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1巻

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 背後から支えられ、はからずも顔が上下さかさまになった状態で見つめ合ってしまう。肩をそっと押してもらい、ようやくまっすぐに立つことができた。

「す、すみません! ありがとうございます」

 健吾が背後に来たタイミングで、自動ドアはすんなりと開いている。

「どういたしまして。ほら、開いたよ」

 健吾の後をついてビルに入り、すばやくドアを振り返った。一歩踏み出し、センサーの下に立ってみる。ドアはそのままぴったりと閉じていった。

「丸山さん、なにやっているんだ? エレベーター来たぞ」

 先を行っていた健吾が、エレベーターのなかから里美に向かって手招きをする。

「あっ――、はいっ!」

 急いでエレベーターに乗り込む。

「ありがとうございます。重ね重ねすみません――」

 軽く会釈えしゃくし、健吾に代わって操作盤の前に立った。

「いや、役に立てたようでよかった。しかし、あのドアセンサー、壊れているんじゃないのか?」

 後ろに流された髪が、襟足えりあしゆるく外巻になっている。ひたいからあごにかけてのラインが、秀逸なギリシア彫刻のようだ。

「いえ、その点は心配はないです。自動ドアのメンテナンスは、毎回業者さんが完璧にやってくださっています。でも、なぜか私にだけは反応が鈍いんです。ちなみに、開きにくいのはここの自動ドアだけじゃありません。日本国中、どこの自動ドアも、もれなくあんな感じですから――あ、もしかして世界規模かもしれません。少なくとも、ハワイはそうでした」

 大学のとき、女友だちと四人で行ったハワイで、開かない自動ドアに思いっきりひたいをぶつけたことを思い出す。

「へぇ――、丸山さんって面白いな」

 無意識にひたいを指でさする里美に、健吾は軽く笑い声を上げる。電子音が、八階への到着を知らせた。フロアにでたところで、健吾が立ちどまる。

「じゃあね〝幽霊さん〟」

 優雅に手を振ると、健吾は社長室へと歩いていく。

「えっ――は、はいっ、失礼します――」

 たった今言われた言葉を、頭のなかで思い返してみる。

「社長、私のこと〝幽霊さん〟って言ったよね? なんで社長がそんなこと知ってるの?」

〝幽霊さん〟というニックネームについては、別に秘密でもなんでもない。けれど、まさか社長までもが知っているとは、思ってもみなかった。

「――っていうか、私の名前まで知ってた!」

 里美は、今さらながら驚き、ぱちぱちと目をまたたかせる。
 入社して三年、同じビル内に勤務するようになってから一年弱になるが、これまで一度も健吾と目が合ったことはなかった。ましてや、さっきみたいにふたりきりになるなんて初めてだ。
 総務部員として、会議のお茶出し等はあるから、まるで接点がないというわけではない。しかしながら、健吾が出席する会議では、関係部署の女性社員がすすんでお茶出しや資料配布をやってくれる。そのため、里美が出る幕はあまりなかったのだ。
 健吾は、まだ若いにもかかわらず、すでに経済界で一目置かれる優秀な企業人だ。その上あれほどのイケメン。女性にモテるのも当然だ。だけど、里美は健吾を異性として意識したことなどないし、それは健吾だってそうだろう。というより、存在を意識したことすらないのでは? と思っていた。なのに、その健吾が里美のことを知っていたのだ。社長というのはすごいんだなとつくづく思う。
 デスクに到着しバッグを置くと、里美は早速毎朝恒例の社内巡回に向かった。

(あ、そうだ。昨日社長室の前のコピー機がトナー切れになってたっけ)

 スタート地点は、里美のデスクからすぐのカフェコーナーだ。いつもどおりの経路をたどり、社長室前のコピー機の前で立ちどまる。背後にある全面ガラス張りの部屋は、まだブラインドが閉まっている。

(それにしても、社長がこんな時間に出社するなんて、珍しいな)

 空になったカートリッジをコピー機から取り外し、新しいものを手に取る。それを片手に持ち、空いている手を腰に当てた。なかに入っているトナーを拡散するためには、カートリッジを何度か傾ける必要がある。

「やぁっ! とうっ!」

 ごく小さな声を出しながら、カートリッジをゆっくりと振り回す。気分は、スローモーションで敵を迎えつ女剣士だ。なんとなく、ノリで一度やってみたら楽しくて、以降、これをやるのが里美の密かな楽しみになっていた。

