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第五章 ヒノボリの神隠し
獣憑き
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ぱちぱちと、熱のはねる音が意識を揺らす。
うるさくはないが、しかし止まることなく火は小さく鋭い音を立て続ける。
それほど大きな音ではないはずなのに、やけに響く。
だからだろう、余計に意識を揺さぶられるのは。
深く底まで沈んでいた意識は、そのおかげもあってゆっくりとまどろみの海から浮かんでいく。
水面は程近い。
息は持つだろうか。
そんな無用の心配も、今だけは意味があったらしい。
まどろみを突き破り、大きく息を吸う。
それと連動するように、びくり、と体が跳ね、暗く閉ざされていた視界に白い亀裂が入って開いた。
「・・・・・・・・・・・・ぅ、う」
気怠いのは全てだった。
当然のように身体は重く、意識も覚醒しきっていないせいで満足とはいえない。
時間の感覚もあてにならない中、どれほどぼんやりと虚空を見つめていただろう。
やがて、肌に触れるのが板張りの床だと知り、そこから自分がうつ伏せに倒れているのだと、自覚する。
そこでようやく、僕は指さえ鉛みたいに感じる倦怠感の中、なんとか腕を立てて上半身を起こした。
幾分、視界は晴れている。
それでも未だ捉えきれていないのは、そこが陽の当たる場所ではなく、光源といえば部屋の隅に立てられた灯台だけだからだろう。
「・・・・・・・・・・・・」
周囲を確認するという意識はなかったけど、自然と視線はあたりを見渡していた。
だだっ広い板張りの空間。
奇妙だな、と思うのは、壁と天井がごつごつとした岩っぽいということ。
もし作り物でないならば、まるでここは天然の洞窟みたいだ。
「ぅ、ん・・・・・・」
隣で、身じろぎをする気配を感じる。
ふっと目をやると、僕と同じように目を覚ましつつある少女が一人。
その顔には見覚えがある。
いや、見覚えがあるどころじゃない。
「ターナ?」
そこからは、意識と記憶が脳に殺到してきた。
「ターナ!」
両肩を掴み、身体を揺らす。
触れてみると、その双肩もさることながら華奢な感触にどきりとした。
女の子らしい体つきというか、ともすれば折れてしまいそうな儚さが指に伝わってくるというか。
(って、違う!)
が、そんなことを考えている場合ではない。
まだ寝ぼけているのか、と頭を振り、事態の把握に集中する。
「ターナっ、しっかりして!」
声を掛けながら揺さぶると、「んっ」と短く息がもれるような声がした。
根気強く何度か声をかけていると、その両眼が薄らと開かれ、しばらくしてようやく僕を捉えた。
「・・・・・・ゆう、すけ・・・・・・さま」
ふわふわとした口調で、ターナが僕の名前を呼ぶ。
表情はまだぼんやりとしており、全身も思うように力が入らないのか弛緩したままだ。
ただ、それでも顔色はそれほど悪くなく、呼吸も整っていることが幸いだった。
「ターナ、大丈夫? 具合とか、悪くない?」
上半身を抱き起こし、優しく問いかける。
十数秒ほどの間を置き、ターナは「はい」とゆっくり頷きながら答えてくれた。
見るに、なんとか意識はあるものの、またいつ眠りに落ちてもおかしくない状態のようだ。
気を抜けばそれこそ、そのまま熟睡してしまいそうなほどにも見える。
(・・・・・・そういえば、僕らは何でここに・・・・・・)
ここが何処なのか、という疑問よりも、どうして此処にいるのか、という疑問が強く脳を叩く。
思い出せそうで、思い出せない。
後もう少しなんだけどなー、と頭を捻らせていると、記憶の断片が脳裏を掠めた。
「・・・・・・そうだ、ワクナさん」
思い浮かんだのは、ワクナさん本人の顔。
そこまで思い出せば、後は芋づる式というやつである。
「お母さんを捜す手伝いをしていて・・・・・・それで、お茶をご馳走になって・・・・・・」
そう・・・・・・そしたら、確かターナがお茶をこぼしちゃって・・・・・・。
そこから先は、もう記憶がとんでいる。
けど、視界という映像は残っていなくても、音声は無事だったようだ。
ターナが途切れ途切れにも伝えようとした言葉は、きちんと僕の中に仕舞い込まれていた。
(睡眠薬か。たぶん・・・・・・というか、お茶の中しか考えられないよね)
どうやって気づいたのかは分からないけど、ターナはお茶の中に睡眠薬が混入されていると察知していた。
そうなると必然、誰が、となるがこれは解決している。
(・・・・・・ワクナさん)
一体、何の目的で僕らを眠らせたのだろう。
無論、この何処かも分からない場所に連れて行くためではあったのだろうけど。
そこで、再度部屋を見渡してみる。
ゆらゆらと揺れる四隅の炎だけが光源であり、視界はあまりよろしくない。
長方形の空間は、四方が岩壁、天井も同じく岩肌がむき出しになっており、床だけが板張りになっている。
正直、モノというモノは一切なく、不気味な雰囲気さえなければただの殺風景な空間だ。
残る気になる点といえば、僕の前方――ぎりぎり薄闇の奥に浮かぶ扉らしきものが、岩壁をくり抜いたようにぴったりとはめ込まれていることくらい。
(まいったなぁ)
当然のことながら、外の様子などさっぱり分からない。
昼なのか夜なのかもそうだし、むしろ都の外か内かさえ不確かだ。
おまけに、ぱちぱちと弾ける灯りの音以外、音らしいものが聞こえない。
怖いくらいの静寂が、状況を一つ一つ理解していく僕の背中に、重くのしかかってきた。
「・・・・・・ユウスケ様」
呼ばれ、再びターナを見下ろす。
そこには、さっきよりも少しすっきりとした顔つきがあった。
「おはよう、ターナ」
「はい、おはようございます。・・・・・・あの、ここは?」
律儀に挨拶を返してくれながらも、そう聞いてくる。
同時に、自分の力で起きようとする気配が伝わってくるものの、やはり全身にうまく力が入らないのか、ほとんど身じろぎ止まりである。
先に「無理しないで」と気遣いながら、質問に答えた。
「僕もね、よく分からないんだ。なんか洞窟の中っぽいけど、外の様子も分からないしね・・・・・・」
「どうくつ?」
「うん。壁も天井もごつごつとした岩に見える。本物かな?」
正直、洞窟なんてそうそう入ったことがないから、本物かどうかさえ判別がつかない。
まぁ、とはいえ肌身に感じる圧迫感といい、穏やかとは程遠い薄暗い雰囲気といい、僕にとっては十分に本物に見える。自分が置かれている状況も鮮明でない今では、説得力としてはそれだけで事足りていた。
途中で意識を失った割には、記憶もはっきりしている。
しかし、だからといってそれが良いとも限らない。
少なくとも、僕らは眠らされ、ここまで連れてこられたんだ。
普通に考えて、簡単に逃げられるとも思えないし、逃がしてくれるとは・・・・・・期待するだけ無駄にも思える。
がらんとした空間の奥にある扉も、さすがに鍵がかかっていないなんてことはないだろう。
「・・・・・・ターナ、ちょっと離れるね。大丈夫、すぐ戻って来るから」
けど、試してみる分にはマイナスもないはずだ。
ダメで元々、僕は一度ターナを横たえると、足早に視界の奥にある扉を目指して歩き出す。
そこで、僕は靴を履いていることと、剣帯をしていないことに気づいた。
(そっか・・・・・・朝の稽古前だったから・・・・・・)
護身用のショートソードは、不運なことに宿泊部屋の中ということになる。
まぁ、あったところで僕の腕前ではそう期待は出来ないだろうし、むしろ靴が脱がされていないことに喜ぶべきだ。
これで、いざ逃げるとなっても多少の悪路は問題にならないし。
「・・・・・・・・・・・・」
考えている内に、問題の扉前まで辿り着いた。
まずはぺたぺたと岩壁に触れてみると、手の平にひんやりとした感覚が伝わってくる。
ぐっと力を込めてみれば、想像通りびくともしない。
どうやら、疑いなく本物の岩壁みたいだ。
次に、その岩壁に埋め込まれたようにしてある木製の扉に手を伸ばす。
ノブを握り、軽くひねった後、押し引きしてみる。
「やっぱり、だめかぁ」
ほんの僅かに扉は前後するが、施錠されているみたいで、こちらもさっぱり動かない。
まぁ、分かってはいたけど・・・・・・こうなると、いよいよ選択肢も少なくなってくる。
脱出のための行動と考えれば、岩壁を突破する、というのは無謀も無謀だろう。
生憎、僕にはそこまでの腕力は備わっていない。
となると、一番可能性があるのは、この扉だ。
ぱっと見は木造みたいだし、蹴ったり体当たりしたりすれば、もしかしたら壊れてくれるかも・・・・・・。
「よし」
一人頷き、大きく息を吸っては吐いてを繰り返す。
緊急事態とはいえ、なんだかこういうのって緊張してくる。
いきなり加減無しの全力では怪我をするかもしれないから、まずは様子見の蹴りを一発。
多少の助走を加え、扉の真ん中めがけて前蹴りを突き出す。
だん、と打撃音が響き、慣れない感触が足裏を通して伝わってくる。
(・・・・・・あれ、もしかして)
一瞬ではあるけど、扉が少しだけ歪んだ気がする。
木造である分、鉄とかよりも柔軟性があるからそうなるのだろうけど、蹴ってみた感じは悪くない。
これなら、集中して一箇所を何度か蹴り続ければ、あるいは・・・・・・。
「よーしっ」
そうとなれば、希望も見えてくる。
ここで大人しくしているよりかは、ずっと意味のある行動だ。
そこからは、徐々に蹴りの威力を上げていきながら、何度も扉を蹴りつける。
結構な音が響いているはずだけど、僕は構わずに続けた。
そして、何度目かの後、ほぼ全力を込めた前蹴りが直撃した瞬間、乾いた音と共に扉の一部が折れ曲がった。
「や、やった・・・・・・」
なんというか、本当に上手くいくとは思っていなかった故か、数秒放心してしまう。
けど、すぐに気を取り直すと、破損した部分を中心に更に蹴り続ける。
その結果、扉の下半分に一人分くらいがようやく通れそうな穴が出来上がった。
急いでターナのところに戻ると、そこには上半身を起こしたターナが、不安げな表情で待っていた。
「お待たせ、ターナ」
「ユウスケ様、お怪我は?」
その表情は、どうやら僕が足を痛めていないか、という不安からきているようだった。
「ううん、大丈夫」と笑顔で答え、ターナが立ち上がれるように身体を支える。
覚束ない足取りでなんとか立ち上がると、ターナは一瞬、がくりと力が抜けたように僕へと倒れ込む。
「わっ、大丈夫!?」
「は、はいっ・・・・・・申し訳、ございません」
「ううん、僕は大丈夫だから。ターナ、まだ休んでいた方がいいんじゃ・・・・・・」
しかし、ターナは軽く息を乱しながらも、首を横に振る。
「おそらく、私の分だけ睡眠薬の量が多かったのでしょう。それで、まだ成分が身体に残っているだけです」
「え、じゃあ無理しない方がいいよ」
「いいえ、大丈夫です。・・・・・・ユウスケ様、行きましょう」
目に見えて、ターナは気丈に振る舞っているのは分かった。
けど、此処にいても確かに、事態は好転しないだろう。
どっちみち、自分達がどこにいるかさえ分からないのだから、進むしかない。
逃げる状況になったって、満足に走れても構造の分からない場所では、望みは薄い。
よくない現実が待ち受けている予感を覚えながらも、僕らは踏み出していく他なかった。
「ターナ、ゆっくり行こう。どこかも分からないんじゃあ、どうせ満足には逃げられないだろうから」
「・・・・・・はい、申し訳ありません、ユウスケ様」
「ううん、ターナのせいじゃないよ。ほら、もっとしっかり掴まって。倒れて怪我したら大変だよ」
「・・・・・・はい」
観念してくれたのか、ターナが身体を預けてくるのが分かる。
最初こそ一歩あるくだけでも苦労していたけど、それも次第に慣れていく。
半壊した扉の前に辿り着く頃には、ゆっくりとでも立ち止まらずに歩くことが出来るようになっていた。
まずは僕から、蹴破った扉の下部分を匍匐前進みたいな姿勢で通り抜ける。
「あ、ターナもうちょっと待って」
そこで気づいたけど、折れた扉のささくれとかが危ないね。
何度か足で蹴ったり踏んづけたりして潰し、最終的には僕が着ていた上着を敷いて、ターナが通れるようにする。
