2 / 11
出会いのようなもの
魔王、腹をみたす。
しおりを挟む遠く東インドから輸入されたというそのお茶は、メノウのような濃い赤茶色の輝きを放ちながら、白地に青で絵づけの施されたティーカップの中で揺れていた。
「それはつまり……」
カチャンと音を立て、カップがひとつ、アンの前に置かれる。
「あなたは……魔界の王、つまり……魔王であったと、そうおっしゃるのですね?」
ガチャンと音を立てて、もうひとつのカップが男の前に置かれた。トレイを持った執事・サットンの瞳が、老眼鏡越しにきらりと光るのをアンは横目に確認した。
屋敷の居間には、現在、この奇妙な珍客を迎えて落ち着かない雰囲気に包まれていた。
煙突から落ちてきた黒づくめの男は、狂気じみた叫びを上げたあと、アンの寝室兼仕事部屋にある全身鏡に駆け寄り、おのれの姿を見ると……二度目の絶叫を響かせた。
いわく、これは彼の本来の姿ではない、と。
いわく、彼の頭には二本の角が生えていたはずで。
いわく、彼の肌は黒光りする竜の鱗のようなものに覆われていたはずで。
いわく、彼の瞳は黄金色で、赤や青に変色することもできたはずで。
いわく……すべては覚えきれなかったが、とにかくもっと仰々しい、恐ろしいものであって、こんな普通の人間の姿ではなかったのだ、と。
彼の外見を『普通の人間』にカテゴライズしていいのかどうかについては、議論の余地があると、アンは考えている。
しかし、男にとっての要点はそこではないらしい。
「いかにも。すべての悪魔がわたしの前にひれ伏し、わたしを崇め、恐れたものだ。わたしには巨大な宮殿があり、千を超えるしもべがわたしのために日夜働いていた」
こんなセリフをさらっと言っても、この男にはなぜか違和感がない。常識離れした美貌のせいだろうか。
アンはとりあえず紅茶をひと口すすり、気分を落ち着かせることに努めた。
「でも、あなたはさっき突然煙突から落ちてきて、さえないオールドミスの屋敷で紅茶を飲んでいます。給仕するのはわたしの執事だけで……」
「まったく遺憾なことだ」
「そこは否定していただきたいところですわ。いいですか、サットンはなにも聞こえないふりをしていますけど、実はとても敏感なんです。嫌いな客の紅茶に下剤を入れるクセもありますから、口には気をつけたほうがいいですわよ」
男はわずかに唇の端を上げて、微笑みに似た表情を作った。
「悪くない下僕を持っているな。素質がある」
「あ、悪魔の素質ですか?」
「他になにがある」
「…………」
この男とあまり長く会話をしていると、常識というものを忘れてしまいそうだ。話題を帰ることにして、アンはごほんと嘘の咳払いをした。
「お名前をうかがってもいいかしら、ミスター・デビル?」
「わたしは魔王である。名などない」
アンはほんの少し、自分も他の淑女のようにコロッと気絶してしまえれば楽なのに、と思った。しかしそれはアンの性分ではない。
アンは……。
「では、さっさと、その魔界とやらにお帰りになったらいかがですか? 千のしもべにかしずかれて、名無しのままでいればいいんだわ!」
いつもひと言多いと、社交界ではひんしゅくを買ったものだ。
しかし、こうして田舎に引っ込み、女だてらに屋敷を切り盛りし、小説家という職業を持った今は、それに助けられていた。アンの鋭い切り口は彼女の小説の売りでもあったし、ひとりで生きていくための処世術でさえあった。
まさか魔王に口答えすることになるとは、アン本人でさえ思ってもみなかったけれど。
「できない」
魔王は答えた。
「なぜです?」
アンは唇をとがらせた。
「第一に、別に戻りたいとは思わない。第二に、わたしを王座から蹴り落とそうとした阿呆がいるのだ。戻って、奴の首を落としてやることもできないことはない……しかし……」
「しかし……?」
「面倒くさい」
「は?」
「面倒くさい。どこにいようとわたしはわたしだ。わざわざそんな面倒なことをする必要もあるまい。ここも悪くなさそうだ」
「『ここ』? で、でも……でも……」
アンはどうにかしてこの男を追い立てる方法を考えた。「ここに千のしもべはおりませんわよ。いるのはサットンと、病気がちな料理人だけです。贅沢な暮らしがしたいでしょう?」
「お前がいるではないか」
「は?」
「耳が悪いのか? お前がいるではないか」
「なんですって?」
そこに、いったんさがっていたサットンが、軽食の乗った純銀のトレイを持って居間に現れた。いささか焦げついたトーストと、卵料理、そして肉の詰め物がポーセリンの皿に盛りつけられている。いい香りがした。
「失礼ですが、わたしは、あなたの世話をするつもりはありませんわよ。それどころか、あなたを我が家に招待した覚えもないんです。あなたが勝手に煙突から落ちてきただけで……」
「おい、この匂いはなんだ」
「ちょっと、あなた、お聞きになっています?」
「この匂いを嗅いでいると、妙な気分になる……。腹のあたりが締まるような……なんだこの感覚は……」
魔王は首を伸ばしてサットンの持つトレイを覗き込んでいた。
その美しい顔が、恍惚と欲望をのぞかせている。人がこんな表情をする理由に思い当たるのに、洞察深い小説家である必要はなかった。
呆れて、アンはぐるりと目を回した。
「お腹が空いていらっしゃるだけでしょう。悪魔というのはトーストを食べない生き物なのかしら? そもそも、魔界ではなにを召し上がっていたんです?」
アンが言い終わるか終わらないかといううちに、魔王は応接椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、サットンの前にぐんぐんと進んだ。
年老いた執事の前に立ちはだかると、魔王はなんの挨拶も断りもせずに、皿ごと持ち上げてそこに乗っている料理をすべて口の中に流し込んだ。数回咀嚼しただけで、あっさりと全部を飲み下す。
二枚目の皿……つまりアンの分……も同じ運命を辿った。
あんぐりとその光景を見守っていたアンとサットンに向かって、魔王は口を手の甲でぬぐいながら命令した。
「もっと持ってくるのだ。今すぐ」
アンはカッと苛立ちに燃えた。
「あなたは本当にひとの話を聞いていないのですね! わたしたちはあなたのしもべではないのですよ! ま、魔王だろうとなんだろうと、招かれざる客に過ぎないんです! いったい自分を何者だと思っていらっしゃるんです!?」
「わたしは魔王だ」
「だった、のでしょう。もしあなたの言っていることが本当なら、あなたはすでに追放された身で、姿形さえも変わってしまったそうじゃないですか」
「おい、今と同じものを持ってこいと言っている。聞こえなかったのか」
ひゅっと短く息を吸ったアンは、怒りのあまり甲高い叫びをあげてしまうのをなんとか我慢した。もし目の前のこの男の見栄えが違って、これほど魅力に溢れていなければ……。
でも、実際は……。
ああ、もう!
