氷と花

泉野ジュール

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氷と花と光と "I would wait hundred years for you, Marge"

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 頑強な体に抱きすくめられて、マージュは身動きひとつできなかった。
 優しさに溢れている時でさえ、ネイサン・ウェンストンは隅から隅まで男性的で、押し当てられる胸は鋼のように力強い。見えないとなおさら、彼の存在を大きく感じた。
「こっちにおいで」
 ネイサンは優しくささやきながら、肩からずり落ちていた上着をマージュに着せ直した。「書斎から出よう。この暗がりの中では、なにをしてしまうか分からない」
 マージュがうなずいたのに、ネイサンは気がついただろうか。そして……ほんのすこし、残念な気がしてしまったことにも。
 どちらにしても、ネイサンはマージュの背に手を当て、ゆっくりと暗闇の中を歩きはじめた。一歩、一歩、慎重に、マージュが見えない家具の角に体をぶつけて怪我をしないように注意しながら進む。
 ネイサンが書斎の扉に手をかけると、薄い光の筋が廊下から流れ込みんで、マージュは一瞬目をしばたたいた。
「ディクソン……?」
 ランプを胸の高さに掲げたディクソンが、扉から数メートル離れたところに妙な顔をして直立していた。ネイサンは急にマージュの上着の前身頃をきつく締めて、先に廊下へ躍り出た。

「ここに突っ立っていたなら、どうして中まで入ってこなかった? ランプの火が消えていたんだぞ」
 脅しのような口調でネイサンがつめ寄ると、ディクソンは優雅に肩をすくめてみせた。
「どうも……お取込み中のようでしたので」

 聞かれていたのだ、と分かって、マージュは顔を真っ赤にしてネイサンの背後で縮こまった。もしかしたら、あの恥ずかしい嬌声も漏れ聞こえていたのかもしれない。あられもなくネイサンに懇願するところまで……。
「この馬鹿者が」
 ネイサンはうなるように言うと、ディクソンからランプを奪い取った。執事は抵抗しないどころか、主人の横暴を最初から予想していたようで、眉ひとつ動かさないでランプを手放す。
「他になにか必要なものはおありでしょうか」
 ディクソンの口調は完全な棒読みだった。
「さっさと寝室へ戻って寝ていろ。それから、今夜のことは他の使用人には一切話すな」
「かしこまりました」
 まるで……さっきのネイサンの叫び声を、誰も聞いていなかったとでも言うように。ディクソンは踵を返すと、ひたひたと足音を響かせながら廊下の先へ消えていった。

 不安げにディクソンの後ろ姿を見つめていたマージュに、ネイサンが顔を向ける。ずっと暗闇で見えなかった彼の輪郭が光に浮かび上がり、マージュは思わず息を呑んだ。
 すっかり乱れた黒髪と、はだけた胸元。
 顔色は興奮で赤みがかり、息は乱れ、まるで凶暴な野獣と戦ったあとかなにかようだ。マージュとの暗闇での逢瀬が、ネイサンにこれほどの影響を与えたとは、にわかに信じがたかった。
「君は……寝室へ戻りなさい」
 有無を言わせぬ未来の夫の口調に、マージュは無意識にうなずいていた。
「でも、ミスター・ウェンストン、あなたは……?」
 自分でも、寂しさが声ににじんでいることを聞き取ることができた。ネイサンはどう感じたのだろう、唇を引き結び、なにかを我慢するように眉間にしわを寄せた。
「わたしは、まだ書斎に残る……」
 彼には珍しい放漫な口調でそう言いかけたが、マージュの姿を上から下まで見渡すと、とっさに考えを変えたらしかった。急に硬質で事務的な声になる。
「いや、君を部屋まで送ろう。それから、わたしも自室へ行く」

 まるで彼自身に言い聞かせているような、歴然とした語調だった。

 ネイサンの掲げたランプの明かりを頼りに、ふたりは廊下を進み階段を上がり、まもなくマージュの寝室の前へたどり着いた。
 夜のウェンストン・ホールは誰もが息を潜めているかのように静かだった。ああ、これではきっとマージュのみだらな声は屋敷中に響いていたはずだ。そもそもマージュは、ネイサンの誤解を解くのに成功したのだろうか?
 していないのだろうか?
 それどころか、さらに誤解を深めたような気さえする……。