まだ身体が思うように動かないこともあって苦戦したけど、なんとかターナも扉の外に脱することが出来た。
敷物代わりにした上着を着直すと、同じようにターナを支えながら歩き出す。
「ここは・・・・・・どこの洞窟なのでしょうか?」
「うーん・・・・・・本当に、どこなんだろうね」
僕らが閉じ込められていた部屋の先は、真っ直ぐに伸びる道だけ。
僕とターナが並んで歩くと目一杯になるほどの幅で、天井もそこまで高くない。
小柄で身長の低い僕だと届かないけど、普通の成人男性なら背伸びをすれば届いてしまうくらいだと思う。
おまけに、脱出した部屋よりも更に灯りに乏しいその道は、薄暗いと言うよりも・・・・・・普通に暗い。
足下に粗末なランタンが一定間隔で置かれているだけで、壁掛けの松明すらない。
お互い、足下に気を配りながら進んでいくと、やがて同じような木造の扉に辿り着いた。
「待っててね」
小声でそう言うと、僕は扉に耳を当てる。
が、聞き取れるような音らしい音はない。
相変わらず、この圧迫感のある状況では精神を削ってくるような静寂だけが、得られる全てだった。
ならば、とドアノブをひねってみると、今度は自分でもぎょっとするくらい、扉は一切の抵抗を示さずに開いた。
「・・・・・・」
まぁ、そりゃあ施錠されていたりしなきゃ、普通は開くだろうけどさ。
でも、こんな簡単に開くとは思わないじゃんか・・・・・・。
「ユウスケ様」
呼ばれ、呆気にとられていた僕がはっとする。
「ご、ごめんっ。まさか、本当に開くなんて思わなかったから・・・・・・」
先入観とは恐ろしいものである。
それを再確認すると、僕らは同じようにして再び歩を進める。
開いた扉の先は、石畳の階段だった。
それをのぼっていくと、そこには粗末な木の蓋というか、木々の隙間から射し込む光が見えるくらいのものが、行く手を阻んでいた。
陽の光でないことは分かったけど、ここまで人の気配がないことが不気味で仕方が無い。
この先には、誰かがいるかもしれない、という自己圧迫感に耐えながら、僕はその木の蓋に手を当てた。
「・・・・・・ん」
明るい。
暗闇に慣れていた視界に、燭台らしき炎の明かりが突き刺さる。
階段をのぼりきったそこは、とても広い空間だった。
暖色の明かりで染め上げられたその空間は、更に幾つかの部屋に続いているようで、その間は薄手の布で仕切られている。
おまけに、僕らが今立っている場所にも、幾つもヒノボリの寝具――というか、僕からすればお布団そのもの――が敷かれていて、その光景は宿泊施設というには異様だった。
「ユウスケ様・・・・・・この、臭い」
「・・・・・・うん、なんだろう。なんか、甘ったるいというか・・・・・・」
正直、香水っぽいけど、こう・・・・・・ずっと嗅いでいると、気持ちが悪くなりそう。
すると、ターナがごそごそと何かを手探りで探す。
そしてすぐに、二枚の布を取り出した。
「お使いください、ユウスケ様」
「う、うん。ありがとう」
ターナがその布を口元にあてがうのを見て、僕も同じように倣う。
「これは、おそらく媚薬の一種です」
「び、びやく?」
「はい。一般に、淫薬とも呼ばれる性欲を催させる薬物です」
「・・・・・・・・・・・・」
う、うわぁ。
男女二人きりの時に遭遇するものとしては、ちょっと避けたい類いのものだ。
だって、どう考えても今はそういう場合じゃないし、僕とターナはそういう関係でもないし・・・・・・うん。
「閉鎖空間とはいえ、広いおかげでかなり効能は薄まっているようですが、直に嗅ぎ続けるのは危険ですので」
「う、うんっ。・・・・・・そ、そうだよねっ」
情けないけど、臭いの正体が媚薬と分かった瞬間、目に見えて僕は狼狽えていた。
落ち着け、落ち着くんだ。
なるべくその手の想像はしないで、ちゃんとこの状況を切り抜けることに集中しなければ。
「けど、ターナ・・・・・・よく臭いだけで分かったね。催眠薬の時もそうだったけど」
あのお茶、僕は普通に美味しいとしか感じていなかったしね。
すると、ターナは少しだけ目を伏せてしまう。
「そ、それは・・・・・・その、ほんの少しだけ、錬金術を学んだ時期があったので」
「れんきんじゅつ?」
「はい。とはいえ、本当に初歩の知識しか持ち合わせておりません。あくまで学んだだけで、見習いと名乗るにも足らない程度です」
ターナはそう言うけど、錬金術の初歩がどの程度なのか、僕にはさっぱりだった。
けども、これで納得がいった。
錬金術というとあまりイメージが沸かないけど、きっと薬学の知識は必要なのだろう。
その手に関する感覚が鋭くても、何ら不思議はない。
クロッキアさんが、僕には気づかない物音や、あまつさえ気配なんてぼんやりしたものまで明確に察知できることを考えれば、当然とも言える理由だ。
「それにしても・・・・・・これ、なんだろう。お布団がいっぱい敷いてあるけど・・・・・・あ、あっちにはベッドもある」
「・・・・・・・・・・・・」
部屋と部屋は壁で仕切られているけど、入り口には扉がない。
僕の言葉でいえば、プライベートもプライバシーもあったものではない、といった感じ。
見ようと思えば丸見えだし、その時点で宿泊施設としては変だった。
歩きながら、空間の中ほどまで来ると、ターナが僕の名前を呼んだ。
自然、お互いの足が止まる。
「ここが、ワクナさんの言っていた『裏寺』ではないでしょうか」
「えっ・・・・・・ここが・・・・・・?」
言われ、はっとする。
確かに、やたらと寝具ばかりが多いのも、そういう目的の場所と考えれば・・・・・・まぁ、不思議はない、のかな。
僕には、女の子とキスだってした経験がないので、その先のことは全くの未知数だった。
でも、普通こんな開放された場所で・・・・・・そういうことをするものなのだろうか。
「ターナ、誤解しないで欲しいんだけど・・・・・・その、こっちの世界の人って、あんまり見られるのとか気にしないの?」
「いえ、これは異常です。私も娼婦館などは立ち入った経験がありませんが、これではまるで・・・・・・」
「繁殖場のようです」と、ターナは不吉なことを口にした。
それを聞き、一気に身が固くなるのが分かる。
雰囲気とか、愛とか・・・・・・そういうものとは遠くかけ離れた、人間の底部分をカタチにしたような世界。
欲望、と言えばそれで済むのだろうが、僕らを取り巻くこの場景は無人であっても、ひどく歪んで見えるほど。
これで性欲に火がつくなど、考えられない。
僕の背を奔ったのは、間違いなく悪寒だった。
「・・・・・・こんな場所で、ワクナさんは働いていたの?」
「どうでしょうか。殿方と交われなかった、とは牛車の中で仰っていましたが・・・・・・この場で、本当に拒めていたかどうかは分かりません」
「・・・・・・っ」
ぞっとして、その次に言いようのない吐き気が迫り上がる。
身売りと簡単に言うけれど、それがどんなものか、僕はよくよく知らなかったのだと痛感した。
あくまで想像の範囲だけでも、一人の女性に一人の男性とは限らない。
ケダモノのような男が、群がるように一人の女性を・・・・・・ということも、この状況では想像に難くなかった。
「ユウスケ様?」
「・・・・・・ごめん、ちょっと想像したら・・・・・・気分が悪くなっちゃって・・・・・・」
「も、申し訳ありません、そのようなつもりは・・・・・・」
「ううん、分かってるよ。心配かけてごめんね、ターナ」
これ以上、ここでの出来事を詮索するのはやめよう。
正直な所、僕には荷が重たい。
「・・・・・・ユウスケ様は、お優しいのですね」
「そんなことないよ。こういうのに、免疫がないっていうか・・・・・・情けないけど、耐性がないだけだから」
「いえ、それがお優しい証拠です」
そう言われると、なんだか恥ずかしい。
なるべくターナの顔を見ないようにして、「ありがとう」と返す。
そして、そんな僕の言葉を継ぐように――――。
「本当に、やさしいのねユウスケくんは」
――――聞き覚えのある声が、悪戯っぽい響きでそう言ってきた。
声の聞こえた方角・・・・・・前方を、僕とターナがじっと見据える。
ぎっ、ぎっ、と板張りの床が小さく鳴り、最初は輪郭だけだった人影が、徐々にその全貌を現していく。
そこには、薄らと笑みを浮かべ、僕らを出迎えたワクナさんの姿があった。
「もう、ゆっくりと眠っていてよかったのよ。私の方から起こしに行ったのに」
「・・・・・・ワクナさん、これって一体・・・・・・」
問い詰めようとする僕に、ワクナさんは自分の口元に人差し指をあてながら、「焦らないで」と囁いた。
その仕草はひどく蠱惑的で・・・・・・どこか不気味に感じる。
「まぁ、眠ってもらったこと自体に深い意味はないの。あくまで、ここまで来てもらう為の手段、かしらね」
「ここに、ですか?」
「そうよ、ユウスケくん。歓迎するわ。ようこそ、『裏寺』へ」
「なんてね」と、ぺろっと舌を出しながらワクナさんは嗤ってみせる。
それはまるで、困惑する僕らを楽しんでいるようだった。
「とは言っても、今日はあなた達二人のために貸し切りにしたのよ。だから、他の女の子達やお客人も誰もいないの。静かなものよねぇ」
「どうして、そんな・・・・・・」
「決まってるでしょう? なぁに、それとも他の人達が交わってる中で、こういうお話をしたかった? ユウスケくん、そういうの苦手でしょう?」
「う・・・・・・ま、まぁ・・・・・・それは、そうですけど」
「ふふ、そうよね。よかった、私の思っている通りのユウスケくんで。・・・・・・まるで穢れを知らない子供・・・・・・ううん、天使みたいよね」
言いながら、ワクナさんはぶらぶらと歩き出しながらも続けていく。
「ターナちゃんも、そう思うでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・」
ターナは答えない。
押し黙ったまま、けどその視線は鋭く、ワクナさんを真っ直ぐに射貫いている。
「やっぱり、そう思っているって顔よ。自分のユウスケくんに、手を出すなって言ってるわ」
「ワクナさん・・・・・・あなた、一体何をしようとしているのですか?」
「んー・・・・・・そうねぇ、正直な所、私がって訳じゃないのよ」
「どういうことですか?」
「んもぅ、ゆっくりお話したいのに、ターナちゃんも意外とせっかちなのね。あんまり怖い顔しちゃだめよ、せっかく可愛いのに。・・・・・・まぁでも、無理もないか」
くすくす。少女のような笑い。
「ターナちゃんの荷物、残念だけど捨てちゃったわ。すごいのね、異人様のお付きって。携行用の薬がいっぱい。液体から粉末、固形までなんでもござれってね」
一滴で人を殺せる劇薬まで、とワクナさんの目がターナを捉える。
それは、まるでなめずるような異様な目つきだ。
「・・・・・・っ」
「いい顔。でも安心して。別に、私はターナちゃんを困らせたいわけじゃないもの。むしろ、あなたにとっては思わぬ幸運かもしれないわよ?」
「ど、どういうことですか・・・・・・?」
「今に分かるわ。けど、その前にもう一人、紹介しなきゃね」
それが合図だったのか。
僕らがワクナさんに気を取られている間に、その「もう一人」もまた、姿を現していた。
「いいのよ、ワクナ。せっかくのお友達とのお喋りでしょう」
そんな、という思いと。
まさか、という思いと。
その二つがぶつかり、まるで頭を思い切り叩かれたような衝撃に言葉を失う。
「またお会いしましたね、お二人とも」
それは、あのベッドの上で見た、やつれた笑顔と同じ。
本来ならば、そうして自分一人で立ち上がることさえ叶わない、その人。
「どう、して・・・・・・ワクナさんの、おかあ、さん?」
ただでさえ、僕の頭はパンク寸前だったのに。
満足に機能しない脳のまま、僕は絞り出すようにようやく、その一言を発した。
それを、当の本人は変わらぬ表情のままに、ゆったりとした動きで肯定する。
「えぇ。ユウスケさん、でしたね。ワクナから聞きましたよ。娘が随分とお世話になったようで・・・・・・おまけに、北からいらした異人様とも」
「ど、どうしてっ・・・・・・病気じゃなかったんですかっ」
そうだ。
歩けるはずがないって、ワクナさんだって言ってたはずだ。
じゃなきゃ・・・・・・何もかも、嘘だったということ?