「はい、これでよし……っと」

 交換作業を終え、ついでにコピー用紙を補充してまた巡回に戻る。ちらりと後ろを振り返ってみると、社長室は相変わらずブラインドが閉まっていた。

(よかった――。うっかりいつも通りのことしちゃってた)

 さすがにさっきのを見られるのは恥ずかしすぎる。

「八階、準備オッケー」

 そう呟くと、里美は鼻歌を歌いながら、七階に向けて非常階段を下りていった。


 翌日の木曜日は、なにごともなく終わった。そして迎えた金曜日の朝。里美はまたしても自動ドアの前で、健吾に遭遇する。

「おはよう、丸山さん」

 後ろから声をかけられ、里美は振り上げていた手をそのままに振り返った。

「あ。社長、おはようございます」

 今朝の健吾は、前回よりも落ち着いた色合いのスーツに身を包んでいる。相変わらず清々すがすがしいほどのイケメンぶりだ。

「今朝も自動ドアと格闘してるね」
「そうなんです。最近特にしつこく開かないんですよね」

 しかし、それまで開かなかったドアは、健吾が近づいてきた途端、嘘のようにすんなりと開いた。
 なんだろう、この差は。身長差? それとも、存在感の違いからくるものだろうか?
 いや、そもそも開かないのは自分だけであって、誰も皆、普通に自動ドアを通り抜けていくのだ。
 里美は、大股で歩く健吾の後に従い、早足でホールを歩いていく。

「そうだ、昨日総務から回ってきた、社内スケジュール管理ソフトの導入の件だけど」

 先日、ようやく申請書を再作成して、田中部長の承認をもらった案件のことだ。人事部長とのすり合わせが必要だと言っていたけれど、早々に片付けてくれたみたいだ。

「担当者欄に丸山って印鑑が押してあったけど、あれって君のことか?」

 エレベーターに乗り込むと、健吾は里美のほうに向き直った。

「はい、そうです」
「そうか。ふぅん、いいね、あれ。朝一で決裁するから、あとはよろしく」

 思いがけない事前通告に、里美は笑顔になる。

「ほんとですか! よかったです~。最初は役職者の方だけでも、と思ったんですが、どうせなら社員全員のスケジュールも閲覧できるようにしたいと思って。以前作っていたものを、急いで書き直したんです」

 最初こそコストがかかるが、導入すれば一気に情報の共有化がはかれる。それは、結果的に業務の円滑化にもつながり、メリットも大きくなるはず。

「添付されていた資料、なかなかよくできていたと思う。あれも君が作ったのか?」
「はい」

 エレベーターが八階に到着すると、健吾は里美に先に降りるよううながす。恐縮しながら先を行く里美に、健吾が後ろから話しかけた。

「丸山さん。悪いけどコーヒーをれてもらっていいかな? 俺と君のふたり分ね」
「あ、はい。わかりました」

 デスクにバッグを置き、廊下向こうにあるカフェコーナーに向かった。そこは、健吾が社長に就任してすぐに、新たに設置されたスペースだ。

(なんだろう? スケジュール管理ソフトの件かな)

 あと一時間は誰も出社して来ないだろうから、健吾と話した後で巡回をしてもまだ時間的に余裕がある。
 コーヒーをれ終わり、社長室に向かう。部屋のブラインドは上がっていて、ドアも開け放たれていた。

「失礼します」

 ぺこりと一礼して、部屋のなかに入る。モノトーンでデザイン性の高いデスクに、応接セット。窓際には背の高い丸テーブルと椅子が置かれており、健吾がそこに座ったまま里美を手招きする。健吾の前にれたてのブラックコーヒーを置く。総務部の一員として、各役員の飲み物の好みはきちんと把握していた。

