氷と花

泉野ジュール

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書斎にて "This is for your safety"

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 朝食を終えた後……いったん自室に戻って髪や服を整え、また一階に下りてきたマージュは、ネイサンの書斎の扉の前に立ちながら、緊張でめまいを起こしそうになっていた。
 書斎の扉は落ち着いたこげ茶のマホガニーで、真鍮の丸い取っ手が付いている。飾りの類はいっさいないのに、重厚な造りのその扉は、まさにネイサンの心の壁を体現しているような気がした。

 なんどか躊躇して手を引っ込めた後、マージュはごくりと唾を呑み、ついに勢いにまかせて扉を叩いた。
「入りなさい」
 まるで、この瞬間を待っていたかのように、ネイサンの低い声がすぐにマージュを呼んだ。もしコルセットを付けていたら、マージュは卒倒していたかもしれない。
 しかし、なんとか勇気を振りしぼったマージュは、ゆっくりと扉を開いた。

 東向きの大きな窓から降りそそぐ朝日を背に、ネイサン・ウェンストンは立っていた。
 彼の前には扉と同色のマホガニーの執務机があり、銀やクリスタルの上品な筆置き、手紙を開けるナイフレター・オープナー、インク瓶などがそろっている。マージュから見て右手の壁一面に本棚が立て付けられていて、上段の本を取るためのはしごがかけられていた。
 ただ、ネイサンの長身を持ってすれば、はしごは必要なさそうな気がしたけれど。

「遅れてしまって申し訳ありません。ミスター・ウェンストン」
「思ったよりも早いくらいだ、ミス・バイル。扉は閉めなくていい」
 後ろ手に扉を閉めようとしていたマージュを、ネイサンは止めた。反抗をする気はなかったが、不思議に思ってマージュは聞いた。
「なぜですか?」
 ネイサンは眉間にしわを寄せ、陰気な声で答えた。
「君の身の安全のためだ」
 うなじの毛が逆立ってしまうような、正体の分からない感情のこもった目で見つめられて、マージュは息を呑んだ。いつもこうだ。ネイサンの瞳はマージュを凍りつかせる。同じ屋敷に住み始めて四日目の朝を迎えた今も、マージュはネイサンの笑顔を見たことがない。

 なかば吸い込まれるように、マージュは書斎の中に足を踏み入れた。
 壁一面の本……。インクと紙の匂い。壁紙は濃い緑を基調に、細い金の線でバロック模様がほどこされた深みのある意匠だった。大きな窓から入る光と、落ち着いた室内の対比が不思議な安心感を与える。
 つい今しがた、聞き捨てならないことを言われた気がするのに、なぜか警戒する気分にはなれなかった。本の魔法だろうか。
「たくさん本がありますね」
 ずらりと並んだ革張りの背表紙を順番に眺めながら、マージュは夢見ごこちでささやいた。
「素敵だわ」
 ネイサンは本棚にはちらりとも目を向けなかった。
「なにか読みたければ、好きな時にここへ来るといい。女性が興味を持つようなものは少ないが」
「わたしが? ここの本をお借りしてもいいのですか?」
 驚いて背表紙からネイサンに視線を向けると、彼はやはり例の鋭い瞳で、マージュをじっと見すえていた。ただ彼は、心なしか今までよりもすこし穏やかな表情をしているように見える。

「でも、きっと入り浸ってしまうわ。わたしを遠ざけたいのなら、そんなことは言わないほうが身のためですよ」

 微笑んだマージュに、ネイサンはなにも答えなかった。
 ほんのすこし穏やかになった気がした彼の顔つきは、見る間にもとの厳しいものに戻った。それどころか、怒っているようにさえ見えた。
 なにか、失言してしまったのだろうか?
 マージュは肩を硬くして身構えたが、ネイサンはついに視線を外して執務机の上を眺めた。ネイサンがマージュから視線をそらしたのは、多分、書斎に入ってきてからこれが最初だ。