「病気でしたよ。・・・・・・でも、今はこの通りです。不思議ですね、病は気から、とは言いますが・・・・・・魂が変われば、肉体も変わるとは真実だったようです」
「・・・・・・・・・・・・え?」
何を、言っているんだろう。
魂が変われば、肉体も変わる?
「ああもぅ、本当にユウスケくんっていじらしいのね。男の子なのに、時々女の子みたいに愛くるしいんだから。・・・・・・そんな顔されたら、全部教えてあげたくなっちゃうわ」
「そうね。この子達には、協力してもらうのだから、きちんとお話しましょう」
僕らは、ただ黙っていることしかできない。
今となっては、その空間は言葉では形容の出来ない異界と化していた。
不気味な二人の女性に睨まれた、哀れな生け贄のように、身体も心も怯えたまま動けない。
「その様子だと、ターナちゃんはもう察しがついていると思うけど・・・・・・私達が噂の正体よ。まぁ正確には、『お母様』が、だけどね」
含みのある言葉で、ワクナさんはちらりと自らの母を見る。
「この子の言うとおり、私が事の元凶。都で噂される、神隠しの首謀です。裏寺に巣を張り、撒いた餌に飛びつく男を食い物にする・・・・・・そういった存在でしょうか」
何よりも、僕はその語り口が恐ろしかった。
本当に、変わらない口調なのだ。
あの日、あの時、クロッキアさんや池谷さん、立木さんらとお邪魔した時とまったく同じ口調。
きっと、この人は自分の行いになんの躊躇も、後悔も、罪さえ一片も感じていない。
「もっとも、裏寺自体の歴史は古いのです。私はあくまで、ここを借用していたに過ぎません」
「そそ。ずっと昔、英雄様達が死んじゃった時にね、この裏寺は生まれたのよ。その当時、ここ東方は未曾有の飢餓に見舞われて、酷い内乱で混乱していた。でも見たでしょう。今はもう、そんな混乱なんて嘘みたいに、ヒノボリを中心に統治されている」
「言わば、裏寺は遺物です。女を守る為に作られた場所は、環境の変化と安定に従って形骸化し、やがては女が金で買われるだけの娼婦館に成り下がっていました」
ほんとにね、とワクナさんは心底呆れたように肩をすくめてみせる。
「ここに来る男なんて、碌なもんじゃなかったわ。嫌だって拒んでも、こっちは金を払っているんだ、の一点張り。金さえ払えば、女を好き放題できるって考えしかないのね。当然、避妊なんて考えもないし、泣こうが叫こうが、お構いなしで犯す変態もいたわ」
「当然、それを止める人間もいません。裏寺の管理は寺院が行っていますが、要は元締めです。『お布施』が入れば、壊れない程度に女を使う分には文句はなかったのでしょう」
「それでも、何人も心を壊していたけどね。使い物にならなくなれば、その度に格安で商人達に売り飛ばされていた。信じられないでしょう? でもね、それでも買い手があるのよ。こんな人類がお終いだ、なんて囁かれる時代でも・・・・・・ケダモノはケダモノのままなのね。血が通っていて、穴が濡れれば何でもいいのよ」
その時、ようやくワクナさんから凶暴な気配が滲み出た。
そしてそれは、事の発端だ、という彼女の母にまで伝播していく。
「犠牲は、いつの世もつきものです。私の夫と息子がそうだったように、都という限定的な平和の裏では、多くの涙が流れている。けど、誰もそんなことには気づこうともしません。自分に降りかかるまでは、あくまで他人の不幸でしかないのです」
「お母様はね、お父さんとお兄ちゃんが戻ってこないと知ってから、目に見えてやせ細っていったわ。・・・・・・誰よりも、家族を大切にしていた。もちろん、残された私にだって目一杯の愛情を注いでくれていたわ」
「けど、心労には勝てませんでした。気づいた頃には病に冒され、この子に愛情を注ぐどころか、私はこの子の重荷でしかなくなっていた」
けど、とワクナさんのお母さんは頭を振る。
「それまではまだ、幸せを信じていました。失ったものは大きくとも、生きる意味はあるのだと。母と娘、二人で生きて、先に逝ったあの人と息子に・・・・・・精一杯生きたよと、胸を張れる日が来るのだと」
それは、遺された二人の希望だったのだろう。
失意にあっても、諦めてはいけない。
命を懸けた二人の家族の為に、どれだけ追い込まれても、生ある限りは生きなければならない。
それが、母と娘よりも早く旅立った二人への、敬意であるとして。
「ですが・・・・・・ある日、私は知ってしまったのです。娘が、裏寺という場所に出入りしているということを。私は若い頃、夫から存在だけは聞いていました。だから、いても立ってもいられなかった。まともに歩けない身体に鞭を打って、それでも寺院に向かおうと家を出ようとした時・・・・・・駆け込むように、この子は家に帰ってきました」
そして、一晩中、吐き続けたと。
「それが、何を意味しているかは、もう考えたくもありませんでした。ただただ、後悔と・・・・・・憎しみが、私の心を蝕んでいったのです。だって、そうでしょう? 娘が何をしたというのです? 私が、一体何をしたと? 夫と息子の命さえ捧げて、今度は娘の身体と心も差し出せと?」
穏やかだった口調は、まるでその心情の変化と連動しているように、じわりじわりと黒ずんでいく。
「人類は、私から娘さえ奪っていく。いえ、奪っていった。・・・・・・その時から、私の心にもう一つの魂が宿ったのです。擦り切れて、焼けただれたような私の心は、随分と小さくなっていたのでしょうね。まるで隙間を埋めるように、その魂は私を満たしていきました。すると・・・・・・嘘のように、病気が治ったのです。あれだけ苦しめられた病が、容易く治ってしまった」
それは、どれほど醜い奇跡だったのだろうか。
歪みきったそれはしかし、確かに一人の女性の運命を変えたと言っていいはずだ。
それは、まるで神を盲信する誰かのように、天を仰ぐこの女性を見ていれば分かる。
「この時、もう一つの魂がこう囁いたのです。復讐をしろ、と。願ってもない言葉でした。だって、私の病が治っても、夫も息子も、娘も・・・・・・誰一人、昔の通りには戻らないのですから」
「そうなのよね。・・・・・・ねぇ、ユウスケくん」
「・・・・・・な、なんです、か?」
「人類って、なんだろうね?」
「・・・・・・へ?」
「私やお母様に、人類が何をしてくれた?」
「・・・・・・・・・・・・」
「私達は、全部を捧げたわ。お父さんも、お兄ちゃんも。家族としての『幸せ』を全て犠牲にした。でも、見返りなんて何もなかったわ。ヒノボリさえ、そうだった。でも、仕方が無いとも思ったわ。だってね、私達家族の幸せは、『家族として当たり前に生きる』ことだったから」
他には何もいらなかった、とワクナさんは寂しげに言う。
お父さんも、お兄ちゃんも、私も、お母様も。
当たり前に生きて、笑って、たまには喧嘩もして。
そんな、日常と呼べる風景だけで、満足だったと。
「それを、世界は、人類は、国は・・・・・・さも当然のように奪っていった」
ワクナさんのお母さんは、瞳孔の開ききった双眸で、僕を見つめる。
「ユウスケさん、ターナさん。聞いてくださる? 夫や息子の代わりに、何が返ってきたと思いますか?」
僕もターナも、答えられなかった。
答えられるわけがない。
「たった・・・・・・たった、割れた兜だけが一つ、返ってきました。は、ははは・・・・・・ははははははっ! おかしいでしょう!? 名前の刻印さえない、誰のモノかも分からない兜を、神妙な顔つきで手渡されて・・・・・・くっ、ははははっ! それで、それで・・・・・・『これしか持ち帰れませんでした。申し訳ありません』ですって!」
ワクナさんのお母さんは、口の端から涎が垂れるのを気にすることもなく、狂ったように笑い続ける。
それは、心底可笑しなことを笑うように。
「それでね、それは息子のだって言うのですよ!? じゃあ、夫のは? ふ、ふふふふっ・・・・・・はははははははっ! なに、ひとつ! 何一つ、返ってこなかった! 持ち物一つ、肉の一片さえ! なにも、なにもなにもなにもなにもなにもなにもっ!!」
返っては来なかった!! ――と。
そう、ただ奪われるだけの末路を、一人の女性は呪詛じみた気迫で吐き出した。
その表情は、もはや人のものとは思えないほど、歪み血走っている。
「だから、私も奪うことに決めたのです。そうしたら・・・・・・最初は、別々だった二つの魂は、やがて一つになっていきました。どんなカタチになろうと、もう私は気になりませんでした。だって、人間だって大概でしょう? 未来や救い、希望の為なら、簡単に犠牲を受け入れてしまう。・・・・・・ほら、ユウスケさん。あなただって、そんな人間に運命を狂わされた、一人じゃありませんか」
どくん、とどうしてか心臓の鼓動が強まった。
僕は、この世界の人達に恨みなんてない。
むしろ、ターナやクロッキアさんも含めて、感謝をしてもしきれない人ばかりだ。
・・・・・・でも、その反面、僕の脳裏には父さんと母さんの顔が浮かんでいた。
「ユウスケくん、人間だって怪物なのよ?」
「・・・・・・・・・・・・」
「それはもう、魔族と同じくらい醜い怪物よ。自分達が助かるためなら、どんな事にだって手を染めるわ。・・・・・・だからね、そんな生き物は死んじゃった方がいいと思うの」
「・・・・・・えっ」
結果、考えがそこに行き着くことは分かっていたかもしれない。
けど、実際に耳にすると、僕の口からは驚きの声がもれていた。
「安心して。ユウスケくんやターナちゃんに、殺せだなんて言わない。二人とも優しいもの。だからね、お母様の案で、二人には協力してもらおうと思うの」
「きょ、きょうりょく?」
「えぇ、そうです。・・・・・・私はもう、人間ではありません。この東方で、『獣憑き』と呼ばれる怪物になっている」
ワクナさんのお母さんは、僕らの戸惑いは一切無視して、その協力内容を説明しだした。
「ワクナには、私の魂の一部を分け与えました。やることは同じですが、こちらの方がより根本的です。ターナさん・・・・・・私は、あなたになる」
「・・・・・・な、え・・・・・・?」
ターナの困惑は当然だ。
僕だって、何を言っているのか、さっぱり理解できない。
「もぅ、二人とも察しが悪いわよ。簡単な話よ。お母様はね、もう魂の存在なのよ。人間の身体は、あくまで器でしかない。だから、その器をより適したものに変えようってだけよ」
