな板の音が。私は手持ち無沙汰になって窓の外を見た。
 しかし歩いたなぁ。途中から数えてなかったけど、三十車両くらいは歩いたんちゃうかな。この列車、いったい何車両あんねーん。
 星屑鉄道は真っ直ぐに走っているから、車両内から外を見ても他の車両が見えない。カーブにでも入ってくれたら見えるんやけどなぁ。あ、てかさっきのトロッコ列車の車両で見とけばよかったな。あそこなら外に身体を乗り出せば見えた。魚にばっか気を取られてて失敗したなー。
 その時、食堂車の窓は他の車両の窓と違っていることに気づいた。他の車両は埋め込み式の窓やったのに、食堂車だけ上下にスライドして少しだけなら開けることのできるタイプの窓やった。しめしめ。私はさっそく自分の座ってるテーブル横の窓を開けて肩くらいまでを外に出してみた。髪が風になびいてばさばさってなった。
 髪をかきあげて歩いてきた後方車両を見てみる。星屑鉄道は昂然と海を渡っていた。頼もしくなるくらい力強く。けど、何かおかしい。何がって、思っていたよりずっと短いのだ。正確には数えていなかったけど、確実に三十、少なく見積もっても二十五車両は歩いたはず。でも今見る限り、後方車両はせいぜい十車両くらいしかない。え? どういうこと? あ、しかもさっきまでいたトロッコ列車の車両もないやん。えー、何で? どーして?
 なんて思っていたら後ろから制服のブレザーを引っ張られた。
「また危ないことして」
 振り向くとコックさんが呆れ顔で立っていた。
「ねぇ、コックさん、これって」
「何だよ」
 そう言ってコックさんは私を退かして窓を閉める。
「後ろの車両が減ってた。いや、減ってたって言うか無くなってたのよ。トロッコ列車の車両もなかった」
「何バカなこと言ってんだよ」
「だって」
 そう言う私の前に、コックさんが綺麗に盛り付けた桃を置いた。
「ほら」
「わっ、めっちゃ美味しそう」
「いいよ。食べて」
「ありがとうー」
 私はフォークを手に取り桃を一切れ食べる。わっ、美味しい。桃は綺麗に等分に切られていた。ジューシー。ほんでちょっと酸っぱい。私の好みの桃だ。歩いた甲斐があったー。良かったー。
 コックさんがコップに水を入れて持ってきてくれた。
「コックさん、桃、めっちゃ美味しい」
「そりゃそうだよ。厳選して俺が仕入れた桃だからな。切り方も上手いだろ?」
「上手い。すごいね」
「桃、好きなんか?」
「大好き」
「そっか」
 そう言ってコックさんは自分の分の水も持ってきて私の前に座った。
「お前、名前は?」
「薫」
「薫か。いい名前だな」
「ありがとう。コックさんは?」
「俺? 俺はコックでいいよ。みんなそう呼ぶ」
「ふーん」
「薫は今何歳だ?」
「十七。高二よ。あ、もう高三か。春休みが終わったら」
「高三かぁ。良い時期だな」
「そう?」
「そう? って、そりゃそうだろ。何だ? 楽しくないのか?」
「いやー、楽しくなくはないけど」
「まさかイジメとかか?」
「いやいや、そんなんはないよ」
「ならいいけど。イジメはダメだぞ。あれは本当にダメだ。する方もされる方も不幸になる」
「うん、私もそう思うよ。小学校の時、クラスでイジメがあったの。耳にちょっと障害がある子がいて、その子のことをクラスの不良っぽい女の子たちがイジめててん。イジメって言っても乱暴したりとかじゃなくて、無視したり、もの隠したりっていう陰湿なやつ。私はたまたまそのイジめられてた子と出席番号が前後やったから席が近かって、だんだん見てるのが辛くなってきちゃったんよね。それである日、不良っぽい女の子たちに、そんなんやめなよって言っちゃったんよ。けっこう強めに。そしたらほら、私って変なとこ迫力あるから、意外とその一言が効いてその子へのイジメはなくなったの。でもその後、しばらくしてイジめられてた子は転校しちゃったんやけどな。親とかもイジメに気づいてたみたいで、ずっと転校の準備を進めてたみたい。まぁ、仕方ないよね。でもめっちゃ後味悪かった」
