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出会いのようなもの
魔王、なんとなく気づく。
しおりを挟む「なんてこと……! 締め切りが……締め切りが、あと3週間後だっていうのに!」
アンは動揺し、腰に回された男の抱擁を振り切って、無残にも真っ黒になった紙の束に向かって駆けつけようとした。
が、動けなかった。
男の手はがっしりとアンの臀部をつかんでいて、アンの叫びに臆する気配も見せない。アンの焦りは一気に膨らんでいった。
たしかに口づけは素晴らしかった。たしかにこの男は絶世の美形だ……しかも、アンが思い描いていたエドワードそのものの……いや、もしかしたら、それ以上の。
でも。
でも、アンは小説家なのだ。
原稿は生きる糧。そこに綴った文字は自分の血肉に等しい。締め切りは死神が鎌を構えて作家の首を切ろうとしている日なのだ。この無慈悲な断罪から逃れる方法はただひとつ、完成原稿を提出することだけ……。
「離してくださいっ! いいえ、離しなさい! ここはわたしの家で、あなたを煙突から招待した覚えはありません!」
アンは男の胸をポコポコと叩いた。
男の服装は嫌味なほど黒く、クラヴェットからシャツ、ベストにいたるまで、すべてが漆黒だった。フロックコートは身につけていないから、ベスト越しに男の肉体をありありと感じた。
固かった。
すごく。
でも、アンを不安にさせたのはそれだけじゃない。いくらアンが逆上していても、どんなに叩かれても、眉ひとつ動かさない男の不可思議な態度だった。
この男はおかしい……。
もちろん、煙突から落ちてくる時点で怪しいのは当然だが、それだけではない危険なオーラを、この男は強くまとっていた。
「ひ、ひとを呼びますよ……。うちの執事はフェンシングと剣術の達人なのよ」
達人だったのは50年くらい前の話だが、嘘ではない。
アンの家の執事はその昔、そういったものをたしなんでいた。らしい。今はもうヨボヨボだけど。
男はあいかわらず顔色ひとつ変えなかった。
「悪くない口づけだった、女。特に口の中がいい……唾液にフェロモンを感じる……腰をくねらせる動きも気に入った。まるでよがっているようで、な」
「よが……、フェロ……?」
「『まるで』ではなく、本当によがっていたのかな、淫乱めが」
アンは小説家だった。それも、男女の官能描写を多く用いる、過激さで有名なロマンス作家だ。
だから、言われている言葉の意味はだいたい理解できた。
実生活で使われるのを聞いたのは、生まれてはじめてだったけれど。
アンの知的好奇心は激しく刺激された。
「……フェロモンを感じる、とは、だいたいどんな要領なのかしら? 舌に味を感じたりするの? それとも熱いとか、頭がクラクラする、とか?」
男は、ほんの少しではあるが片方の眉を釣り上げた。
この人物から得られた、はじめての反応らしい反応かもしれない。なんとなく勝利に近い優越感を感じたのを、アンは否定できなかった。
そんな場合じゃないのに。
「ほう」
男は答えた。まぁ、そんな感じの、どちらかというと答えに近い声を出した。
アンは続けた。
「唾液に感じたということは、味があるものだと思っていいのかしら? もっと嗅覚に訴えるものかと思っていたんです。そんなことを書いてしまったことがあるわ……でも、批判はもらわなかったから、それでいいのかと」
「ふん」
「『よがる』というのも、素敵な表現ですわ。ありきたりじゃなくて新鮮だけど、軽い感じのしない言い方……わたし、こういう場面が、いつも同じような文章になってしまって」
「…………」
「使えそうですわ。使っていいかしら? いいですよね? 別にあなたが特許を持っている言葉というわけではないでしょう?」
「お前はわたしが恐ろしくないと見える。よほどの阿呆か、視力に問題があるのか、よっぽど死を望んでいるのか……どれだろうな」
「まあ」
今度はアンが短い返事をする番だった。
恐ろしい?
たしかにこの男は、恐ろしいくらいの美形ではある。恐ろしいくらい胸の筋肉が固いし、恐ろしいくらい低い声を持ち、恐ろしいくらいひとの言葉を聞いていない男だ。
でも、阿呆だとか、弱視だとか、自殺願望があるとか、そんな言われようをしなければいけないほど、恐れるのが当然の相手かと言われたら……。
「どれでもないと思いますけど……」
きょとんとしながらアンがつぶやくと、黒づくめの男は急に……やっと……顔色を変えた。
「なんだと」
「たしかにわたしは視力が良くありません。このメガネをご覧になればわかるでしょう。でも、このメガネはロンドン随一の高級店で個人的に作っていただいた逸品なんです。ちゃんと見えますわ」
「…………」
「自殺願望もありません。たしかにわたしはオールドミスですけど、こうして小さいながらもお屋敷を持ち、執事と料理人を雇い、れっきとした仕事についていますわ。結婚できなかったからといって、人生に絶望しているわけではないんです」
「…………」
「わたしの知性については……」
「もういい」
「え?」
「もういい。喋るな。くそ、頭痛がする。これが頭痛というものなのか? まるで人間のような……」
あれほどしっかりと掴んでいたアンの尻を、男はあっさりと放して、しっとりとした豊かな黒髪を両手でかき上げた。
わお。
間近で見るこの仕草、色っぽいわ。
じゃ、なくて。
「『まるで人間のような』? あなたはどう見ても人間ですわよ」
と、アンが告げた瞬間だった。
男は空気をつんざく咆哮のような叫びを上げた。
その声は屋敷を震わせるほどのものだったが、耳の遠い執事には聞こえず、1マイル先の隣人には届かず、アンだけがその証人となったのだった。
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