「ま、待って! な、なんで・・・・・・どうして、ターナがっ!」
「だって、ユウスケくんはそっちの方がいいだろうし。もちろん、私やお母様もそっちの方がいいもの。お母様はお父さんを愛している。だから、いくらユウスケくんでも、他の男と交わるっていうのはね」
ちょっと嫌でしょ? なんて、どんな神経なら悪戯っぽく言えるのだろう。
まともじゃない。狂ってる。
「安心してください、ユウスケさん。ターナさんの魂も、私・・・・・・いえ、『我々』の一部となります。その感情や記憶も、しっかりと受け継がれます」
「そういうこと。だから、安心でしょ。ターナちゃん、ユウスケくんと結ばれるのよ。こんなに嬉しいこと、ある?」
「・・・・・・ワクナさんも、あなたのお母様も・・・・・・どうか、しています」
「かもね。でも、だから何? 大丈夫よ、二人とも想いはあるんだから、一度快楽に溺れてしまえば、一晩中愛し合えるわ」
「そんなことして・・・・・・あなた達は、何がしたいんですか!?」
ここまで、何とか冷静でいようとしてきたのも虚しく、ターナが声を張り上げる。
僕が支える身体は小刻みに震え、表情は引きつっていた。
「決まっています。・・・・・・子が欲しいのですよ」
当然、その返答もまた、狂気の最高峰であった。
「いかに獣憑きと言えど、器がただの人では異人を討ち破るのは難しい。今でこそ暗躍していますが、いずれは殺し合いになります。その時、ユウスケさん・・・・・・あなたの異人の血を受け継ぐ子がいれば、その力は我々にものとなります」
「・・・・・・まさか、そんな・・・・・・ワクナさん、僕を・・・・・・」
「ごめんね、ユウスケくん。本当は事情が違って北を目指していたんだけど、移動用に生かしておいた男連中が、もしかしたら異人かも、とか言うから・・・・・・急遽、作戦を変更しちゃったの」
「じゃあ・・・・・・初めから、僕らを騙して・・・・・・?」
「そーいうこと。まぁでも・・・・・・私は楽しかったし、嬉しかったわよ。だから、お母様にお願いして、できる限り二人が苦しまない方法を選んだの。大丈夫、今は理解できないだろうけど・・・・・・すぐに、どうでもよくなるから」
恐ろしい。
ただただ、恐ろしかった。
この二人は、自分達の復讐を果たす為に、人間を皆殺しにする為に、僕とターナを使って・・・・・・文字通り「繁殖」しようとしているのだ。
ワクナのお母さんが言う、もう一つの魂とは、話の流れからしても獣憑きの伝承と一致する部分がある。
でも・・・・・・武器も何もないこの状況で、僕に何ができるというのだろう。
「さぁ、お母様、始めましょう? ターナちゃんさえその気になれば、ユウスケくんもきっと乗り気になるわ」
「そうですね。大丈夫ですよ、ターナさん。ユウスケさんのことも考えて、人間の部分はあなたに譲ります。その方が、具合が良いでしょう?」
「い、いや・・・・・・来ないでっ」
ぬるり、と全身が総毛立つような動きで、ワクナのお母さんがにじり寄る。
それに反応し、ターナがびくりと身体を震わせた。
くそっ・・・・・・このままじゃあ、相手の思う壺だ。
なんとか・・・・・・なんとかしないと。
「や、やめろ!」
とはいえ、僕は丸腰。
出来ることといえば、こうしてターナの前に立ち塞がることくらいだった。
両手を広げ、精一杯の虚勢を張る。
正直、不気味・・・・・・異様という意味合いで言えば、ネグロフでの人狼の方が何倍も穏やかに見える。
あの人達が、いかにまだ心ある存在だったのか。
それを、僕はこの狂人二人を前にして、ようやく理解していた。
「焦ってはいけませんよ」
ひゅごう、と風の唸りが聞こえた。
瞬間、視界が一気に流れ、それと一緒になって意識も何度か暗転する。
息が詰まり、呼吸が思うようにできず、お腹の奥がぐるぐると回っているように気持ち悪く、おまけに鉄球でもあるんじゃないかってくらい重い。
気づけば板張りの床の上で、瀕死の魚みたいに悶えていて。
揺れて定まらない視界の先では、ターナが僕の方を向きながら、必死に何かを叫んでいる。
詰る所、僕は吹き飛ばされたんだ、ということを、そこでようやく把握できた。
「――さま! ユウスケ様っ!」
答えようと口を開こうとしても、思うように声が出ない。
口の中は鉄の味でいっぱいで、手も足も思い通りに動いてくれない。
苦しい。肺は酸素を求めているのに、それさえ満足に出来ないくらい、経験のない衝撃を受けて身体が警告を発している。
「・・・・・・あ、ぅ・・・・・・」
ターナ。
ターナ・・・・・・っ。
心の中では、僕も必死になって呼び返しているのに。
「ふふ・・・・・・さぁ、捕まえましたよ」
「い、や・・・・・・はな、してっ!」
「そう怯えないで。獣憑きなどと恐れられてはいますが、存外悪いものではありません。ケモノがヒトを変えるのではないのです。ヒトとケモノが一心となる。それが、獣憑きなのです」
「言っている意味が、分かりません! そんな・・・・・・そんなことをしても、あなたが失ったものは返ってきません!」
「えぇ、その通りです。言ったでしょう? 奪うことに決めたと。もう、何一つ戻ってはこない。だから、後はもう奪うだけ。手始めに、私から何もかもを奪っていったこのヒノボリを、人々の亡骸で埋め尽くしてあげます」
ターナは、必死に抵抗しようと身をよじらせている。
が、どんなに僕が軽くても、ひと一人を吹き飛ばすほどの怪力の前では、少女の抵抗などあってないものだろう。
「あぁ、なんて瑞々しい。・・・・・・ほら、見なさい」
「う、っ・・・・・・ぐっ」
ターナが下から顔を鷲掴みにされ、ぐりん、と僕の方を向かせられる。
「素敵ね。きっと、彼も喜ぶわ。それにターナさん、あなたも女なら、しっかりと意中の殿方くらいは喜ばせられないといけませんよ」
「心配いらないわ。なんなら、二人が慣れるまでは私も手を貸してあげるし」
「あら・・・・・・ワクナ、彼はこの子の男性なのですから、本気になってはいけませんよ」
「んー、どうかなぁ。あ、でもさ、そうしたら私もユウスケくんとの子供、産めばいいだけでしょ?」
「はぁ、あなたをそんな娘に育てた覚えはありませんよ。それなら後々、二人でどちらが彼に相応しいのか、話し合って決めなさい」
「んもぅ、お母様ったら、そういう所はやけに頑固なんだから」
もう、この二人にはどんな言葉だって届かない。
そもそも、きっと僕やターナだって、本当の意味では見えていないのだ。
きっと、この人達も・・・・・・支えを失ったが為、こうして壊れることしか出来なかった人達なんだ。
(あぁ・・・・・・そっか、どおりで)
どこか、似ているなぁ、と。
そうだ、この絶望。
そうなんだ、このどうあっても避けられない悲劇は。
(この二人も、コーネリア姫と同じ、なんだ)
人の業によってもたらされた、必然の崩壊だったのだろう。
「ほら、ターナちゃんも。本当は、もうどうやったって逃げられないことは分かっているんじゃない?」
「・・・・・・」
「一応はね、私もお母様も、狂っているって自覚はあるわ。あのね、少なくとも私は二人に感謝しているの。あの森の中で出会って、短い間だったけど、なんだか昔みたいに穏やかな気持ちになれた。だから、ある程度の都合はつけてあげられる。何か、こうして欲しい、とかはないの?」
「・・・・・・・・・・・・」
しばしの静寂。
その後、ターナが僕を見て、震えるその口で。
「・・・・・・ユウスケ様を、傷つけないでください」
「うん、分かったわ。お母様も、いいよね」
「えぇ。さっきは・・・・・・ごめんなさい。正直、私もこの身体で加減を必要とするのは初めてで。あれでも随分と優しくしたつもりだったのですが・・・・・・」
「あと、ユウスケ様を殺さないでください」
「もちろんよ。殺すなら、もうとっくにそうしているしね。お母様が言った通り、器の交換さえ済んでしまえば、ユウスケくんのことはターナちゃんに任せるわ」
「・・・・・・本当に、信じていいんですね」
「えぇ、安心なさい。運命は変えられません。その代わり、人間とは違い、約束は違えません。例え全ての人間を殺し尽くしても、ユウスケさんだけは例外となるでしょう」
「・・・・・・・・・・・・」
なんて、やり取りをしたのだ。
待って。待って、待って欲しい。
なんだって、そんなことを言うのだろう。
「・・・・・・だ、め・・・・・・だめ、だよ・・・・・・ター、ナ」
全身に痛みが走る。
まるで、電気でも通ったみたいに、脳に響くようなそれに息が乱れる。
でも、そんな一切合切を無理矢理押しとどめ、這いずりながらもターナに向かって手を伸ばす。
「・・・・・・申し訳ありません、ユウスケ様」
「ターナ・・・・・・だめ、いやだっ」
「私では、お守りできませんでした」
違う。違う違う違う。
違うから・・・・・・だから、そんな。
「でも、ずっとお側にはおりますから」
もう、お終いみたいなこと、言わないで。
「う、ぐっ・・・・・・だめ、だよ」
腕に力を込める。
足に気力を込める。
全身に命を込める。
どうにもならなくたって、それでも抗い続ける。
嫌だ。嫌だ嫌だ。
失いたくない。失いたくないんだ。
僕、まだターナに何の恩返しもできてない。
なのに、こんな形で終わりたくなんてない。
「もう頑張らないでください、ユウスケ様」
「ターナっ」
「ターナは、ちゃんと・・・・・・お側におりますからっ」
つぅ、とターナの頬を一筋が伝う。
それは、諦めか後悔か、あるいは両方だったかもしれない。
そこで、ターナはがくりと抵抗の力を完全に失ってしまう。
それを観念した、と受け取ったのだろう。
ワクナさんのお母さんが、まるで我が子を愛でるようにターナの頭を優しく撫でた。
「賢い子ですね。・・・・・・痛みはありません。すぐに済ませますよ」
けど、僕がどんなに頑張っても、運命は覆らない。
事態は一向に好転することなく、僕らはこの二人の思うままにしかならない。
月並みな言葉になるけれど、悔しかった。
こんな弱い自分が、とても悔しかった。
でも、それももう遅い。
僕はただ、負け犬みたいに這いずりながら、自分の将来が絶望に堕ちていく光景を見ていることしか――――。
がたん、と物音がした。
――――できなかったはず、なのだが。
立て続けに物音は何度か続き、やがて・・・・・・ぎぃぃ、と扉が開くような音が静かに響く。
誰かが・・・・・・入って来た?