「ありがとう。丸山さんも座って」

 健吾は、ひと口コーヒーを飲み、満足そうに口元をほころばせる。

「うまい」

 そう言ったきり、健吾は黙ってコーヒーを飲み続ける。カップを手にしたまま、里美は部屋のなかをぐるりと見回した。

「社長室も、お引越し完了ですか?」
「ああ、もう終わったよ。会長の私物が、あと少し残ってるけど」

 健吾が指さした先には、両手に抱えられるくらいの、つづらが置かれていた。蓋が開けたままになっているから、中身が見える。

「あれ、ぜんぶ会長の私物ですか?」

 一番に目についたのは、色とりどりの布でできたテディベアだ。

「ああ、そうだよ。趣味でテディベアを作ったりしててね。仕事の気分転換にいいらしいよ」
「はぁ、なるほどです……」

 里美は、いかにも頑固そうでしかつめらしい会長の顔を思い浮かべた。

(会長がテディベアを……。人は見かけによらないって、ほんとなんだなぁ)

「会長宛てに送っておきましょうか?」
「いや、これは俺が持っていかなきゃいけないんだ」

 健吾は、里美のほうに少しだけ身を寄せ、声をひそめた。

「――『わしの大事なものだから、お前自ら運んで来い』って言われててね」

 ごく間近に、健吾の顔がある。至近距離にまで近づいた彼からは、ほのかに石鹸せっけんの香りがした。

「他にも、ルービックキューブや知恵の輪とかが入ってるよ。まるでおもちゃ箱だろ?」

 これまで知ることもなかった会長の素顔に、ちょっと驚いてしまう。

「ほんとですね」

 里美は、これまで知ることもなかった会長の素顔に、ちょっと驚いてしまう。健吾の前は、彼の祖父である幸太郎こうたろうが社長職に就いていた。彼は、かつて一度社長を辞し、息子――すなわち健吾の父、正一しょういちにその座を譲っている。だが、病気による正一の急逝きゅうせいで、今年三月まで再度社長を務めていたのだ。しかし、いくら自社の社長とはいえ、一般社員である里美とのかかわりはほぼ皆無だった。そのため、里美は、幸太郎の人となりを知らなかったのだ。

「あの、お話というのは――」
「ああ、そのことだけど――。丸山さん、先週の月曜日、遅くまで残業してたでしょ?」
「はい」
「やっぱり。それで、帰る間際に照明を消された、と」
「え? ――そうですけど。でも、どうしてそれをご存じなんですか?」
「うん、実はあれ、俺の仕業なんだ」
「えっ、社長の?」
「そう、俺が消した。ごめん――でも、もちろんわざとじゃない。フロアをぐるっと見回してみて、もう全員退社したと思ったものだから」

 健吾の眉尻が下がった。端整な顔に、怒られる前の子供のような表情が浮かぶ。

(あれ? なんか、可愛い――)

 里美は、思わず顔をほころばせた。

「そうだったんですか。私も、フロアにはもう誰もいないと思っていました」

 里美が笑うのを見て安心したのか、健吾の口元にも笑みが浮かんだ。

「それで、帰ろうとして照明を落とした。そしたら、フロアの端のほうから、音が聞こえてきたんだ。まさか人がいるとは思わないから、白いものが見えたときには我が目を疑ったよ。それから、暗闇にぼうっとした明かりがついて、それがオフィスをふらふらと動きだして――幽霊かと思って、ものすごく驚いたよ」

 社長室は、里美のデスクから遠い。あの日キャビネットの前にしゃがみこんでいた里美は、健吾の位置からはまったく見えなかったのだろう。

「すみません。驚かせてしまいましたね」
「いや、丸山さんが謝ることはないよ。ほんと、ごめん。君のほうこそ驚いただろ?」
「いいえ、私なら平気です。もう慣れてますから」
「慣れてる? 残業してて照明を消されるの、初めてじゃないのか?」
「はい、もう何度目か忘れちゃうくらいに。もちろん社長と同じで、みんな私がいることに気づかずやったことですよ」

 本当に、もう何度照明を消されたかわからない。

「だからいきなり真っ暗になっても、そんなに驚かなくなってるんです」
「へえ」

 健吾は、感心したように里美の顔に見入っている。

「私って、普段から存在感が薄いって言われるんですけど、仕事に没頭するとよけい気配が消えちゃうみたいで。物心ついたときからそうなんです。どこへ行ってもなにをしていても」

 改めてそう口にすると、自分のことながら、なんだかおかしくなる。しかも、話している相手は、存在感ありまくりのイケメン社長だ。里美は思わず小さく笑い声を上げてしまった。