 ネイサンは部屋の扉の前で、マージュと適切な距離をとって立っていた。
「おやすみ、ミス・バイル」
 彼ではない誰か別のひとが発したような、控えめな口調で別れを言い渡される。マージュはネイサンを見上げた。なぜか、このまま離れたくはなかった。
「へ、部屋の中の、ラ、ランプを消してしまったんです。一緒に……中へ入ってくれませんか」
 即座にそんな言い訳を思いついてしまった自分に、マージュは心底驚いた。
 今夜のマージュはどうかしている。
 ネイサンは微動だにしなかった。ランプを掲げたまましばらく扉の前に立っていたが、やがて、マージュのためにゆっくりと静かに扉を押し開いた。

 マージュより先に部屋の中に入ったネイサンは、化粧台の上にある火の消えたランプを見つけるとすぐに火を移した。パッと部屋が温かみのある色を放ち、明るくなる。
「では……」
 ネイサンは部屋を後にしようとしていた。でも、その動作が普段の彼よりも緩やかであるのも、確かだった。まるで彼も、本当は離れたくないと願っているかのように。
「待って……おねがい、待ってください、すこしだけ」
「ミス・バイル、今夜のことなら……」
 ネイサンはわずかにうわずった声で、マージュの言葉を止めようとした。しかしマージュは止めなかった。
 止められなかった。

「信じてください。わたしはフレ……あ、あなたの弟と、男女の交わりをしたことはありません。もちろん、他の誰とも」

 マージュから顔を背けたネイサンの横顔が、ランプの明かりを受けてきらめく。ネイサンはしばらく床のどこか一点をぼんやりと眺めていたが、ややあって顔を上げ、まだマージュから視線を背けたまま、ささやいた。
「本当に?」
 こんなネイサンの声は聞いたことがなかった。
 それだけじゃない、今夜のようなネイサンは見たことがない。いつもの完璧なビジネスマンの仮面が薄らいで、傷つきやすい少年のような横顔が、光と影の中に浮かんでいる。
「はい」
 マージュは簡素に答えた。

 ゆっくりとマージュに向き直ったネイサンは、そのままじっと彼女を見つめていた。
 灰色の瞳に浮かぶのは……なんだろう。渇望? なにかを願う切なる感情……恍惚……夢の中を歩いているような不確かさ。説明できない。
 でもきっと、マージュも同じような瞳をしている。

 やがて、ネイサンは大股で静かにマージュのベッドへ向かうと、そのふちに腰掛けて肘を太ももに置き、両手を組んだ。
「フレドリックが君を裏切った理由は、それだったと言ったか? 君が、体を許さなかったからだ、と?」
 今更ではあるが、マージュは恥ずかしくなって顔を赤らめた。
 喉の奥になにかが詰まったような感じがして、声を出すのが難しく、マージュはただ首を縦に振った。途端にネイサンの表情が怒りを帯びていく。
 ほとんど唇を動かさず、野犬のうなりのような声をネイサンは漏らした。「地獄の業火に焼かれるがいい」
「え」
「なんでもない。信じがたいことだ……許されることではない」
 フレドリックに対するネイサンの断罪に、なぜかマージュはすこし心が軽くなるのを感じた。もしかしたら、ずっと、こんなふうに誰かに認めてもらいたかったのかもしれない。
 マージュはまごつきながら前で手を結んだ。
「他にも理由があったのかもしれません。わたしにも悪いところが。でも……」
「君が罪悪感を感じることなどひとつもない。十年でも二十年でも、弟は待つべきだった」
 闇にひそんで獲物を狩ろうとする鷹のような鋭い視線が、マージュを見すえている。しかし、その怒りの矛先がマージュでなくフレドリックであるのは、理解できた。
 フレドリックの裏切りを、ネイサンは怒ってくれている。でも、その理由を考えると、マージュの心は沈んだ。

「そうすれば……あなたは、わたしと結婚する必要なんてなかったんですよね。ごめんなさい」
 するとネイサンは、まるでマージュにほおを叩かれたような驚いた顔をして、続けた。
「そうすれば、君は傷つかずにすんだ。それだけだ」
「でも……」
「なにか勘違いしているようだが、わたしは君との結婚を、重荷だと……ましてや嫌悪する対象だと考えたことはない。わたしはただ……そういった種類の感情を表に出す種類の男ではないんだ」

 ネイサンはベッドに座っていて、マージュは部屋の中央に立ったままだった。
 それが妙に不自然に感じて、マージュはためらいながらもネイサンの側までそろそろと進んだ。そして、彼が拒否しないのを確認すると、すぐ隣に腰を下ろした。マージュの体重でベッドがすこし沈んでも、ネイサンの鋼のような体はびくともしない。
「じゃあ……嫌われているわけではないんですね?」
 マージュがのぞき込むように見上げると、ネイサンは首をかしげてマージュを見下ろした。
「まさか」
 それがネイサンの短い、しかし確かな、返事だった。

 急に、胸の奥に温かい風が吹き抜けて、幸せに似た気持ちに足元をすくわれたような気がした。ネイサンはマージュを嫌っていない。マージュとの結婚を迷惑な重荷だと思っているわけではない。それを聞いただけで、マージュの心の闇は霧となって薄れていく。
 マージュは久しぶりに心から微笑んでいた。
「でも、あなたならそんなに待てますか? ひとりの女性を十年も?」
 からかうつもりで言っただけなのに、ネイサンはにこりともしないどころか、さらに真剣な顔になってマージュを見つめてきた。
 間近で見るネイサン・ウェンストンは美しかった。
 その熱い視線に、マージュの鼓動は何倍もの速さで鳴った。そしてネイサンはマージュにそっと微笑み返した。
「わたしは百年でも君を待つよ、マージュ」
 マージュ。
 マージュ。
 はじめてネイサンの口から聞いたマージュの愛称は、信じられないほど優しくて愛情に溢れた響きをしていた。もしかしたら、マージュがそう思いたかっただけなのかもしれない。本当はそこまでの愛はないのかもしれない。
 でも。
 それでも。
「ミスター・ウェンストン……」
 マージュがつぶやくと、ネイサンの人差し指がマージュの唇に近づいて、触れるか触れないかの距離でぴたりと止まる。
「『ネイサン』だ」
 マージュは息をつまらせ、瞳を揺らした。
「ネイサン……」

 すると、ネイサンは唐突に立ち上がった。ベッドの均衡が崩れ、マージュの体が揺れる。大股で部屋を横切ったネイサンは、そのまま扉の前まで来て、出て行ってしまうかに見えた。
 しかし、扉の取っ手に片手をかけたネイサンは、座ったままで呆然としているマージュを振り返ると、いつものけぶるような瞳でマージュをとらえる。
 マージュの全身は金縛りにあったかのように動かなくなった。
「書斎で……わたしが君に触れるのを拒まなかったのは……そのせいだったのか?」
「え?」
 マージュが聞き返すと、ネイサンはもっとゆっくりと、一語一語をはっきりと発音するように繰り返した。
「書斎で、君は、わたしが君に触れるのを拒まなかった。それは、わたしがフレドリックのように君を捨てるのを恐れたからか、それとも他に理由があるのか、知りたい」
 言葉を失って口をぱくぱくと動かすマージュを、ネイサンは扉の横に立ったまま辛抱強く待っていた。マージュが答えるまで、動く気はないらしい。
 あの暗闇での触れ合いを……あの感触を……思い出すだけでマージュの体は火照った。熱い口づけ。ネイサンの唇に与えられた生まれてはじめての快感。
 そもそもあれは、マージュが彼にねだったものだ。
「いいえ……わたし……あなたに触れて欲しいと思ったの。とてもあなたが欲しくなって……だから、触ってと、おねがいしたんです。あなたはそれにこたえてくれた」
 もっとうまく、世慣れた答えをするべきかもしれない。でもマージュは、それ以外に説明のしようがなかった。
 ネイサンは……しばらく呆然としていた。
 唖然あぜん、と。
 そして、いくらかの沈黙の後、
「マージョリー・バイル、君は覚悟をしておいた方がよさそうだ」
 と、警告するような声色で言った。
「か、覚悟?」
「いや、本当に覚悟が必要なのは、わたしの方かもしれないがね……」
 それだけぽつりとつぶやくと、ネイサンは最後に「おやすみ」と短く言い加えて、足早に部屋を出て行った。

 ランプの中で燃える小さな炎が、ひとりで真っ赤になっているマージュを冷やかすかのように、小刻みに踊っていた。

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