これが予期せぬ訪問客であることは、音の方角――ワクナさん達が入って来た方を全員が見ていることからも、読み取れる。
招かれざる者でなければ、この狂人二人がここまで不可解な表情をするわけがないから。
「あっ・・・・・・ぐっ・・・・・・あ、」
短く、苦悶するような声。
仕切りの役割を担う垂れ幕の向こうから、その人影の正体が明らかになる。
「あなた・・・・・・ゲンゼン?」
若干、苛立ちを含むような声で名前を呼んだのは、ワクナさん。
そして、垂れ幕の向こうから姿を現したのは、剃髪の男性だった。
「今日、ここには踏み入らぬようにと申しつけたはずだけど」
「あ、ひ・・・・・・あぁ」
しかし、どうにもその男性は様子がおかしい。
何やら、ひどく怯えているというか・・・・・・。
と、おそらくはその場の全員が、違和感の正体を探っている瞬間だった。
「ぐぎっ、がっ・・・・・・あ、あぁぁぁあああっ!」
ぶるぶると震え、男性がもがくように悲鳴じみた声をあげる。
顎が外れんばかりに口を開き、その端からは泡立った涎がぶくぶくと漏れ出てくる。
そして、その身体はやがてゆっくりと、見えない力によって持ち上げられていく。
「ひぎ、ぎぃ・・・・・・た、しゅっ・・・・・・たしゅ、けてっ」
言い終わるや否や、げぼっ、と口から血の飛沫が吹き出た。
絶命の瞬間、まるで生まれ出るように、男性の身体から剣の切っ先がその姿を現す。
数秒、その串刺しも同然のまま、男性は苦しみ抜いた表情でがくりと力尽きていた。
その亡骸を、さもゴミ同然かのように、背後に控えていたと思われる誰かが、横薙ぎに投げ捨てる。
「・・・・・・うそ」
ワクナさんの、信じられない、という声。
こつん、こつん、こつん。
足跡と共に、剣の切っ先が垂れ幕から覗き込む。
血濡れの剣を携えて、奥から姿を現したのは――――。
「私の連れが、随分と世話になっているようだな、獣憑き」
――――まるで、悪鬼のような形相で殺意を滾らせる、クロッキアさんだった。
うるさくはないが、しかし止まることなく火は小さく鋭い音を立て続ける。
それほど大きな音ではないはずなのに、やけに響く。
だからだろう、余計に意識を揺さぶられるのは。
深く底まで沈んでいた意識は、そのおかげもあってゆっくりとまどろみの海から浮かんでいく。
水面は程近い。
息は持つだろうか。
そんな無用の心配も、今だけは意味があったらしい。
まどろみを突き破り、大きく息を吸う。
それと連動するように、びくり、と体が跳ね、暗く閉ざされていた視界に白い亀裂が入って開いた。
「・・・・・・・・・・・・ぅ、う」
気怠いのは全てだった。
当然のように身体は重く、意識も覚醒しきっていないせいで満足とはいえない。
時間の感覚もあてにならない中、どれほどぼんやりと虚空を見つめていただろう。
やがて、肌に触れるのが板張りの床だと知り、そこから自分がうつ伏せに倒れているのだと、自覚する。
そこでようやく、僕は指さえ鉛みたいに感じる倦怠感の中、なんとか腕を立てて上半身を起こした。
幾分、視界は晴れている。
それでも未だ捉えきれていないのは、そこが陽の当たる場所ではなく、光源といえば部屋の隅に立てられた灯台だけだからだろう。
「・・・・・・・・・・・・」
周囲を確認するという意識はなかったけど、自然と視線はあたりを見渡していた。
だだっ広い板張りの空間。
奇妙だな、と思うのは、壁と天井がごつごつとした岩っぽいということ。
もし作り物でないならば、まるでここは天然の洞窟みたいだ。
「ぅ、ん・・・・・・」
隣で、身じろぎをする気配を感じる。
ふっと目をやると、僕と同じように目を覚ましつつある少女が一人。
その顔には見覚えがある。
いや、見覚えがあるどころじゃない。
「ターナ?」
そこからは、意識と記憶が脳に殺到してきた。
「ターナ!」
両肩を掴み、身体を揺らす。
触れてみると、その双肩もさることながら華奢な感触にどきりとした。
女の子らしい体つきというか、ともすれば折れてしまいそうな儚さが指に伝わってくるというか。
(って、違う!)
が、そんなことを考えている場合ではない。
まだ寝ぼけているのか、と頭を振り、事態の把握に集中する。
「ターナっ、しっかりして!」
声を掛けながら揺さぶると、「んっ」と短く息がもれるような声がした。
根気強く何度か声をかけていると、その両眼が薄らと開かれ、しばらくしてようやく僕を捉えた。
「・・・・・・ゆう、すけ・・・・・・さま」
ふわふわとした口調で、ターナが僕の名前を呼ぶ。
表情はまだぼんやりとしており、全身も思うように力が入らないのか弛緩したままだ。
ただ、それでも顔色はそれほど悪くなく、呼吸も整っていることが幸いだった。
「ターナ、大丈夫? 具合とか、悪くない?」
上半身を抱き起こし、優しく問いかける。
十数秒ほどの間を置き、ターナは「はい」とゆっくり頷きながら答えてくれた。
見るに、なんとか意識はあるものの、またいつ眠りに落ちてもおかしくない状態のようだ。
気を抜けばそれこそ、そのまま熟睡してしまいそうなほどにも見える。
(・・・・・・そういえば、僕らは何でここに・・・・・・)
ここが何処なのか、という疑問よりも、どうして此処にいるのか、という疑問が強く脳を叩く。
思い出せそうで、思い出せない。
後もう少しなんだけどなー、と頭を捻らせていると、記憶の断片が脳裏を掠めた。
「・・・・・・そうだ、ワクナさん」
思い浮かんだのは、ワクナさん本人の顔。
そこまで思い出せば、後は芋づる式というやつである。
「お母さんを捜す手伝いをしていて・・・・・・それで、お茶をご馳走になって・・・・・・」
そう・・・・・・そしたら、確かターナがお茶をこぼしちゃって・・・・・・。
そこから先は、もう記憶がとんでいる。
けど、視界という映像は残っていなくても、音声は無事だったようだ。
ターナが途切れ途切れにも伝えようとした言葉は、きちんと僕の中に仕舞い込まれていた。
(睡眠薬か。たぶん・・・・・・というか、お茶の中しか考えられないよね)
どうやって気づいたのかは分からないけど、ターナはお茶の中に睡眠薬が混入されていると察知していた。
そうなると必然、誰が、となるがこれは解決している。
(・・・・・・ワクナさん)
一体、何の目的で僕らを眠らせたのだろう。
無論、この何処かも分からない場所に連れて行くためではあったのだろうけど。
そこで、再度部屋を見渡してみる。
ゆらゆらと揺れる四隅の炎だけが光源であり、視界はあまりよろしくない。
長方形の空間は、四方が岩壁、天井も同じく岩肌がむき出しになっており、床だけが板張りになっている。
正直、モノというモノは一切なく、不気味な雰囲気さえなければただの殺風景な空間だ。
残る気になる点といえば、僕の前方――ぎりぎり薄闇の奥に浮かぶ扉らしきものが、岩壁をくり抜いたようにぴったりとはめ込まれていることくらい。
(まいったなぁ)
当然のことながら、外の様子などさっぱり分からない。
昼なのか夜なのかもそうだし、むしろ都の外か内かさえ不確かだ。
おまけに、ぱちぱちと弾ける灯りの音以外、音らしいものが聞こえない。
怖いくらいの静寂が、状況を一つ一つ理解していく僕の背中に、重くのしかかってきた。
「・・・・・・ユウスケ様」
呼ばれ、再びターナを見下ろす。
そこには、さっきよりも少しすっきりとした顔つきがあった。
「おはよう、ターナ」
「はい、おはようございます。・・・・・・あの、ここは?」
律儀に挨拶を返してくれながらも、そう聞いてくる。
同時に、自分の力で起きようとする気配が伝わってくるものの、やはり全身にうまく力が入らないのか、ほとんど身じろぎ止まりである。
先に「無理しないで」と気遣いながら、質問に答えた。
「僕もね、よく分からないんだ。なんか洞窟の中っぽいけど、外の様子も分からないしね・・・・・・」
「どうくつ?」
「うん。壁も天井もごつごつとした岩に見える。本物かな?」
正直、洞窟なんてそうそう入ったことがないから、本物かどうかさえ判別がつかない。
まぁ、とはいえ肌身に感じる圧迫感といい、穏やかとは程遠い薄暗い雰囲気といい、僕にとっては十分に本物に見える。自分が置かれている状況も鮮明でない今では、説得力としてはそれだけで事足りていた。
途中で意識を失った割には、記憶もはっきりしている。
しかし、だからといってそれが良いとも限らない。
少なくとも、僕らは眠らされ、ここまで連れてこられたんだ。
普通に考えて、簡単に逃げられるとも思えないし、逃がしてくれるとは・・・・・・期待するだけ無駄にも思える。
がらんとした空間の奥にある扉も、さすがに鍵がかかっていないなんてことはないだろう。
「・・・・・・ターナ、ちょっと離れるね。大丈夫、すぐ戻って来るから」
けど、試してみる分にはマイナスもないはずだ。
ダメで元々、僕は一度ターナを横たえると、足早に視界の奥にある扉を目指して歩き出す。
そこで、僕は靴を履いていることと、剣帯をしていないことに気づいた。
(そっか・・・・・・朝の稽古前だったから・・・・・・)
護身用のショートソードは、不運なことに宿泊部屋の中ということになる。
まぁ、あったところで僕の腕前ではそう期待は出来ないだろうし、むしろ靴が脱がされていないことに喜ぶべきだ。
これで、いざ逃げるとなっても多少の悪路は問題にならないし。
「・・・・・・・・・・・・」
考えている内に、問題の扉前まで辿り着いた。
まずはぺたぺたと岩壁に触れてみると、手の平にひんやりとした感覚が伝わってくる。
ぐっと力を込めてみれば、想像通りびくともしない。
どうやら、疑いなく本物の岩壁みたいだ。
次に、その岩壁に埋め込まれたようにしてある木製の扉に手を伸ばす。
ノブを握り、軽くひねった後、押し引きしてみる。
「やっぱり、だめかぁ」
ほんの僅かに扉は前後するが、施錠されているみたいで、こちらもさっぱり動かない。
まぁ、分かってはいたけど・・・・・・こうなると、いよいよ選択肢も少なくなってくる。
脱出のための行動と考えれば、岩壁を突破する、というのは無謀も無謀だろう。
生憎、僕にはそこまでの腕力は備わっていない。
となると、一番可能性があるのは、この扉だ。
ぱっと見は木造みたいだし、蹴ったり体当たりしたりすれば、もしかしたら壊れてくれるかも・・・・・・。
「よし」
一人頷き、大きく息を吸っては吐いてを繰り返す。
緊急事態とはいえ、なんだかこういうのって緊張してくる。
いきなり加減無しの全力では怪我をするかもしれないから、まずは様子見の蹴りを一発。
多少の助走を加え、扉の真ん中めがけて前蹴りを突き出す。
だん、と打撃音が響き、慣れない感触が足裏を通して伝わってくる。
(・・・・・・あれ、もしかして)
一瞬ではあるけど、扉が少しだけ歪んだ気がする。
木造である分、鉄とかよりも柔軟性があるからそうなるのだろうけど、蹴ってみた感じは悪くない。
これなら、集中して一箇所を何度か蹴り続ければ、あるいは・・・・・・。
「よーしっ」
そうとなれば、希望も見えてくる。
ここで大人しくしているよりかは、ずっと意味のある行動だ。
そこからは、徐々に蹴りの威力を上げていきながら、何度も扉を蹴りつける。
結構な音が響いているはずだけど、僕は構わずに続けた。
そして、何度目かの後、ほぼ全力を込めた前蹴りが直撃した瞬間、乾いた音と共に扉の一部が折れ曲がった。
「や、やった・・・・・・」
なんというか、本当に上手くいくとは思っていなかった故か、数秒放心してしまう。
けど、すぐに気を取り直すと、破損した部分を中心に更に蹴り続ける。
その結果、扉の下半分に一人分くらいがようやく通れそうな穴が出来上がった。
急いでターナのところに戻ると、そこには上半身を起こしたターナが、不安げな表情で待っていた。
「お待たせ、ターナ」
「ユウスケ様、お怪我は?」
その表情は、どうやら僕が足を痛めていないか、という不安からきているようだった。
「ううん、大丈夫」と笑顔で答え、ターナが立ち上がれるように身体を支える。
覚束ない足取りでなんとか立ち上がると、ターナは一瞬、がくりと力が抜けたように僕へと倒れ込む。
「わっ、大丈夫!?」
「は、はいっ・・・・・・申し訳、ございません」
「ううん、僕は大丈夫だから。ターナ、まだ休んでいた方がいいんじゃ・・・・・・」
しかし、ターナは軽く息を乱しながらも、首を横に振る。
「おそらく、私の分だけ睡眠薬の量が多かったのでしょう。それで、まだ成分が身体に残っているだけです」
「え、じゃあ無理しない方がいいよ」
「いいえ、大丈夫です。・・・・・・ユウスケ様、行きましょう」
目に見えて、ターナは気丈に振る舞っているのは分かった。
けど、此処にいても確かに、事態は好転しないだろう。
どっちみち、自分達がどこにいるかさえ分からないのだから、進むしかない。
逃げる状況になったって、満足に走れても構造の分からない場所では、望みは薄い。
よくない現実が待ち受けている予感を覚えながらも、僕らは踏み出していく他なかった。
「ターナ、ゆっくり行こう。どこかも分からないんじゃあ、どうせ満足には逃げられないだろうから」