「笑いごとか? それで困ることとか、いろいろとあるだろうに」

 健吾が、呆れたように眉尻を上げる。しかし言葉とは裏腹に、里美を見る彼の目は、明らかに面白がっていた。

「ああ――、自動ドアとかですか? でも、それも含めていろいろと慣れちゃって、あまり気になりません。あ、でも、今回は引っ越したばかりだったし、ちょっと苦戦したかもです。いつもペンライトを常備しているから、足元は照らせていたんですけど、途中で田中部長のごみ箱を蹴飛ばしちゃって」
「ああ! あのごろごろって音、ごみ箱が転がる音だったのか。急に変な音が聞こえてきたから、幽霊だけじゃなくて、妖怪まででたのかと思ったよ」
「妖怪って! 社長って、面白い方ですね」
「いや、面白いのは明らかに丸山さんのほうだ。ほら、この間だって、そこのコピー機の前でカートリッジ片手に孫悟空そんごくうのマネしてただろ?」
「えっ、見てたんですか!? 確か、あのとき社長室のブラインド、閉まってたのに――」

 いったいどこから見ていたのだろう? 里美は、さすがに恥ずかしくなり、顔を赤らめて首をすくめた。

「ばっちり見てた。君が近づいてくるのが見えたから、おどかそうと思ってブラインドの隙間から様子をうかがってたんだ」
おどかそうって……」

 社長ともあろう人が、そんなことをたくらむとか。まるでやんちゃな小学生の男子みたいだ。

「なかなかサマになってたよ、レディ孫悟空そんごくう
「違います、あれ、孫悟空そんごくうじゃありません! 一応、女剣士のつもりでした」

 勢いよく抗議の声を上げたものの、言いながら恥ずかしくなり、里美の声がだんだんと小さくなる。健吾が横を向いて噴きだした。
 そこまで笑わなくても!
 そう思ったものの、健吾の笑い方は、見ていて気持ちいいほどさわやかで、あっけらかんとしている。

「まあ、孫悟空そんごくうでもいいですけど。別に悪者じゃないし」

 とうとう里美も、健吾につられて笑い出した。ふたりでひとしきり笑うと、健吾は口元を引き締めて里美の前でかしこまった。

「いや、失敬。女剣士――だったか。次からは、そう思いながら見させてもらうよ」
「もう見なくていいです!」

 笑い飛ばしてくれたからか、恥ずかしさはすっかり消えている。

「あ、そう言えば、社長。どうして私が〝幽霊さん〟って呼ばれてるの、ご存じだったんですか?」
「ああ、あれは、たまたま田中部長と話しているときに聞いたんだよ」
「田中部長に?」
「うん、仕事の話を終えて雑談をしてたとき、たまたま俺が見た〝八階フロアの幽霊らしきもの〟の話になったんだ。話すうち、田中部長が『それ、もしかして〝総務部の幽霊さん〟かもしれません』って言いだしてね。詳しく聞かせてもらったら、いろいろと合致したんだ」

 それで納得した。健吾は、田中から里美の情報を得ていたのだ。

「〝総務部の幽霊さん〟なんて聞いたら、興味をひかれるだろ? 一度会ってみたくて、朝早く出勤してみた。そしたら、君が自動ドアの前で苦戦してるのを見つけたんだ」
「そ、そうだったんですか」

 あの日里美が健吾に会ったのは、彼が意図的に待ち伏せていたからだったのか。

(なるほどね~。珍獣を見たい、って感じだったのかな。それであの朝、あそこにいたんだ)

 里美がひとり頷いていると、健吾の顔がぐっと近寄ってきた。

(ち、近いっ!)

 さっきよりもだいぶ近い。石鹸せっけんの香りどころか、健吾の息遣いまで聞こえる。間近で見ると、健吾の肌のなめらかさがわかった。眉もきちんと整っており、凛々りりしいことこの上ない。

(うわ……、なにこのかっこよさ……)

 思えば、こんな美男子は生まれて初めて見るんじゃないだろうか。それに、男性とこれほど近い位置にいるのも――

「俺とふたりきりになって、ここまで冷静でいられた女性って珍しいよ」

 健吾ののう褐色かっしょくの目が、里美をじっと見つめてくる。

「え? あ……そうですか?」
「ふっ、そうですか? って――。ほんと、君って面白いな」

 健吾の顔が、そのままじわじわと近づいてくる。里美は、大きく目を見開いて、迫ってくる彼の顔を見つめた。見つめ合ううち、互いの顔が少しずつ左へと傾いていく。

(あれ……、あれあれっ……?)