「これを、日付順に整理して欲しい。新しい日付を上に」

 ネイサンは、束になった数十枚の薄い紙を持ち上げて、机越しにマージュへ差し出した。反射的にそれを受け取ろうと手を伸ばすと、ふたりの指が触れ合う。
 触れた指先にしびれが走り、マージュは息を呑みながら顔を上げた。
 ネイサンはまず、じっとふたりの手を見つめ、それからゆっくりと顔を上げてマージュと目を合わせた。
 吸い込まれてしまいそうな深い灰色の瞳が、マージュを射抜くように見つめている……。暗くて冷たいとばかり思っていたネイサンの瞳が、その時だけはひどく情熱的に感じられた。
 油断をしたら、燃え尽くされてしまいそうなほどの、灼熱。
「は、はい」
 マージュはなんとか返事をした。
「では、そこの長椅子を使わせていただいて……いいでしょうか? それともどこか別の場所で……」
「どこでも構わない、が、この書斎にとどまっていてくれると助かる」
 ネイサンは長椅子を視線で示した。ネイサンの執務机からは、目と鼻の先だ。
「他にも頼みたい仕事があるのでね」
 ついでのようにそう言い加えると、ネイサンは短く乾いた咳払いをひとつして、椅子に腰掛けた。そして執務机の上に置かれていた数枚の手紙を、ナイフで器用に開きはじめる。パリッと蝋がはがれる音がして、手紙を広げたネイサンは、ナイフを横にどけて内容を読みはじめた。

 なぜかマージュは、その一連のネイサンの手の動きから目を離せないでいた。
 骨っぽくて幅の広い、血管の浮き上がった男性的な手だ。フレドリックは普段から手袋をはめていることが多かったが、この人は違う。
 ふと、右手の薬指の先に、インクの染みとささくれがあるのに気がついて、なんともいえない不思議な興奮がマージュの胸を駆け抜けた。
 なぜだろう……マージュはその、仕事で汚れてささくれ立った手を取って、なにか慰めになることをしてあげたいと思った。石鹸で洗ってあげたり、爪を切ったり、口づけをしたり……。
「どうした、ミス・バイル?」
 急に聞こえたネイサンの低い声に、マージュはもう少しで悲鳴を出してしまうところだった。
 慌てて顔を上げると、いぶかしげな顔のネイサンが棒立ちしているマージュに批判的な視線を流している。恥ずかしくなって顔を背けると、マージュは急いで長椅子に向かおうとした。
 しかし、緊張で震える手が、ネイサンから渡された書類を落としてしまう。何十枚もの紙が雪のように散り、木目の床の上に広がった。
「ご、ごめんなさい!」
 鏡を見なくても、自分の顔が見るまに紅潮していくのが分かった。

 不適切な妄想をしていたせいで、ネイサンの大切な書類を床にぶちまけてしまったのだ。たとえ彼にマージュの頭の中までは見えないにしても、なんと注意の足りない、頭の弱い女だと思われてしまっただろう。
 ──もちろん多分に、ネイサンはとっくの昔からそう思っているだろうし、それは事実と言っていいのかもしれないけれど。
 マージュは急いで床にかがみこみ、落ちた書類を拾おうとした。
 同時に、ネイサンが椅子から立ち上がる。かがみこんだマージュの真横にそびえるネイサンは、あまりにも大きく、威圧的に見えて、見上げるだけで身震いしてしまいそうだった。背に朝日を浴びた長身の彼は、ビジネスマンというよりも、上着を着た古代の戦士のようで恐ろしくてたまらない。
「ごめんなさい……」
 なんとか絞り出した声は、今にも泣き出しそうな情けないものだった。
 失態を繰り返さないようにと必死で書類をかき寄せるが、その動作はぎこちなく、作業は遅かった。すぐにネイサンがマージュの前に膝を折り、書類を集める手伝いをはじめた。
「だめです、ミスター・ウェンストン、自分でできますから……」
 執務机の下や、絨毯の間にまで滑り込んだ書類を、ネイサンは素早く集めてマージュに手渡した。お互い床の上に膝をつき、高級感のただよう家具の波に溺れるように身を低くしていた。
「謝る必要はない」
 ネイサンは片膝を床につき、もう片方の膝を立ててその上に片腕を置くと、マージュに向かって言った。
 マージュはなにも答えられなかった。
 ただ、渡された書類を胸に抱き、なんとかこくりとうなずく。
 するとネイサンはさっと立ち上がり、マージュに向けて助けの手を伸ばした。慌ててその手を取るマージュを、ネイサンはぐっと力強く引き上げ、まっすぐに立たせる。
 東日が降りそそぐ書斎の中で、ふたりは向き合った。
 ネイサンはしばらく無言で立っていたが、いつしかマージュを残してひとりで執務机の前に移動すると、立ったまま両手を机の上に置いた。
「どうしたら……」
 ネイサンは、彼独特のひどく低くてかすれた声で、ゆっくりとしゃべった。

「どうしたら君に、わたしが悪魔ではないと分かってもらえる?」

 一瞬、マージュは自分の耳を疑った。
 そしてそれ以上に、ネイサンの表情が悲しげに曇っていて、マージュは言葉を失った。あの冷徹な灰色の瞳が、まるで冬の狼のように孤独に、なにかへの渇望を持って、マージュを見つめている。
 答えはすぐには出てこなかった。

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