「そうか。そんなことがあったのか」
「うん」
「薫はわりと良い奴なんだな。海に顔を出したり危ないとこがあるけど」
「あ、うん。ありがと」
「にしても、それなら何で楽しくないんだ?」
「別に楽しくないなんて言ってないやん。でもいろいろ大変やねんで、十七の女の子って。悩み多き年頃」
「へぇ。例えば?」
「だって、高三になったら受験生やろ。進路とか考えなあかんやん? 志望校とかさ。友達はみんな予備校とか行きだすし。私、なんか乗り遅れてるし。でもバイトしないとお金ないし。それもまた悪循環やん?」
「ほう」
「それに彼氏は春休みやのにバイトばっかやしさー。聞いてくれる? 久しぶりに電話がかかってきたと思ったらまたしばらくは会えそうにないなんて言って。まぁ、声が聞きたかったとか言ってたのはちょっと嬉しかったけどさ。でもふざけんなって話よ。私、もうすでに会いたくて仕方ないのにさぁ」
「ふぅん。彼氏は同じ高校の人?」
「ううん。違う。大学生よ。三つ歳上」
「へぇ」
「めっちゃカッコ良いねん」
「ふぅん」
 あれ、何かついこの前もこんな話したな。
「桃、もっとあるけど食べる?」
「うん」
 コックさんは再び厨房に戻り、新しい桃を切って私のお皿に乗せてくれた。私はまたそれを食べる。
「ね、どうなんよ。何か感想ないの? リアルな女子高生の悩み聞いて」
「どうって言われても」
「いろいろ大変そうやろ? 十七歳も」
「まぁ、それは確かにそうだけど。どれも楽しそうな悩みだなぁ、というのが正直な感想だな」
「何よそれ。私、真剣に悩んでんのよ」
「それは分かってるよ。でもそれってどれも今しか悩めない悩みだからなぁ」
「まぁ、そりゃそうやけど」
「少なくとも俺にはない悩みだよ。どれも。進学だってしないし、恋人だっていない」
 あ、コックさん、彼女いないんや。
 しまったー。
 地雷踏んだかな。私はたまにそういうことをする。私はなるべく気にしてないふうを装って、
「そっかぁ」
 なんて言った。桃を頬張りながら。
「そうだよ。今しかない」
「じゃコックさんは今何を悩んでるの?」
「うーん、そうだな。何だろ……」
 コックさんはそう言って水を飲みながら考えていた。しばらく、うーん、なんて考えた後、ちょっと困った顔をして、
「特にないなぁ。強いて言えば、平坦な生活の中で悩みなんてないことに悩んでる」
「何それ、大人」
 私は笑ってしまった。
「まぁでも考えてみればこれも今だけの悩みなんだよな。何か新しい悩みができたら、悩みがないなんて悩んでたことが過去になる」
「うん、それはそう」
「そう考えると、悩みなんてどうせ今だけなんだよな」
「まぁーね」
「だから深く考えたら負けだな。何もしなくても通り過ぎて行くんだから。進路なんて嫌でもそのうち見えてくるし、彼氏にだってそのうち会える」
「うーん。まぁそうやね」
 結局私は追加で切ってもらった桃も綺麗に全部食べてしまった。
「ごちそうさま。桃、ほんと美味しかった」
「そうか」
 コックさんはそう言ってちょっと微笑んだ。
「ね、コックさん」
「なんだ?」
「コックさんの言う通り、悩みなんて今だけのものなんやけどさ、ぶつかってみたいなー。私は。通り過ぎるのをただ待つんじゃなくて、ぶつかっていきたい。進路も頑張って決めるし、彼氏とも早く会いたい」