「・・・・・・はい、申し訳ありません、ユウスケ様」
「ううん、ターナのせいじゃないよ。ほら、もっとしっかり掴まって。倒れて怪我したら大変だよ」
「・・・・・・はい」
観念してくれたのか、ターナが身体を預けてくるのが分かる。
最初こそ一歩あるくだけでも苦労していたけど、それも次第に慣れていく。
半壊した扉の前に辿り着く頃には、ゆっくりとでも立ち止まらずに歩くことが出来るようになっていた。
まずは僕から、蹴破った扉の下部分を匍匐前進みたいな姿勢で通り抜ける。
「あ、ターナもうちょっと待って」
そこで気づいたけど、折れた扉のささくれとかが危ないね。
何度か足で蹴ったり踏んづけたりして潰し、最終的には僕が着ていた上着を敷いて、ターナが通れるようにする。
まだ身体が思うように動かないこともあって苦戦したけど、なんとかターナも扉の外に脱することが出来た。
敷物代わりにした上着を着直すと、同じようにターナを支えながら歩き出す。
「ここは・・・・・・どこの洞窟なのでしょうか?」
「うーん・・・・・・本当に、どこなんだろうね」
僕らが閉じ込められていた部屋の先は、真っ直ぐに伸びる道だけ。
僕とターナが並んで歩くと目一杯になるほどの幅で、天井もそこまで高くない。
小柄で身長の低い僕だと届かないけど、普通の成人男性なら背伸びをすれば届いてしまうくらいだと思う。
おまけに、脱出した部屋よりも更に灯りに乏しいその道は、薄暗いと言うよりも・・・・・・普通に暗い。
足下に粗末なランタンが一定間隔で置かれているだけで、壁掛けの松明すらない。
お互い、足下に気を配りながら進んでいくと、やがて同じような木造の扉に辿り着いた。
「待っててね」
小声でそう言うと、僕は扉に耳を当てる。
が、聞き取れるような音らしい音はない。
相変わらず、この圧迫感のある状況では精神を削ってくるような静寂だけが、得られる全てだった。
ならば、とドアノブをひねってみると、今度は自分でもぎょっとするくらい、扉は一切の抵抗を示さずに開いた。
「・・・・・・」
まぁ、そりゃあ施錠されていたりしなきゃ、普通は開くだろうけどさ。
でも、こんな簡単に開くとは思わないじゃんか・・・・・・。
「ユウスケ様」
呼ばれ、呆気にとられていた僕がはっとする。
「ご、ごめんっ。まさか、本当に開くなんて思わなかったから・・・・・・」
先入観とは恐ろしいものである。
それを再確認すると、僕らは同じようにして再び歩を進める。
開いた扉の先は、石畳の階段だった。
それをのぼっていくと、そこには粗末な木の蓋というか、木々の隙間から射し込む光が見えるくらいのものが、行く手を阻んでいた。
陽の光でないことは分かったけど、ここまで人の気配がないことが不気味で仕方が無い。
この先には、誰かがいるかもしれない、という自己圧迫感に耐えながら、僕はその木の蓋に手を当てた。
「・・・・・・ん」
明るい。
暗闇に慣れていた視界に、燭台らしき炎の明かりが突き刺さる。
階段をのぼりきったそこは、とても広い空間だった。
暖色の明かりで染め上げられたその空間は、更に幾つかの部屋に続いているようで、その間は薄手の布で仕切られている。
おまけに、僕らが今立っている場所にも、幾つもヒノボリの寝具――というか、僕からすればお布団そのもの――が敷かれていて、その光景は宿泊施設というには異様だった。
「ユウスケ様・・・・・・この、臭い」
「・・・・・・うん、なんだろう。なんか、甘ったるいというか・・・・・・」
正直、香水っぽいけど、こう・・・・・・ずっと嗅いでいると、気持ちが悪くなりそう。
すると、ターナがごそごそと何かを手探りで探す。
そしてすぐに、二枚の布を取り出した。
「お使いください、ユウスケ様」
「う、うん。ありがとう」
ターナがその布を口元にあてがうのを見て、僕も同じように倣う。
「これは、おそらく媚薬の一種です」
「び、びやく?」
「はい。一般に、淫薬とも呼ばれる性欲を催させる薬物です」
「・・・・・・・・・・・・」
う、うわぁ。
男女二人きりの時に遭遇するものとしては、ちょっと避けたい類いのものだ。
だって、どう考えても今はそういう場合じゃないし、僕とターナはそういう関係でもないし・・・・・・うん。
「閉鎖空間とはいえ、広いおかげでかなり効能は薄まっているようですが、直に嗅ぎ続けるのは危険ですので」
「う、うんっ。・・・・・・そ、そうだよねっ」
情けないけど、臭いの正体が媚薬と分かった瞬間、目に見えて僕は狼狽えていた。
落ち着け、落ち着くんだ。
なるべくその手の想像はしないで、ちゃんとこの状況を切り抜けることに集中しなければ。
「けど、ターナ・・・・・・よく臭いだけで分かったね。催眠薬の時もそうだったけど」
あのお茶、僕は普通に美味しいとしか感じていなかったしね。
すると、ターナは少しだけ目を伏せてしまう。
「そ、それは・・・・・・その、ほんの少しだけ、錬金術を学んだ時期があったので」
「れんきんじゅつ?」
「はい。とはいえ、本当に初歩の知識しか持ち合わせておりません。あくまで学んだだけで、見習いと名乗るにも足らない程度です」
ターナはそう言うけど、錬金術の初歩がどの程度なのか、僕にはさっぱりだった。
けども、これで納得がいった。
錬金術というとあまりイメージが沸かないけど、きっと薬学の知識は必要なのだろう。
その手に関する感覚が鋭くても、何ら不思議はない。
クロッキアさんが、僕には気づかない物音や、あまつさえ気配なんてぼんやりしたものまで明確に察知できることを考えれば、当然とも言える理由だ。
「それにしても・・・・・・これ、なんだろう。お布団がいっぱい敷いてあるけど・・・・・・あ、あっちにはベッドもある」
「・・・・・・・・・・・・」
部屋と部屋は壁で仕切られているけど、入り口には扉がない。
僕の言葉でいえば、プライベートもプライバシーもあったものではない、といった感じ。
見ようと思えば丸見えだし、その時点で宿泊施設としては変だった。
歩きながら、空間の中ほどまで来ると、ターナが僕の名前を呼んだ。
自然、お互いの足が止まる。
「ここが、ワクナさんの言っていた『裏寺』ではないでしょうか」
「えっ・・・・・・ここが・・・・・・?」
言われ、はっとする。
確かに、やたらと寝具ばかりが多いのも、そういう目的の場所と考えれば・・・・・・まぁ、不思議はない、のかな。
僕には、女の子とキスだってした経験がないので、その先のことは全くの未知数だった。
でも、普通こんな開放された場所で・・・・・・そういうことをするものなのだろうか。
「ターナ、誤解しないで欲しいんだけど・・・・・・その、こっちの世界の人って、あんまり見られるのとか気にしないの?」
「いえ、これは異常です。私も娼婦館などは立ち入った経験がありませんが、これではまるで・・・・・・」
「繁殖場のようです」と、ターナは不吉なことを口にした。
それを聞き、一気に身が固くなるのが分かる。
雰囲気とか、愛とか・・・・・・そういうものとは遠くかけ離れた、人間の底部分をカタチにしたような世界。
欲望、と言えばそれで済むのだろうが、僕らを取り巻くこの場景は無人であっても、ひどく歪んで見えるほど。
これで性欲に火がつくなど、考えられない。
僕の背を奔ったのは、間違いなく悪寒だった。
「・・・・・・こんな場所で、ワクナさんは働いていたの?」
「どうでしょうか。殿方と交われなかった、とは牛車の中で仰っていましたが・・・・・・この場で、本当に拒めていたかどうかは分かりません」
「・・・・・・っ」
ぞっとして、その次に言いようのない吐き気が迫り上がる。
身売りと簡単に言うけれど、それがどんなものか、僕はよくよく知らなかったのだと痛感した。
あくまで想像の範囲だけでも、一人の女性に一人の男性とは限らない。
ケダモノのような男が、群がるように一人の女性を・・・・・・ということも、この状況では想像に難くなかった。
「ユウスケ様?」
「・・・・・・ごめん、ちょっと想像したら・・・・・・気分が悪くなっちゃって・・・・・・」
「も、申し訳ありません、そのようなつもりは・・・・・・」
「ううん、分かってるよ。心配かけてごめんね、ターナ」
これ以上、ここでの出来事を詮索するのはやめよう。
正直な所、僕には荷が重たい。
「・・・・・・ユウスケ様は、お優しいのですね」
「そんなことないよ。こういうのに、免疫がないっていうか・・・・・・情けないけど、耐性がないだけだから」
「いえ、それがお優しい証拠です」
そう言われると、なんだか恥ずかしい。
なるべくターナの顔を見ないようにして、「ありがとう」と返す。
そして、そんな僕の言葉を継ぐように――――。
「本当に、やさしいのねユウスケくんは」
――――聞き覚えのある声が、悪戯っぽい響きでそう言ってきた。
声の聞こえた方角・・・・・・前方を、僕とターナがじっと見据える。
ぎっ、ぎっ、と板張りの床が小さく鳴り、最初は輪郭だけだった人影が、徐々にその全貌を現していく。
そこには、薄らと笑みを浮かべ、僕らを出迎えたワクナさんの姿があった。
「もう、ゆっくりと眠っていてよかったのよ。私の方から起こしに行ったのに」
「・・・・・・ワクナさん、これって一体・・・・・・」
問い詰めようとする僕に、ワクナさんは自分の口元に人差し指をあてながら、「焦らないで」と囁いた。
その仕草はひどく蠱惑的で・・・・・・どこか不気味に感じる。
「まぁ、眠ってもらったこと自体に深い意味はないの。あくまで、ここまで来てもらう為の手段、かしらね」
「ここに、ですか?」
「そうよ、ユウスケくん。歓迎するわ。ようこそ、『裏寺』へ」
「なんてね」と、ぺろっと舌を出しながらワクナさんは嗤ってみせる。
それはまるで、困惑する僕らを楽しんでいるようだった。
「とは言っても、今日はあなた達二人のために貸し切りにしたのよ。だから、他の女の子達やお客人も誰もいないの。静かなものよねぇ」
「どうして、そんな・・・・・・」
「決まってるでしょう? なぁに、それとも他の人達が交わってる中で、こういうお話をしたかった? ユウスケくん、そういうの苦手でしょう?」
「う・・・・・・ま、まぁ・・・・・・それは、そうですけど」
「ふふ、そうよね。よかった、私の思っている通りのユウスケくんで。・・・・・・まるで穢れを知らない子供・・・・・・ううん、天使みたいよね」
言いながら、ワクナさんはぶらぶらと歩き出しながらも続けていく。
「ターナちゃんも、そう思うでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・」
ターナは答えない。
押し黙ったまま、けどその視線は鋭く、ワクナさんを真っ直ぐに射貫いている。
「やっぱり、そう思っているって顔よ。自分のユウスケくんに、手を出すなって言ってるわ」
「ワクナさん・・・・・・あなた、一体何をしようとしているのですか?」
「んー・・・・・・そうねぇ、正直な所、私がって訳じゃないのよ」
「どういうことですか?」
「んもぅ、ゆっくりお話したいのに、ターナちゃんも意外とせっかちなのね。あんまり怖い顔しちゃだめよ、せっかく可愛いのに。・・・・・・まぁでも、無理もないか」
くすくす。少女のような笑い。
「ターナちゃんの荷物、残念だけど捨てちゃったわ。すごいのね、異人様のお付きって。携行用の薬がいっぱい。液体から粉末、固形までなんでもござれってね」
一滴で人を殺せる劇薬まで、とワクナさんの目がターナを捉える。
それは、まるでなめずるような異様な目つきだ。
「・・・・・・っ」
「いい顔。でも安心して。別に、私はターナちゃんを困らせたいわけじゃないもの。むしろ、あなたにとっては思わぬ幸運かもしれないわよ?」
「ど、どういうことですか・・・・・・?」
「今に分かるわ。けど、その前にもう一人、紹介しなきゃね」
それが合図だったのか。
僕らがワクナさんに気を取られている間に、その「もう一人」もまた、姿を現していた。
「いいのよ、ワクナ。せっかくのお友達とのお喋りでしょう」
そんな、という思いと。
まさか、という思いと。
その二つがぶつかり、まるで頭を思い切り叩かれたような衝撃に言葉を失う。
「またお会いしましたね、お二人とも」
それは、あのベッドの上で見た、やつれた笑顔と同じ。
本来ならば、そうして自分一人で立ち上がることさえ叶わない、その人。
「どう、して・・・・・・ワクナさんの、おかあ、さん?」
ただでさえ、僕の頭はパンク寸前だったのに。
満足に機能しない脳のまま、僕は絞り出すようにようやく、その一言を発した。
それを、当の本人は変わらぬ表情のままに、ゆったりとした動きで肯定する。
「えぇ。ユウスケさん、でしたね。ワクナから聞きましたよ。娘が随分とお世話になったようで・・・・・・おまけに、北からいらした異人様とも」
「ど、どうしてっ・・・・・・病気じゃなかったんですかっ」
そうだ。
歩けるはずがないって、ワクナさんだって言ってたはずだ。
じゃなきゃ・・・・・・何もかも、嘘だったということ?