「……サットン、こちらのミスター・デビルにもう少しトーストを出して差し上げてくれる?」
アンは敗北を認めた。
サットンはなにも答えずにくるりと向きを変えると、トレイを持った同じ姿勢のまま、居間から出ていった。
なにを言われたわけではないが、経験からして、サットンはしばらく戻ってこないだろう。
アンは深いため息をつかずにはいられなかった。
なんてこと!
いきなり煙突から落ちてきた男は、そこに存在するだけでこの世の女性をすべて虜にしてしまうような美形で、黒づくめで、ひとの話をいっさい聞かず、腹を空かせていて、勝手にアンを彼の下僕だと思いはじめている。
ああ、彼が元・魔王であるらしいということも、忘れてはいけない。
「……仕方ありませんわね」
実際的で、現実主義なのはアンの長所だった。
アンはいつだって目の前の問題にまっすぐ取り組んだし、涙を流して悲劇のヒロインを気取っても時間の無駄だと、人生の早い段階ですでに気がついていた。
だから、腹を空かせた元・魔王に不当な扱いを受けても、泣くような真似はしなかった。本当のことを言えば、ちょっと泣きたかったけれど。
「まずは、お風呂に入ってはいかがですか? 家中を灰だらけにされたらかなわないわ」
3
あなたにおすすめの小説
彼の巨大な体に覆われ、満たされ、貪られた——一晩中
桜井ベアトリクス
恋愛
妹を救出するため、一ヶ月かけて死の山脈を越え、影の沼地を泳ぎ、マンティコアとポーカー勝負までした私、ローズ。
やっと辿り着いた先で見たのは——フェイ王の膝の上で甘える妹の姿。
「助けなんていらないわよ?」
は?
しかも運命の光が私と巨漢戦士マキシマスの間で光って、「お前は俺のものだ」宣言。
「片手だけなら……」そう妥協したのに、ワイン一杯で理性が飛んだ。
彼の心臓の音を聞いた瞬間、私から飛びついて、その夜、彼のベッドで戦士のものになった。
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
【恋愛】目覚めたら何故か騎士団長の腕の中でした。まさかの異世界トリップのようです?
梅花
恋愛
日下美南(くさかみなみ)はある日、ひょんなことから異世界へとトリップしてしまう。
そして降り立ったのは異世界だったが、まさかの騎士団長ベルゴッドの腕の中。
何で!?
しかも、何を思ったのか盛大な勘違いをされてしまって、ベルゴッドに囲われ花嫁に?
堅物騎士団長と恋愛経験皆無の喪女のラブロマンス?
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です!
https://estar.jp/novels/26513389
天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎
ギルドで働くおっとり回復役リィナは、
自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。
……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!?
「転ばないで」
「可愛いって言うのは僕の役目」
「固定回復役だから。僕の」
優しいのに過保護。
仲間のはずなのに距離が近い。
しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。
鈍感で頑張り屋なリィナと、
策を捨てるほど恋に負けていくカイの、
コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕!
「遅いままでいい――置いていかないから。」
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました
大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――
女性が少ない世界に転生した控えめ伯爵令嬢、なぜか五人の婚約候補に選ばれて少しずつ恋を知っていきます
ノッポ
恋愛
女性が極端に少ない異世界に転生した私は、気づけば伯爵令嬢になっていた。
前世は日本で普通に生きていたせいか、貴族令嬢らしい強気な振る舞いがどうしても苦手。
社交界デビューを迎えても、「どうして私が選ばれるの?」と戸惑うばかりだった。
けれど今年デビューする高位令嬢はわずか三人。
家同士の思惑も重なり、騎士団長家の息子、宰相子息、魔術師団長の息子、幼なじみの侯爵子息、そして英雄騎士――
五人の若きエリートとのお見合いが次々と始まってしまう。
遠慮がちで控えめな性格は、この世界では珍しく、気づけば少しずつ距離を縮めていく彼ら。
異世界での恋愛に戸惑う日々。けれど出会いを重ねるたびに、私は少しずつ変わっていく――。
女性希少世界の社交界で、自分の幸せを選べるようになるまでの
ほのぼの甘い逆ハーレム恋愛ファンタジー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる