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新生活のようなもの
魔王、登場する。
しおりを挟む次の日。
うららかな春の日差しを浴びながら、アン・グレイスウッドは本日の来客を迎えるべく、玄関前の花を手入れしていた。
玄関の両サイドにある赤煉瓦の花壇には、大きな春薔薇が咲いていて目を惹く。花ばかりではなく緑の茂みを多用したアンの庭園は、小さいながらも生命力に溢れていて、そこを世話していると生気を養うことができた。
……決して庭師を雇う余裕がない言い訳なんかではない。
決して。
「……ふう。雑草も抜いたし、剪定もしたし、これでなかなか見られる感じになったわね」
麦わら帽子のつばを持ち上げ、額に滴る汗を手の甲でぬぐう。
アンの編集者であるミスター・ビングリーは早ければ昼には到着する予定だ。応接間にはすでに提出する原稿の束が鎮座し、最終的に900ページに及んだ涙の超大作が彼に読まれるのを待っている。
アンはごくりと覚悟の唾を飲み下した。
ミスター・ビングリーは敏腕の出版編集者で、駆け出しだったアンの才能を見抜いて処女作を世に出してくれたひとだ。
玉石混交、魑魅魍魎の跋扈する海千山千の出版業界にありながら、アンがこうして田舎でのんびり原稿を書き続けていられるのは、このミスター・ビングリーが王都ですべての汚れ仕事を引き受けてくれているからだ。
でも、それだけに……。
「ミスター・デビルとミスター・ビングリーが反目しないでくれるといいのだけれど……。どちらも気が強いひとだから」
アンはつぶやいてみる。誰が聞いているわけでもないけれど、もしかしたら神様の耳に届くかもしれない。
まあ、少なくとも一方は魔王を自称する男なので、どこまで神頼みが通用するかは不明だけれど。
* * * *
「アンお嬢さま……ミスター……ビングリー……」
執事サットンがヨロヨロと近づいてきて、アンにそう告げた。
アンは緊張のあまり、居間の中を壁から壁へ行ったり来たりしているところだった。
書き上げたばかりの原稿をはじめてひとに見せる瞬間の緊張感というのは、いくら巷で人気作家と言われるようになっても、変わらない。変わらないどころかどんどん大きくなっていく。
「わかったわ。お通しして」
アンの指示に、サットンは返事もせず玄関に戻った。
その足取りは頼りなく、この老執事にはそろそろ杖か歩行器が必要かもしれないと思わせた。さらなる出費! アンはなんとしてもこの原稿を世に出さなくてはならない。
ミスター・ビングリーはほどなくしてアンの居間に現れた。
漆黒のシルクトップ・ハットがまず目につく。敏腕編集者ミスター・アーネスト・ビングリーは格式を愛する男だ。こんな田舎の、いち小説家のコテージに現れるためにも、黒色のフロックコートを忘れない。
「ごきげんよう、アン。今日の君は──」
ミスター・ビングリーは帽子を脱いで胸に当てると、彼が一番色男に見える(と彼は思っているらしい)口の端を上げた微笑を浮かべた。
「──綺麗だ。どこか雰囲気が変わった気がするのは、僕だけかな?」
アンは頬をピンクに染めたり……は、しなかった。
「ごきげんよう、ミスター・ビングリー。ようこそおいでくださいましたわ。きっと壁紙を変えたせいで肌が明るく見えるだけでしょう」
「相変わらず素っ気ない。しかしそこが面白い」
「事実を申したまでです。ここまでの旅はいかがでしたか?」
「君に会うためなら、あの汚らしい田舎道も我慢できるというもの」
「わたしと……わたしの原稿に会うために、でしょう」
「いかにも」
数ヶ月ぶりに会うミスター・ビングリーを、アンはサッと観察した。
彼は……決して絶世の美男子ではない。ミスター・デビルのような規格外を日常的に目にするようになってしまったせいか、ごく平凡な見てくれに感じられる。
でも世間では、ミスター・ビングリーは好感の持てるハンサムとして通っていた。
それなりに長身だし、無駄な贅肉などもなく、青い瞳は魅力的だ。
アンは……ちょっとだけ、本当にちょっとだけだけれど、彼に憧れを感じたことがあった。大昔。それもすぐ萎んでしまったけれど。