 里美のほうは、わざとそうしているわけではない。なんというか、健吾の気迫に押されたというか、ついつられて彼と同じ動きをしてしまっているのだ。鼻先の間は、距離にしておよそ十センチ。
 さすがに近すぎる――! そう思った次の瞬間、健吾の顔がすっと離れた。

「これ、渡しておく」

 健吾は、里美に小さなメモ用紙を差し出した。受け取ったふたつ折りの紙を開けると、そこには十一桁の番号が書いてあった。

「それ、俺のプライベートな連絡先だ。今度また、どこかの自動ドアがどうしても開かなくて困ったら、俺に連絡するといい。自動ドアに限らず、なにか困ったことがあったら遠慮なく電話してくれていいから」
「はい――?」
「俺が、もしものときの君の『オタスケレンジャー』になるってことだよ。知らない? 『オタスケレンジャー』――俺が子供のころに流行はやったアニメのヒーローだよ」
「あ、知ってます。それ! 私も大好きでしたよ!」
「そうか。じゃあ話は早いな。電話してくれれば『必ず君をオタスケレンジャー!』するよ」

 健吾は、アニメヒーローそのままの台詞せりふを言い、同時に決めのポーズまで真似まねて見せた。そして、呆気にとられている里美ににんまりと笑って見せる。

「これで、丸山さんの女剣士ごっこを見たの、帳消しにしてもらえる?」
「は? あぁ、はい。わかりました」

 里美は、くりかえし頷きながら、込み上げる笑いを抑えた。イケメン社長がいきなりなにをするのかと思えば、盗み見たことへのつぐないだったらしい。

「よかった。じゃ、そういうことでよろしく。あと、コーヒーごちそうさま」

 健吾は、里美に向かって軽く片目をつむり、席へと戻っていく。

「いえ。では、失礼します――」

 里美は、社長室をでて自分のデスクに戻った。社内巡回に行く前に、手のなかのメモ用紙を見つめる。

(素直にいただいちゃったけど……。自動ドアが開かないくらいで、社長を呼んだりできないよ)

 正直、これを渡される意味がわからない。

(冗談かな? でも、これって……)

 見ると、書かれている番号は、緊急用として会社に登録されている社長の電話番号ではない。だとしたら、本当にプライベートな番号なのだろう。だけど、そもそもなんで総務部の一社員に? 興味をひかれたのは、わかった。でも、それだけでここまでするだろうか。
 里美の頭のなかに、たった今終えたばかりの健吾とのやり取りがよみがえる。健吾は、想像以上に親しみやすかった。話しながら、うっかり「可愛い」なんて思ったのも事実だ。
 だけど、彼は「ブラン・ヴェリテ」の社長であり、里美からしたら雲の上の存在だ。どう考えても、自分がこの先、この番号に電話をかけることなどないだろう。
 里美はメモを手にしたまま、すっかり困り果ててしまった。

「うーん……、せっかくいただいたんだもんね」

 社長直々に渡された番号を、そのまま捨て置くこともできない。里美は、スマートフォンを取りだし、書かれた番号を「仕事関係」のフォルダーに登録した。


 午後になり、里美はひとり地下倉庫に向かった。
「ブラン・ヴェリテ」は、二年後に創業五十周年を迎える。そして、先月行われた役員会議で、社史を発行することが決まった。担当部署は総務部であり、来期から本格的な作業に取りかかることが決まっている。社史編纂へんさんを依頼する業者はまだ未定だが、必要なデータや資料は、事前に準備しておいたほうがいい。データ化されたものはすぐに出せても、問題はそれ以外のアナログな資料だ。
 何度かあった大がかりな引っ越しにともない、行方不明になっているものも多い。それを倉庫から捜しだし、取りまとめておくのが、里美の仕事のひとつに加わったのだった。
 およそ六十平米へいべいの広さがある倉庫は、壁の全面にびっしりと資料が保管されている。
 里美は、普段から割と頻繁ひんぱんに倉庫を訪れていた。買い置きの事務用品や備品のたぐいは、すべてここに保管されているからだ。
 倉庫内のものは、一応すべて段ボールに収納されている。側面にラベルが貼ってあり、中身もわかるようになっている。しかしながら、長い年月を経る間に、中身が替わっていたり、あるべきものがなくなっている場合だってあるのだ。
 今日里美が捜しに来たのは、創立当初から作られている社内報だ。

「さて、取りかかるか~」

 捜し始めてすぐに、比較的新しい年代のものがでてきた。

「……一九九五年からのものは、これでよし、と……」

 だけど、古いものがどうしても見当たらない。引き出した箱を点検して、位置を正しながらひたすら捜し続けた。ふと時計を見ると、もうじき終業時間であることに気づく。

「うわー、もうこんな時間! さすがに腰が痛くなっちゃったし、今日はこれで終わりにしようかな」

 そう思い、ぐっと背伸びをした拍子に、ポケットに入れていたペンライトが床に落ちてしまった。

「あ――」

 ころころと転がっていくライトを追いかけるうち、ラックの下段奥に見覚えのあるつづらを見つけた。

「あれ? これって……」

 しゃがみ込んで引っ張り出してみると、朝方社長室で見たつづらと、サイズ違いのものらしかった。

「わぁ、なんだか重みがあるつづらだなぁ。これって、うるし塗りかな? さすが、会長のおもちゃ箱……じゃなくて、私物入れに使うものって感じ」

 見ると、つづらの側面に「社内報在中」と書かれた紙が貼られている。なかを確認してみると、創立時から、一九九四年までのものが、きちんと整理された並びで入っていた。

「よかった。こんなところにあったんだ。もう、捜しちゃったよ――」

 一番上にあったものを手に取り、ページを開く。それは、今から二十八年前のもので、当時社長職に就いていた幸太郎のインタビュー記事が掲載されている。ページの真んなかに載せられているのは、若かりしころの幸太郎の写真だ。

「会長、若っ!」

 それに、いかつい面持おももちの現在に比べて、ずいぶんと柔らかな表情をしている。そして、それよりももっと驚いたのは、彼の膝の上に座っている小さな男の子の姿だ。

「これ、社長だよね?」

 その子供は、小さいながらも整った顔立ちをしており、いかにも利発そうにシャンと背筋を伸ばし笑っている。

「うわぁ、社長ったら、すっごく可愛い……」

 思わず目を丸くして見入る。インタビューはシリーズ化されており、その次の号では、健吾の父、正一を含む親子三代が、自宅の玄関前に勢ぞろいしていた。
 記事には、会社設立に至るまでの経緯なども書いてあり、里美はいつの間にかそれを読むことにすっかり没頭していた。

「あ、社長、ここにもいた」

 広げたページに、外国人スタッフに囲まれてにっこりと笑っている健吾を見つけた。彼の横には、両親が写っている。健吾は、父の正一がロンドン支社長を務めていた五歳から九歳までの間、ずっとイギリスで暮らしていた。そのため、健吾が話す英語はとても流暢りゅうちょうで、ネイティブと変わらないくらいだ。

「あ、さすがにもう帰らないと――」

 我に返り、周囲をざっと片付ける。
 入り口に向かおうと歩きだしたところで、ペンライトを落としたままであることを思い出した。

「いっけない。忘れるところだった」

 少し先に落ちているペンライトを拾おうと屈みこみ、それを拾い上げた瞬間、突然目の前が真っ暗になった。

「えっ……?」

 伸ばした指先どころか、一ミリ先も見えない。あわてて目をまたたかせてみるけれど、見えるのは墨色すみいろの闇ばかりだ。

「もしかして、また……?」

 きっと、いつものようにいないと思って電源を落とされたのだろう。一日ばたついていたし、デスクの上も片付けてきたから、もう退社したと思われても無理はなかった。
 いつものこと。だけど、ここは倉庫だ。窓なんかないし、当然外からの光は一切入ってこない。
 さすがに一ミリ先も見えない状態では、気持ちが焦ってくる。急いでペンライトをともし、目の前の一メートルほどの範囲を明るくした。ほっと安堵のため息をついて、明かりを頼りにそろそろと入り口に向かって歩きだす。ようやくドアの前にたどり着き、ドアノブを回し、前にぐっと押しながらドアを開けて――

「あ、あれっ? ――開かない……」

 ライトに照らされたノブが、がちゃがちゃと音を立てる。だけど、いくら押してもドアはびくともしない。

「鍵、かかっちゃってる? ……あ!」


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