 私がそう言うと、コックさんはキョトンとした顔をしたあと、大声を上げて笑った。
「何で笑うのよー」
「いや、ごめん。ごめん」
「人が真剣に話したのに」
「いやー、やっぱり若いっていいな」
「何よそれ」
 するとコックさんは厨房の方に歩いて行き、何かを作り始めた。
 私はテーブルから身体を乗り出して厨房の方を覗く。コックさんは小さく切った桃と瓶に入った透明の液体をミキサーに入れ、そこに白い粉を少しふりかけて混ぜた。
 私は不思議そうにそれを見ていたら、コックさんはミキサーから果肉を取り除き、液体だけを棚から取り出した小さな瓶に入れた。
 薄桃色の綺麗な液体やった。
「なにそれ?」
「俺特性の桃ジュース。特別にやる」
「へぇー、ありがとう」
「薫は良い奴だ。その意気で頑張れ」
「応援してくれんの? ありがとう。うん、私、頑張る」
 そう言いながら私はほんとに頑張ろう、と思った。これから頑張ろう、と。
 うん。良い傾向。
 決意の一歩、というやつですな。
 それで私は景気良く、ぐびっと水を飲んでやろうとグラスに手を伸ばしたんやけど、何故か身体に力が入らず、テーブルからグラスを持ち上げることができなかった。
 あれ? なんで?
 何だか頭が靄がかかってる。
 スモークみたいに。もわもわって。
 その時、私は何故だか自分がだんだん眠くなっていることに気づいた。さっきまで別に何ともなかったのに。ほんと急に眠気が私を襲った。それは抗いがたい、身体が暖かい泥に飲み込まれていくような、鮮やかな睡魔やった。
「なんだ? 眠いのか?」
「うん、なんだかすごく眠い」
 普通に座っていられなくて机に腕を組み顔を埋めてしまう。退屈な五限目の授業中みたいに。
「あと二時間もすれば朝になる。星屑列車も終点に着くはずだ」
「うん」
 だからさ、コックさん、終点てどこなん? けっきょく教えてくれなかったやん。思ったけど思うだけで言葉にならない。身体がだんだん眠りに支配されていく。もう自分の八割くらいは眠りに持っていかれた。
「頑張れよ、薫」
 うん、と言おうとしたがやはり言葉にならない。意識が消えていく最中、窓の外を見ると、いつの間にかさっきまではあった海岸線のネオンの灯りが消えていた。真っ暗になっていて。列車が海岸から離れたのか。
 ゆっくりと瞼が閉じる。
 そうして私は眠りに落ちた。


 コーヒーの香りが上の方から手綱を垂らしてくれている。
 でもまだ届かない。
 私と手綱の間にはまだ背丈くらいの距離がある。
「ねぇー、もうちょっと下に伸ばしてよ。手、届かないのー!」
 上の方にいるのであろうコーヒーの香りに向かって大声を出す。けど返事はない。
「ねぇー、お願い!」
 再度、大声で。すると、またしても返事はなかったけど、ゆっくりと手綱が下りてきた。そうそうその調子。
 手綱は私の手の届く高さでちょうどいい感じに止まった。真っ白く細い、コーヒーから昇る湯気のような手綱やった。
 試しに引っ張ってみたけど、意外としっかりしていて切れる気配はない。大丈夫よね、登っても。私、そんなにデブちゃうし。どっちかと言うと痩せてる方やし。そう思ってるし。
 それで私は手綱を登っていく。
 辺りは薄暗く、とりあえず何もないことだけは分かった。手綱だけが白く、闇に映えていた。私の体重がかかり、ピンと直線になってずっと上まで続いている。
 しばらく登ってみたが、一向に終わりが見えない。コーヒーの香りだけは、確かにそこにいるんやけど。てか、あー。また腕がまた痺れてきた。星屑鉄道のドアを開け続けたダメージがまだ残ってる。やっばいなぁー。もうけっこう登ってきたから今更引き返せないし。落ちたら死ぬやんな。多分、ビル二、三階分は登ってるはず。私は下を見てみたが、闇が深くて底が見えなかった。
 しかし不思議と恐怖はなかった。
 こんな状況で、やっばいなぁとか思ってるのに怖くはない。気持ちはふわふわしていて、まぁでも何とかなるやろなぁ、なんて感じで。まるでシンナーを吸って頭の中が飛んじゃった時みたいな。私はシンナー吸ったことないけど。
 しかし実際、コーヒーの香りがなかったらほんまにやばかったかも。だって手綱がなかったらずっとあそこに座ってるしかなかったんやもんなぁ。薄暗いし。それはちょっと滅入る。あー、でも腕しんどい。元々私、運動できひんのやから。中学のバスケの試合にも出れないんやから。それやのにこんなに登って。ようできてる方やわ。ほんまに。くそー。
 まぁでも、仕方ない。もうちょっと、できる限りは登ってみるか、なんて思って、覚悟を決めて手綱を強く握った瞬間、私は食堂車のテーブルにいた。
 食堂車の中は明るく、夜はもう明けたみたいやった。テーブルの上にはホットのコーヒーが一杯置いてあった。白くか細い湯気が昇ってる。
 私の頭はぼんやりと、まだふわふわしていて状況がなかなか読み込めなかった。
 腕が痺れている。ずっと頭を上に乗せて寝てたからやわ。えーと、ここは食堂車。確か私はここで桃を食べてた。コックさんが切ってくれたやつ。すごく美味しかった。で、その後なぜだがちょっと熱い話になって、悩みなんて今だけのこととかなんとか……あ、そうだ。そしたらだんだん眠くなってきちゃって机に突っ伏して寝ちゃったんだ、私。
 食堂車にコックさんの姿はなかった。
 肩から真っ白のテーブルクロスが掛けられていて、見ると、右斜め前のテーブルにだけテーブルクロスがなかった。
 どれくらい寝てたんやろ。夜はもう終わってる。星屑鉄道も停まっていて、外を見ると何処かの駅のようやった。隣にも同じような列車が停まっていた。
 なるほど。ここが終点ってわけね。
 でも私はすぐには動く気にはなれんくて、とりあえず目の前のコーヒーにミルクと砂糖を入れて飲んだ。
 コーヒー自体は普通の味で、特別美味しいってわけでもなかった。まぁ、私、それほどコーヒーの味にうるさいわけちゃうんやけどね。でもこの香り、これは間違いなくさっき薄暗闇の中で私に手綱を垂らしてくれた香りやった。ありがとう。あなたのおかげで眠り姫にならずに済んだわ。まぁ、もしサリがキスしに来てくれるんなら眠り姫でも別に良かったけどさ。あのコックさんじゃちょっとねぇ。って失礼。
 さて、これからどうしようか。
 とりあえず私は別に何の目的もなく星屑鉄道に乗っていた。だからもう、帰りたい。お母さんに黙って出て来ちゃったし。門限なんてとっくに越えてるし。てかもう朝やし。
 ここは駅なんやから、折り返しの電車も出てるやろう。駅員さんに事情を説明して帰してもらおう。
 よし、と立ち上がった時、テーブルの端に薄桃色の液体の入った瓶が置いてあることに気づいた。あの瓶。あー、思い出した。コックさんにもらった桃ジュース。危ない、危ない。忘れるとこやった。私はその瓶を、わりかし小さく、小瓶だったので制服のブレザーのポケットに入れて食堂車を出た。
 列車の外に出ると思っていたよりも駅は広く、改札がどこにあるのかすぐに分からなかった。先頭車両の向こう側に人だかりができていて、私はそこに向かって歩き出した。てか、人。久しぶりに見た気がした。星屑鉄道の中ではどんなに探してもコックさん以外、誰も見つからなかったのに。ちゃんとお客さんいるやん、この鉄道。良かった。
 先頭車両のところまで行くと、線路はここで終わっていて、思った通りここが終点のようやった。それにしても大きな駅やなぁ。列車が十車両くらい並んで停まっている。その前は広場みたいになっていて、人々がベンチに腰掛けてサンドイッチを食べたり、新聞を読んだりしていた。何だか外国の駅みたいやなぁ。広場の中心には噴水があり、その中心は大きな時計台になっていた。
 綺麗な噴水やった。
 流れ出す水は透き通っていて、水底にはビー玉みたいな色とりどりのガラス玉が敷き詰められていた。時計を見るともう八時半。春休みで良かった。じゃないとまた遅刻やった。
 てかお腹すいたなぁ。昨日の夜、めちゃくちゃ桃食べたけど、桃じゃあんまりお腹の足しにならないし。広場で何人かが食べてるあのクラブサンドが食べたいなぁ。分厚いハム、みずみずしいレタスとオニオンスライス、そこにシーザーサラダみたいなドレッシングがかかっていて、それがカリッと焼いたパンに挟まれていた。
 でもよく考えたら私、財布持ってない。ポケットを探ってみたけど小銭すら一円もない。参ったなぁ。はぁ、でも仕方ないか。クラブサンドは諦めるしかない。もう、さっさと帰ろう。ここが何処か分からんけど帰ろう。帰ってお母さんにご飯を作ってもらおう。
 広場の向こう側に改札を見つけた。これまた大きな改札やった。でももっと驚いたのはその向こう。改札の向こう側に見たこともないような綺麗で大きなお城があったのだ。すごいお城。ディズニーランドのシンデレラ城なんて目じゃないくらい。すごいなぁ。てかここ、ほんまにどこやねん。駅にいる人達は何となく日本人ぽいけど、風景は日本じゃないみたい。まぁ星屑鉄道は海を渡ってたから、外国に来てしまったとしてもおかしくはない。てかきっとそうやわ。この風景。ここはどこか知らない国。きゃー、私海外なんて初めてやわ。まさかこんなカタチで来るとは。まぁ、でも、帰る。お腹すいたから。
 改札の端に駅員さんが立っていて、何人かが並んで順番に分からないことを問い合わせていた。私もその列に並んで自分の順番を待った。駅員さんは優しく人々の問い合わせに応じていた。
 運良く帰りもあのコックさんのいる列車やったらいいなー。あの人やったらクラブサンドくらいささっと作ってくれそうやし。くぅー、とお腹が鳴る。誰かに聞こえたら恥ずかしいなぁ。何て思ってたら私の番が来た。
「どうされました?」
「あの、私帰りたいんですけど。でもどの列車に乗ればいいのか分からなくて」
「行きはどこから乗られたんですか?」
「え、どこやろ。うーん。JRか阪急かやと思うけど」
 すると駅員さんは少し訝しげな顔で、
「ここまで来た乗車券を見せていただけますか?」
「えーと、ごめんなさい。乗車券とか持ってないんです」
「持ってない? あなた、まさか不法入国じゃ」
 駅員さんはもう完全に疑いの目で私を見てる。
「いやいや、そんな大袈裟なことじゃないですよ」
「でも乗車券はないんでしょ?」
「ないです」
 すると駅員さんは少し離れたところに立っていた二、三人の駅員さん達を集めて私のことを指差して何か話した。話を聞いた駅員さん達は頷き、何だか怖い顔して私に近づいてくる。私は咄嗟に逃げようとしたけど無理で、すぐに駅員さん達に取り囲まれた。
「ちょっと、なに、何なんよ」
「あなたに不法入国の疑いがかかってます」
「だから何なのよ。私をどうする気?」
「あなたを幽閉します」
「幽閉!」
 マジで?
 私を幽閉。私が幽閉。幽閉される。幽閉って言葉、インパクト半端ない。
 そうして私はあの大きなお城の牢屋に幽閉された。
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