「さあ、お座りになって。お茶をお出ししますわ。読んでいただきたい原稿はこちらにあります……手紙でお伝えしたとおり900ページになりますので、早く目を通していただかないと」
「そうさせてもらおうか」
ミスター・ビングリーは我が物顔で居間の椅子に腰を下ろした。
もしかしたら、普通なら、ちょっと鼻につくくらい尊大な立ち居振る舞いだったかもしれない。ただ最近のアンは魔王を名乗る男の傍若無人に慣れつつあるので、あまり気にならなかった。
──尊大な男をジゴロにする利点もあるのだ。
大抵のものは許容できるようになる。
「ふむ……」
ミスター・ビングリーは出されたお茶を啜りながら、アンの原稿をたぐり寄せて1ページ目を読みはじめた。
「なるほど……ふむ……」
「…………」
アンはといえば、緊張に背をまっすぐにして立ったままだ。
この原稿に自信はあるものの、これは挑戦作でもある。少々過激な内容を含むし、キャラクターの造形も際立っている。素晴らしいと絶賛されるか、ありえない失敗作だと批判されるか……どちらかだろう。
ふむ、とか、うーん、などと時々うなりながら原稿に目を通すこと半時間ほど。
アンが不安げに居間をうろついているとき、ミスター・ビングリーはゆっくり顔を上げた。
「ミス・アン・グレイスウッド。この作品は……たしかに素晴らしい。ただひとつ腑に落ちない点がある」
ミスター・ビングリーの口調はごくごくビジネスライクだった。
それが悔しいところだ。アンにとっては心も魂も自らのすべてをさらけ出す行為であるにもかかわらず、編集者にとってはただの仕事……。
「はい?」
「このエドワードという男のキャラクターだ」
「か……彼がなにか?」
ミスター・ビングリーは人差し指で原稿をトントンと叩いた。「完璧すぎる」
「まあ」
「美形の若き侯爵。漆黒の長い髪、見上げるほどの長身にたくましい身体、灰色の瞳。他の描写はなんだったか……。完璧という言葉がなによりも似合いそうな高い鼻、官能を思わせる豊かな唇……? いくらヒーローとはいえ、もう少し人間味が必要だ。こんな人間がこの世にいるわけがないのだから」
「それは……」
それは数週間前に煙突から落ちてきて、ここに居候している男性を参考にして書き直した部分です、実際にいるんですよ……と言いそうになって、アンはグッと口をつぐんだ。
できれば、ミスター・ビングリーにミスター・デビルを会わせたくない。
もっと正確には、ミスター・デビルをミスター・ビングリーに会わせたくない。
幸いにも時刻はまだ午前で、ミスター・デビルはまだ二階の寝室でジゴロの端くれらしく惰眠をむさぼっている。はずだ。多分。
「確かにエドワードのような男性はなかなかいらっしゃらないでしょうけれど……」
「外見だけでなく、性格も浮世離れしすぎている。ここまで傲慢で自信家で冷徹な男が現実にいるはずがない」
「でも、これは小説ですのよ。それも官能小説。現実ではありえない冒険を楽しむためのものです」
「多少の盛りは悪くないが、あくまで共感できる人物像でないと」
「それについては……」
口ごもるアンを見て、ミスター・ビングリーはわずかに歪んだ微笑を浮かべた。もしかしたらこの編集者は、こうして作家を追い詰めるのを楽しんでいるのではないかと思えることが、時々ある。
「男っ気のない屋敷に引き篭もっているせいで、少し現実離れしてしまったのではないかな、ミス・グレイスウッド。まあ、君のようなオールド・ミスが孤独に苛まれて妄想を激しくするのは、致し方ないが──」
その時だった。まさに狙ったように、その瞬間だった。居間の入り口に、音もなくひとりの男の影が現れた。
漆黒の長い髪。
見上げるほどの長身にたくましい身体。
灰色の瞳。
完璧という言葉がなによりも似合いそうな……すべてのパーツ。
「お前がビングリーか」
エドワードそのものの傲慢さと冷徹さで、魔王を自称する男はのたまった。魔王ことミスター・デビルは優雅な足取りでアンの隣に来ると、彼女の腰をグッと引き寄せた。
「その原稿に文句があるなら、アンではなく俺に言ったらどうだ。聞いてやらなくもない」
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