「病気でしたよ。・・・・・・でも、今はこの通りです。不思議ですね、病は気から、とは言いますが・・・・・・魂が変われば、肉体も変わるとは真実だったようです」
「・・・・・・・・・・・・え?」
何を、言っているんだろう。
魂が変われば、肉体も変わる?
「ああもぅ、本当にユウスケくんっていじらしいのね。男の子なのに、時々女の子みたいに愛くるしいんだから。・・・・・・そんな顔されたら、全部教えてあげたくなっちゃうわ」
「そうね。この子達には、協力してもらうのだから、きちんとお話しましょう」
僕らは、ただ黙っていることしかできない。
今となっては、その空間は言葉では形容の出来ない異界と化していた。
不気味な二人の女性に睨まれた、哀れな生け贄のように、身体も心も怯えたまま動けない。
「その様子だと、ターナちゃんはもう察しがついていると思うけど・・・・・・私達が噂の正体よ。まぁ正確には、『お母様』が、だけどね」
含みのある言葉で、ワクナさんはちらりと自らの母を見る。
「この子の言うとおり、私が事の元凶。都で噂される、神隠しの首謀です。裏寺に巣を張り、撒いた餌に飛びつく男を食い物にする・・・・・・そういった存在でしょうか」
何よりも、僕はその語り口が恐ろしかった。
本当に、変わらない口調なのだ。
あの日、あの時、クロッキアさんや池谷さん、立木さんらとお邪魔した時とまったく同じ口調。
きっと、この人は自分の行いになんの躊躇も、後悔も、罪さえ一片も感じていない。
「もっとも、裏寺自体の歴史は古いのです。私はあくまで、ここを借用していたに過ぎません」
「そそ。ずっと昔、英雄様達が死んじゃった時にね、この裏寺は生まれたのよ。その当時、ここ東方は未曾有の飢餓に見舞われて、酷い内乱で混乱していた。でも見たでしょう。今はもう、そんな混乱なんて嘘みたいに、ヒノボリを中心に統治されている」
「言わば、裏寺は遺物です。女を守る為に作られた場所は、環境の変化と安定に従って形骸化し、やがては女が金で買われるだけの娼婦館に成り下がっていました」
ほんとにね、とワクナさんは心底呆れたように肩をすくめてみせる。
「ここに来る男なんて、碌なもんじゃなかったわ。嫌だって拒んでも、こっちは金を払っているんだ、の一点張り。金さえ払えば、女を好き放題できるって考えしかないのね。当然、避妊なんて考えもないし、泣こうが叫こうが、お構いなしで犯す変態もいたわ」
「当然、それを止める人間もいません。裏寺の管理は寺院が行っていますが、要は元締めです。『お布施』が入れば、壊れない程度に女を使う分には文句はなかったのでしょう」
「それでも、何人も心を壊していたけどね。使い物にならなくなれば、その度に格安で商人達に売り飛ばされていた。信じられないでしょう? でもね、それでも買い手があるのよ。こんな人類がお終いだ、なんて囁かれる時代でも・・・・・・ケダモノはケダモノのままなのね。血が通っていて、穴が濡れれば何でもいいのよ」
その時、ようやくワクナさんから凶暴な気配が滲み出た。
そしてそれは、事の発端だ、という彼女の母にまで伝播していく。
「犠牲は、いつの世もつきものです。私の夫と息子がそうだったように、都という限定的な平和の裏では、多くの涙が流れている。けど、誰もそんなことには気づこうともしません。自分に降りかかるまでは、あくまで他人の不幸でしかないのです」
「お母様はね、お父さんとお兄ちゃんが戻ってこないと知ってから、目に見えてやせ細っていったわ。・・・・・・誰よりも、家族を大切にしていた。もちろん、残された私にだって目一杯の愛情を注いでくれていたわ」
「けど、心労には勝てませんでした。気づいた頃には病に冒され、この子に愛情を注ぐどころか、私はこの子の重荷でしかなくなっていた」
けど、とワクナさんのお母さんは頭を振る。
「それまではまだ、幸せを信じていました。失ったものは大きくとも、生きる意味はあるのだと。母と娘、二人で生きて、先に逝ったあの人と息子に・・・・・・精一杯生きたよと、胸を張れる日が来るのだと」
それは、遺された二人の希望だったのだろう。
失意にあっても、諦めてはいけない。
命を懸けた二人の家族の為に、どれだけ追い込まれても、生ある限りは生きなければならない。
それが、母と娘よりも早く旅立った二人への、敬意であるとして。
「ですが・・・・・・ある日、私は知ってしまったのです。娘が、裏寺という場所に出入りしているということを。私は若い頃、夫から存在だけは聞いていました。だから、いても立ってもいられなかった。まともに歩けない身体に鞭を打って、それでも寺院に向かおうと家を出ようとした時・・・・・・駆け込むように、この子は家に帰ってきました」
そして、一晩中、吐き続けたと。
「それが、何を意味しているかは、もう考えたくもありませんでした。ただただ、後悔と・・・・・・憎しみが、私の心を蝕んでいったのです。だって、そうでしょう? 娘が何をしたというのです? 私が、一体何をしたと? 夫と息子の命さえ捧げて、今度は娘の身体と心も差し出せと?」
穏やかだった口調は、まるでその心情の変化と連動しているように、じわりじわりと黒ずんでいく。
「人類は、私から娘さえ奪っていく。いえ、奪っていった。・・・・・・その時から、私の心にもう一つの魂が宿ったのです。擦り切れて、焼けただれたような私の心は、随分と小さくなっていたのでしょうね。まるで隙間を埋めるように、その魂は私を満たしていきました。すると・・・・・・嘘のように、病気が治ったのです。あれだけ苦しめられた病が、容易く治ってしまった」
それは、どれほど醜い奇跡だったのだろうか。
歪みきったそれはしかし、確かに一人の女性の運命を変えたと言っていいはずだ。
それは、まるで神を盲信する誰かのように、天を仰ぐこの女性を見ていれば分かる。
「この時、もう一つの魂がこう囁いたのです。復讐をしろ、と。願ってもない言葉でした。だって、私の病が治っても、夫も息子も、娘も・・・・・・誰一人、昔の通りには戻らないのですから」
「そうなのよね。・・・・・・ねぇ、ユウスケくん」
「・・・・・・な、なんです、か?」
「人類って、なんだろうね?」
「・・・・・・へ?」
「私やお母様に、人類が何をしてくれた?」
「・・・・・・・・・・・・」
「私達は、全部を捧げたわ。お父さんも、お兄ちゃんも。家族としての『幸せ』を全て犠牲にした。でも、見返りなんて何もなかったわ。ヒノボリさえ、そうだった。でも、仕方が無いとも思ったわ。だってね、私達家族の幸せは、『家族として当たり前に生きる』ことだったから」
他には何もいらなかった、とワクナさんは寂しげに言う。
お父さんも、お兄ちゃんも、私も、お母様も。
当たり前に生きて、笑って、たまには喧嘩もして。
そんな、日常と呼べる風景だけで、満足だったと。
「それを、世界は、人類は、国は・・・・・・さも当然のように奪っていった」
ワクナさんのお母さんは、瞳孔の開ききった双眸で、僕を見つめる。
「ユウスケさん、ターナさん。聞いてくださる? 夫や息子の代わりに、何が返ってきたと思いますか?」
僕もターナも、答えられなかった。
答えられるわけがない。
「たった・・・・・・たった、割れた兜だけが一つ、返ってきました。は、ははは・・・・・・ははははははっ! おかしいでしょう!? 名前の刻印さえない、誰のモノかも分からない兜を、神妙な顔つきで手渡されて・・・・・・くっ、ははははっ! それで、それで・・・・・・『これしか持ち帰れませんでした。申し訳ありません』ですって!」
ワクナさんのお母さんは、口の端から涎が垂れるのを気にすることもなく、狂ったように笑い続ける。
それは、心底可笑しなことを笑うように。
「それでね、それは息子のだって言うのですよ!? じゃあ、夫のは? ふ、ふふふふっ・・・・・・はははははははっ! なに、ひとつ! 何一つ、返ってこなかった! 持ち物一つ、肉の一片さえ! なにも、なにもなにもなにもなにもなにもなにもっ!!」
返っては来なかった!! ――と。
そう、ただ奪われるだけの末路を、一人の女性は呪詛じみた気迫で吐き出した。
その表情は、もはや人のものとは思えないほど、歪み血走っている。
「だから、私も奪うことに決めたのです。そうしたら・・・・・・最初は、別々だった二つの魂は、やがて一つになっていきました。どんなカタチになろうと、もう私は気になりませんでした。だって、人間だって大概でしょう? 未来や救い、希望の為なら、簡単に犠牲を受け入れてしまう。・・・・・・ほら、ユウスケさん。あなただって、そんな人間に運命を狂わされた、一人じゃありませんか」
どくん、とどうしてか心臓の鼓動が強まった。
僕は、この世界の人達に恨みなんてない。
むしろ、ターナやクロッキアさんも含めて、感謝をしてもしきれない人ばかりだ。
・・・・・・でも、その反面、僕の脳裏には父さんと母さんの顔が浮かんでいた。
「ユウスケくん、人間だって怪物なのよ?」
「・・・・・・・・・・・・」
「それはもう、魔族と同じくらい醜い怪物よ。自分達が助かるためなら、どんな事にだって手を染めるわ。・・・・・・だからね、そんな生き物は死んじゃった方がいいと思うの」
「・・・・・・えっ」
結果、考えがそこに行き着くことは分かっていたかもしれない。
けど、実際に耳にすると、僕の口からは驚きの声がもれていた。
「安心して。ユウスケくんやターナちゃんに、殺せだなんて言わない。二人とも優しいもの。だからね、お母様の案で、二人には協力してもらおうと思うの」
「きょ、きょうりょく?」
「えぇ、そうです。・・・・・・私はもう、人間ではありません。この東方で、『獣憑き』と呼ばれる怪物になっている」
ワクナさんのお母さんは、僕らの戸惑いは一切無視して、その協力内容を説明しだした。
「ワクナには、私の魂の一部を分け与えました。やることは同じですが、こちらの方がより根本的です。ターナさん・・・・・・私は、あなたになる」
「・・・・・・な、え・・・・・・?」
ターナの困惑は当然だ。
僕だって、何を言っているのか、さっぱり理解できない。
「もぅ、二人とも察しが悪いわよ。簡単な話よ。お母様はね、もう魂の存在なのよ。人間の身体は、あくまで器でしかない。だから、その器をより適したものに変えようってだけよ」
「ま、待って! な、なんで・・・・・・どうして、ターナがっ!」
「だって、ユウスケくんはそっちの方がいいだろうし。もちろん、私やお母様もそっちの方がいいもの。お母様はお父さんを愛している。だから、いくらユウスケくんでも、他の男と交わるっていうのはね」
ちょっと嫌でしょ? なんて、どんな神経なら悪戯っぽく言えるのだろう。
まともじゃない。狂ってる。
「安心してください、ユウスケさん。ターナさんの魂も、私・・・・・・いえ、『我々』の一部となります。その感情や記憶も、しっかりと受け継がれます」
「そういうこと。だから、安心でしょ。ターナちゃん、ユウスケくんと結ばれるのよ。こんなに嬉しいこと、ある?」
「・・・・・・ワクナさんも、あなたのお母様も・・・・・・どうか、しています」
「かもね。でも、だから何? 大丈夫よ、二人とも想いはあるんだから、一度快楽に溺れてしまえば、一晩中愛し合えるわ」
「そんなことして・・・・・・あなた達は、何がしたいんですか!?」
ここまで、何とか冷静でいようとしてきたのも虚しく、ターナが声を張り上げる。
僕が支える身体は小刻みに震え、表情は引きつっていた。
「決まっています。・・・・・・子が欲しいのですよ」
当然、その返答もまた、狂気の最高峰であった。
「いかに獣憑きと言えど、器がただの人では異人を討ち破るのは難しい。今でこそ暗躍していますが、いずれは殺し合いになります。その時、ユウスケさん・・・・・・あなたの異人の血を受け継ぐ子がいれば、その力は我々にものとなります」
「・・・・・・まさか、そんな・・・・・・ワクナさん、僕を・・・・・・」
「ごめんね、ユウスケくん。本当は事情が違って北を目指していたんだけど、移動用に生かしておいた男連中が、もしかしたら異人かも、とか言うから・・・・・・急遽、作戦を変更しちゃったの」
「じゃあ・・・・・・初めから、僕らを騙して・・・・・・?」
「そーいうこと。まぁでも・・・・・・私は楽しかったし、嬉しかったわよ。だから、お母様にお願いして、できる限り二人が苦しまない方法を選んだの。大丈夫、今は理解できないだろうけど・・・・・・すぐに、どうでもよくなるから」
恐ろしい。
ただただ、恐ろしかった。
この二人は、自分達の復讐を果たす為に、人間を皆殺しにする為に、僕とターナを使って・・・・・・文字通り「繁殖」しようとしているのだ。
ワクナのお母さんが言う、もう一つの魂とは、話の流れからしても獣憑きの伝承と一致する部分がある。
でも・・・・・・武器も何もないこの状況で、僕に何ができるというのだろう。
「さぁ、お母様、始めましょう? ターナちゃんさえその気になれば、ユウスケくんもきっと乗り気になるわ」
「そうですね。大丈夫ですよ、ターナさん。ユウスケさんのことも考えて、人間の部分はあなたに譲ります。その方が、具合が良いでしょう?」
「い、いや・・・・・・来ないでっ」
ぬるり、と全身が総毛立つような動きで、ワクナのお母さんがにじり寄る。
それに反応し、ターナがびくりと身体を震わせた。
くそっ・・・・・・このままじゃあ、相手の思う壺だ。
なんとか・・・・・・なんとかしないと。
「や、やめろ!」
とはいえ、僕は丸腰。
出来ることといえば、こうしてターナの前に立ち塞がることくらいだった。
両手を広げ、精一杯の虚勢を張る。
正直、不気味・・・・・・異様という意味合いで言えば、ネグロフでの人狼の方が何倍も穏やかに見える。
あの人達が、いかにまだ心ある存在だったのか。
それを、僕はこの狂人二人を前にして、ようやく理解していた。
「焦ってはいけませんよ」
ひゅごう、と風の唸りが聞こえた。
瞬間、視界が一気に流れ、それと一緒になって意識も何度か暗転する。
息が詰まり、呼吸が思うようにできず、お腹の奥がぐるぐると回っているように気持ち悪く、おまけに鉄球でもあるんじゃないかってくらい重い。
気づけば板張りの床の上で、瀕死の魚みたいに悶えていて。
揺れて定まらない視界の先では、ターナが僕の方を向きながら、必死に何かを叫んでいる。
詰る所、僕は吹き飛ばされたんだ、ということを、そこでようやく把握できた。
「――さま! ユウスケ様っ!」
答えようと口を開こうとしても、思うように声が出ない。
口の中は鉄の味でいっぱいで、手も足も思い通りに動いてくれない。
苦しい。肺は酸素を求めているのに、それさえ満足に出来ないくらい、経験のない衝撃を受けて身体が警告を発している。
「・・・・・・あ、ぅ・・・・・・」
ターナ。
ターナ・・・・・・っ。
心の中では、僕も必死になって呼び返しているのに。
「ふふ・・・・・・さぁ、捕まえましたよ」
「い、や・・・・・・はな、してっ!」
「そう怯えないで。獣憑きなどと恐れられてはいますが、存外悪いものではありません。ケモノがヒトを変えるのではないのです。ヒトとケモノが一心となる。それが、獣憑きなのです」
「言っている意味が、分かりません! そんな・・・・・・そんなことをしても、あなたが失ったものは返ってきません!」
「えぇ、その通りです。言ったでしょう? 奪うことに決めたと。もう、何一つ戻ってはこない。だから、後はもう奪うだけ。手始めに、私から何もかもを奪っていったこのヒノボリを、人々の亡骸で埋め尽くしてあげます」
ターナは、必死に抵抗しようと身をよじらせている。
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「あぁ、なんて瑞々しい。・・・・・・ほら、見なさい」
「う、っ・・・・・・ぐっ」
ターナが下から顔を鷲掴みにされ、ぐりん、と僕の方を向かせられる。
「素敵ね。きっと、彼も喜ぶわ。それにターナさん、あなたも女なら、しっかりと意中の殿方くらいは喜ばせられないといけませんよ」
「心配いらないわ。なんなら、二人が慣れるまでは私も手を貸してあげるし」
「あら・・・・・・ワクナ、彼はこの子の男性なのですから、本気になってはいけませんよ」
「んー、どうかなぁ。あ、でもさ、そうしたら私もユウスケくんとの子供、産めばいいだけでしょ?」
「はぁ、あなたをそんな娘に育てた覚えはありませんよ。それなら後々、二人でどちらが彼に相応しいのか、話し合って決めなさい」
「んもぅ、お母様ったら、そういう所はやけに頑固なんだから」
もう、この二人にはどんな言葉だって届かない。
そもそも、きっと僕やターナだって、本当の意味では見えていないのだ。
きっと、この人達も・・・・・・支えを失ったが為、こうして壊れることしか出来なかった人達なんだ。
(あぁ・・・・・・そっか、どおりで)
どこか、似ているなぁ、と。
そうだ、この絶望。
そうなんだ、このどうあっても避けられない悲劇は。
(この二人も、コーネリア姫と同じ、なんだ)
人の業によってもたらされた、必然の崩壊だったのだろう。
「ほら、ターナちゃんも。本当は、もうどうやったって逃げられないことは分かっているんじゃない?」
「・・・・・・」
「一応はね、私もお母様も、狂っているって自覚はあるわ。あのね、少なくとも私は二人に感謝しているの。あの森の中で出会って、短い間だったけど、なんだか昔みたいに穏やかな気持ちになれた。だから、ある程度の都合はつけてあげられる。何か、こうして欲しい、とかはないの?」
「・・・・・・・・・・・・」
しばしの静寂。
その後、ターナが僕を見て、震えるその口で。
「・・・・・・ユウスケ様を、傷つけないでください」
「うん、分かったわ。お母様も、いいよね」
「えぇ。さっきは・・・・・・ごめんなさい。正直、私もこの身体で加減を必要とするのは初めてで。あれでも随分と優しくしたつもりだったのですが・・・・・・」
「あと、ユウスケ様を殺さないでください」
「もちろんよ。殺すなら、もうとっくにそうしているしね。お母様が言った通り、器の交換さえ済んでしまえば、ユウスケくんのことはターナちゃんに任せるわ」
「・・・・・・本当に、信じていいんですね」
「えぇ、安心なさい。運命は変えられません。その代わり、人間とは違い、約束は違えません。例え全ての人間を殺し尽くしても、ユウスケさんだけは例外となるでしょう」
「・・・・・・・・・・・・」
なんて、やり取りをしたのだ。
待って。待って、待って欲しい。
なんだって、そんなことを言うのだろう。
「・・・・・・だ、め・・・・・・だめ、だよ・・・・・・ター、ナ」
全身に痛みが走る。
まるで、電気でも通ったみたいに、脳に響くようなそれに息が乱れる。
でも、そんな一切合切を無理矢理押しとどめ、這いずりながらもターナに向かって手を伸ばす。
「・・・・・・申し訳ありません、ユウスケ様」
「ターナ・・・・・・だめ、いやだっ」
「私では、お守りできませんでした」
違う。違う違う違う。
違うから・・・・・・だから、そんな。
「でも、ずっとお側にはおりますから」
もう、お終いみたいなこと、言わないで。
「う、ぐっ・・・・・・だめ、だよ」
腕に力を込める。
足に気力を込める。
全身に命を込める。
どうにもならなくたって、それでも抗い続ける。
嫌だ。嫌だ嫌だ。
失いたくない。失いたくないんだ。
僕、まだターナに何の恩返しもできてない。
なのに、こんな形で終わりたくなんてない。
「もう頑張らないでください、ユウスケ様」
「ターナっ」
「ターナは、ちゃんと・・・・・・お側におりますからっ」
つぅ、とターナの頬を一筋が伝う。
それは、諦めか後悔か、あるいは両方だったかもしれない。
そこで、ターナはがくりと抵抗の力を完全に失ってしまう。
それを観念した、と受け取ったのだろう。
ワクナさんのお母さんが、まるで我が子を愛でるようにターナの頭を優しく撫でた。
「賢い子ですね。・・・・・・痛みはありません。すぐに済ませますよ」
けど、僕がどんなに頑張っても、運命は覆らない。
事態は一向に好転することなく、僕らはこの二人の思うままにしかならない。
月並みな言葉になるけれど、悔しかった。
こんな弱い自分が、とても悔しかった。
でも、それももう遅い。
僕はただ、負け犬みたいに這いずりながら、自分の将来が絶望に堕ちていく光景を見ていることしか――――。
がたん、と物音がした。
――――できなかったはず、なのだが。
立て続けに物音は何度か続き、やがて・・・・・・ぎぃぃ、と扉が開くような音が静かに響く。
誰かが・・・・・・入って来た?
これが予期せぬ訪問客であることは、音の方角――ワクナさん達が入って来た方を全員が見ていることからも、読み取れる。
招かれざる者でなければ、この狂人二人がここまで不可解な表情をするわけがないから。
「あっ・・・・・・ぐっ・・・・・・あ、」
短く、苦悶するような声。
仕切りの役割を担う垂れ幕の向こうから、その人影の正体が明らかになる。
「あなた・・・・・・ゲンゼン?」
若干、苛立ちを含むような声で名前を呼んだのは、ワクナさん。
そして、垂れ幕の向こうから姿を現したのは、剃髪の男性だった。
「今日、ここには踏み入らぬようにと申しつけたはずだけど」
「あ、ひ・・・・・・あぁ」
しかし、どうにもその男性は様子がおかしい。
何やら、ひどく怯えているというか・・・・・・。
と、おそらくはその場の全員が、違和感の正体を探っている瞬間だった。
「ぐぎっ、がっ・・・・・・あ、あぁぁぁあああっ!」
ぶるぶると震え、男性がもがくように悲鳴じみた声をあげる。
顎が外れんばかりに口を開き、その端からは泡立った涎がぶくぶくと漏れ出てくる。
そして、その身体はやがてゆっくりと、見えない力によって持ち上げられていく。
「ひぎ、ぎぃ・・・・・・た、しゅっ・・・・・・たしゅ、けてっ」
言い終わるや否や、げぼっ、と口から血の飛沫が吹き出た。
絶命の瞬間、まるで生まれ出るように、男性の身体から剣の切っ先がその姿を現す。
数秒、その串刺しも同然のまま、男性は苦しみ抜いた表情でがくりと力尽きていた。
その亡骸を、さもゴミ同然かのように、背後に控えていたと思われる誰かが、横薙ぎに投げ捨てる。
「・・・・・・うそ」
ワクナさんの、信じられない、という声。
こつん、こつん、こつん。
足跡と共に、剣の切っ先が垂れ幕から覗き込む。
血濡れの剣を携えて、奥から姿を現したのは――――。
「私の連れが、随分と世話になっているようだな、獣憑き」
――――まるで、悪鬼のような形相で殺意を滾らせる、クロッキアさんだった。
0
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◇
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