僕らと異世界

山田めろう

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第三章 凍える大地

満月の下

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 クロム王は、一人天を仰いでいた。
 今や、ネグロフを城下も含め壁内全てを覆う雪嵐も、王城の最上までは届かないようだ。
 とはいえ、骨身に沁みるような寒さは健在である。
 王室よりも更に上にあるその場所は、言ってしまえば展望の為の空間であり、屋根こそあるものの風を遮る壁は腰ほどまでしかない。
 風は吹き抜けるままであり、そこは半ば外と変わらぬ極寒だった。
 見上げる夜空は、下界の喧噪など届いていないかのように静まりかえっている。
 視線の先には、ぽつんと浮かぶ月が一つ。
 例えそれが、今に限っては引き金の一つであったとしても、クロム王にとって、王城の最上から眺める満月は常に人生のどこかにあった。
 通常、そこは王家とその客人だけが立ち入ることを許される、ネグロフにおいて権威を意味する場所。
 しかし、クロム王にとって、そこは自らの地位を眺めるためのものではなかったのだ。
 いつも大切な誰かと語らう時は、決まってこの場所だった気がするから。

(・・・・・・ファリア)

 まだ今より若く、父の背を追いかけていた時、一人の女性に恋をした。
 思い返せば、この時ほど勇ましく自らの父に歯向かったことはなかっただろう。
 身分の差を理由に婚姻を認めない父に、首を縦に振らせる手段は一つ。
 王として相応しい男になることだけだった。
 だから、若き日のクロム王はすり切れるような日々の中、たった一人の女性と結ばれることだけを胸に、王家最大の壁である父へと立ち向かっていった。

(懐かしいな。あれほど自らを錬磨したにも関わらず、結局、私は父上に勝てなかった)

 そう。クロム王が打倒するより早く、彼の父は国を去った。
 屈強で、誰よりも厳格なまま、最後まで勇猛に英雄と戦場を駆け抜けた、戦時の大君として――厳かな誇りと共に亡くなったのである。
 母を一人残し、父は王として逝った。
 それは、ただただ反発するだけだった若者に、一つの覚悟を見せた瞬間。

(父上は、私に王として生き、王として生きる者と結ばれる者の姿を見せたかった・・・・・・)

 だから、頑ななまでに若き日のクロム王を否定し続けたのだ。
 愛するということを、甘く見るな。
 お前が一人の女を愛せば、お前を愛する女もまた、自らの戦いに引きずり込むことになるのだと。
 運命を共にする。その輝きだけに目を眩ませ、その残酷さを見落とすなと。

(なぁ、ファリア。私はそれから君と結ばれ、ずっと君は笑顔でいてくれた)

 幸せな日々だった。
 例え世界に暗雲が立ち込めていようとも、その日々の輝きだけは誰にも奪うことはできない。
 そう、確信できる日々だった。

(コーネリアと共に、君の最期を看取ったあの時でさえ、その笑顔が絶えることはなかった・・・・・・)

 冬の病に倒れ、クロム王の妻であるファリアは、まだ若くしてその生涯を閉じる。
 今までも、今も、そしてこれからも忘れることはないあの日。
 最後の最後まで笑顔でいてくれた彼女の願いを、この手に握りしめたはずだというのに。

(・・・・・・私が、笑顔を忘れてしまったのは、一体いつからなのか)

 遺された全てを守り抜くと誓ったあの日。
 クロム王は、まさに前王を超えんとする渾身の力でネグロフを導き続けた。
 その過程、その結果は、誰もが認めるところであったはずだ。
 では何故、こうしてネグロフは滅びを迎えたというのか。

(私は、精一杯、君の願いを大切にしてきたはずだった。だが、それは私が気づかない内に掌を滑り落ち・・・・・・私はそのことに気づかず、こんなところまで歩き続けてきた。そうとでも言うのか?)

 ――笑顔を失ってはいけないわ。どんな時でも、笑顔を守る為に――

 そう信じ、クロム王は守る為に戦った。
 国を、民を、願いを――そして、愛する娘を。
 例え父としての在り方さえ見失おうと、王として全てを守ってみせると覚悟していた。

「だが・・・・・・それも、私の勘違いだったのかもしれぬな」

 亡き妻を思い返すのは、その後悔。
 もし、彼女がいてくれたならば、きっと誤った道へ踏み出す自分を止めてくれたかもしれない。
 もはや、どこで違えたかさえ分からないクロム王は、唯一、その決定打となった誤りだけを反芻していた。

「タリム・・・・・・私は恐ろしい。涙を呑んで頷きながら、君との約束を果たせなかった。この先、どのような顔で・・・・・・」

 ・・・・・・君を含む、先に逝った者達に顔向けすればいいのか。
 死を覚悟したのは随分と前の話だ。
 死ぬことが恐ろしいのではない。
 自らの足下。その過程で積み上がった命達へ、この滅びを告げることが、何よりも恐ろしいのだ。
 そして、その罪の形が音を立てて近づいてくるのを、クロム王は静かに待った。
 既に、王命として親衛隊から侍女まで、全ての人間を職務から解放している。
 王を助ける者はいないと同時、父と娘の邂逅を邪魔する者もまた、いなかった。
 ずぅん、と地響きのような重苦しい音と揺れが王城を襲う。
 それは、速度を落としながらも一歩一歩、着実に城の最上部を目指していくのが分かる。
 そして、何度目かの揺れを城が耐え凌いだ時、展望の屋根が吹き飛ばされた。

「――――――!!!」

 獣が吠える。
 悲しみか怒りか。
 それは大気を震わせ、まるで月にまで届くような悲鳴にも似た雄叫び。

「・・・・・・コーネリア」

 ぐるるる、と唸り、鼻先に威嚇の皺を寄せる巨大な人狼へ、クロム王は小さくその名を呼ぶ。

「そうまで私が憎いか。・・・・・・当然だな。私はそれだけのことを、お前にした」

 王として正しく生きたはずの人生を、ただ一人否定した言葉が胸に焼き付く。
 それもまた、亡き妻の願いと同じように、クロム王から離れることのないもの。

 ――貴方に、遺される者の痛みが分かるのか!

 愛する者と引き離され、その最後を共にすることさえ奪われた者。
 守り抜くと誓った最愛の娘は、自らもそう信じて疑わなかった最愛の父によって、地獄の底へ叩き落とされたのだった。

「今、お前に殺されると確信し、ようやく分かった」

 クロム王は、王冠を取り去ると、ゆっくりと自分の足下へ置く。

「痛みなど、私は何も分かっていなかった。・・・・・・自分もまた遺された一人と知りながら、夫としてではなく王として生きることで、その痛みから逃れてきたのだ」

 愛する妻を病で失った時、クロム王は夫として、その現実に直面することから逃げたのだ。
 分かろうはずがない。
 誰もが王と慕ったその男は、其の実、自分の痛みから目を背ける為だけに、その功績を積み上げてきたのだから。

「コーネリア。私はいつから、お前の手を離していたのだ? 一体、私はいつから王という立場に逃げ込んでいたのだ・・・・・・」

 それが、クロム王――その男の弱さであった。
 王家として生まれ、王としての自分を目指したがため、その男は夫としても父としても、あまりに脆弱なままだったのだ。
 そうして、今度は誰かを遺す立場となり、死が王という立場を取り去ろうとする今、一人の男は暗闇の中にいた。
 自分がいなくなれば、今度こそ娘は独りになる。
 復讐を果たした彼女の行く末を思うだけで、クロム王は自らの弱さに頽れそうな衝動に折れそうになった。

「・・・・・・我が娘よ。お前は、私を殺した後、どう生きていく? その先に、笑顔はあるのか? 私は・・・・・・ファリアに、どう謝ればいい?」

 コーネリアの手が伸び、クロム王を掴みあげる。
 人の顔ほどもある牙が覗き、小さな獲物を睨むその双眸は憎しみに揺れている。
 もはや・・・・・・それは、自分がかつて人であったことなど忘れてしまっているかのように、明るい感情の一切を失っていた。
 男の頬を、一筋が伝う。

「お前を守ろうと必死だった。そして、私は誰よりも深く、お前を傷つけた」

 残る命を振り絞り、王は弱いままの男へ戻る。

「許されようなど思ってはいない。ただ・・・・・・それでも・・・・・・」

 せめて、その間際だけでも構わない。
 夫として、父として、振る舞えなかった最愛を示したいと。
 怪物の手に、力が込められる。
 人の身など、枯れ木の枝にも劣るだろう。
 骨が砕け、声が夜を裂く。
 だがそれでも、男はいつかの不器用な笑顔を浮かべた。
 それは、もう、忘れていたと思っていた過去の欠片。
 満月の下、遺された父と娘が、互いを想い合った確かな証。

 ――コーネリア。
                            はい。おとうさま――
 ――心配いらない。お前は、私が守るからな。
                            はい。それじゃあ――
 ――ん?
                  わたくしも、おとうさまをお守りします――
 ――はっはっはっ。頼もしいが、どうした突然?
                    だって、おかあさまがいってました――
 ――ファリアが?
               おとうさまは、だれかが支えてあげないとって――
 ――はは・・・・・・これは、参ったな。

 今はもう消えてしまった、太陽のような日々の名残を思い出す。
 王の殻を脱ぎ捨て、一人の父へと戻った男は、たとえ一時の幻であろうとも、その輝きを取り戻そうと暗闇の中、必死に手を伸ばしていた。

「コー、ネリア」

 声に力はない。
 かつての力強さは失われ、屈強であった王の跡形もない。
 けれども、その表情には一片の苦痛さえなく、愛しい誰かを想う一心だけが浮かんでいた。

「愛している」

 ただ一言。
 ずっと大切に抱え続け、守り続けてきたその言葉を口にする。

「――――――!!!」

 獣が、最後の咆哮をあげた。
 幕引きは一瞬。
 全力を込めたその手は、一人の人間を一息にも満たない時間で死に至らしめる。
 血に濡れる片手を握りしめ、その咆哮はどこまでも、どこまでも続く。

 ――それはやはり、誰かの悲鳴にも似た切なさを帯びていた。

 雪が暴れ、嵐が強まる。
 視界は白く染まり、ありとあらゆる命を凍らせてゆく。
 まるで、流れたそばから凍てつき宙を舞う、獣の涙を隠すようにして。
 こうして、ネグロフの滅びは雪嵐の中で収束を迎える。
 しばらくして、近づく夜明けと共に人狼達はネグロフを離れていった。
 その先を見届けた者は誰一人いなかったが、彼らは北境の先、魔族の領土へと姿を消していく。
 祖国を滅ぼした魔人を率いる、一際巨大な体躯の人狼は――。

 ――――最後まで、血に濡れたその手を、固く握りしめたままであったという。
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