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新生活のようなもの
魔王、眼鏡に触れる。
しおりを挟むとりあえず明日まで時間はある……と思いなおし、アンはなるべく平常心を保つことを心がけつつ、原稿の見直しに入った。
魔王はといえば、マリアが運んできたトースト10枚の山を黙々と食している。普通の殿方がこんなふうにフォークもナイフも使わずに手掴みで食事をしていたら、あまり上品には見えなかっただろう。
でも魔王は違う。
彼の長い指がトーストを掴む仕草……。
肉厚な唇が開いて、なにかを咥え込む瞬間……。
咀嚼するたびに動く形のいい顎と、飲み込むときに上下する男らしい喉仏……。
すべてが官能的だった。アンは原稿を読むつもりが、結局、原稿で顔を隠しつつ魔王の一挙手一投足を盗み見るだけになっている。
文字に集中できなかった。
今、鏡を見ることができたら、きっと盛りのついた雌犬みたいにみっともない顔をしていることだろう。でもだからといって目を逸らすことができない……魔王のひとならざる魅惑だ。悔しいかな、アンはその引力に逆らえずに、ずるずるとこの人物を居候させている。
「ところで」
魔王は10枚目のトーストを咀嚼し終えたところで、アンに向き直った。
当然目が合ったが、魔王は盗み見されていたことを百も承知で……むしろそれを誇っているような笑みを浮かべる。
多分、この男性は羞恥心というものを持っていないのだ。
「そろそろ次の快楽を得る決心はできたか、アン」
アンは「ぶほっ」と空気を吹き出し、ふたたびインクを原稿にぶちまけてしまうところだった。
「な、な、な……」
「わたしは確かに、お前が心の準備とやらをするまで待とうと言った」
「そうですわね。では、もう少し待って……」
「しかし、お前を見ていると待っているのが嫌になる。どうだ、そこに寝台がある。さっさと服を脱いで、わたしの与える快楽を受け入れるのだ」
「ミスター・デビル!」
アンは我が身を守ように胸の前でしっかりと原稿を抱きしめた。
──確かに、ジゴロになることを承諾したあと、魔王は次の……不埒な行為は、アンの心の準備ができてから……彼女から求めてきたら……と約束してくれた。
意外と紳士だと思い、ちょっと魔王を見直したものだった。実際、あれから彼は毎日アンの屋敷でグータラするばかりで、性的な意味でアンにちょっかいを出してくることはなかった。
そこに、である。
「お前の身体は最高に美しい。わかっているな?」
「そんなはずは──」
「顔もいい。特に目が気に入った。わざわざ眼鏡でそれを隠しているのがまた好きだ」
魔王は立ち上がってアンに近づいてきた。
豹のような動きだ。
(実際の豹を見たわけではないけれど、そういう表現を本で読んだことがある)
あれだけ毎日トーストを食べて、ひたすら猫のように寝そべっていて、一体どうやってこの信じられないほど精悍でたくましい肉体を維持しているんだろう?
一瞬、アンは思わず……自らドレスを脱いで、魔王の言うがままになりたくなる。一瞬だけど!
「ミスター……」
「見せろ」
魔王の指先がアンの眼鏡のつるを摘んで、そっと外す。
「いい色だ。鳶色だな」
鳶色といえば聞こえはいいかもしれないが、アンの瞳は平凡であまり味気のない茶色だ。魔王のような印象的な灰色の瞳の持ち主に言われると、嬉しいような、恥ずかしいような……。
「め……眼鏡が好きだなんて……変わっているのね」
アンは震える声でつぶやいた。
「ふん?」
「たいていの殿方は……い……嫌がるわ……」
「なるほど」
魔王はまるでアンの肌の匂いを嗅ぐような仕草で、あちこちに顔を近づける。ドキドキと胸が高鳴り、緊張した。でもなぜか嫌だとは思えなかった。
多分、思うべきだったのに。
「こんな小道具を顔に乗せているかいないかで、女を判断する必要はあるまい。する奴は馬鹿だ」
魔王はアンの眼鏡のつるを畳み、それをアンのドレスの胸元……もっと言えば胸の谷間に押し込んだ。
「な……っ、なにを……っ」
「愚かなことだ。いくらでも楽しみようがあるだろうに」
その言葉通り楽しそうにツンツンとつつき、魔王はアンの眼鏡を胸の谷間にうずめていく。レンズのグラスの冷たさと、フレームの銀の硬さにアンは飛びのきそうになった。
魔王の手から眼鏡を奪うこともできたが、この眼鏡はちょっとした高級品であり、おまけに壊れやすい。下手に抵抗できなくて、アンの額にじわりと脂汗がわいた。
「やめ……やめて…………」
原稿の束はすでに盾の役割を果たさず、手落としてしまわないのが精一杯だった。
「お前がそう言うなら」
魔王は微笑み、畳まれた眼鏡をすっと胸元から引き抜く。そして、アンの乳房で温まった眼鏡のフレームに、チュッと音のする短い口づけをした。
「ほら」
眼鏡を開き直すと、魔王はそれをアンの顔に戻した。
ぼやけていた視界はまた正常に戻ったが、バクバクという動悸は一向におさまらない。
「明日が楽しみだな」
魔王は出し抜けに言って、意外にもそれ以上アンに手を出さず、ひとり寝台に身体を投げ出して寝そべった。この寝台はアンのもの……アンだけのものだが、いくらそれを言ってもこの元魔界の王には通じない。
「明日?」
「お前の編集者だ。ビーとかいう」
「ミスター・ビングリーですわ」
「わたしが奴に示してやろう。お前がどれだけ魅力的になれるか」
「わっ、わたしがミスター・ビングリーに示すべき魅力は、この原稿の素晴らしさだけです! なんの話をしているの!」
「まあ、楽しみにしていろ」
魔王はくつくつとひとり笑っていた。アンはすでにミスター・ビングリーに同情していた。
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