8 / 25
08. A Summer Night Sorrow
しおりを挟む外は薄闇に覆われていて、町へと続く道を歩いていくには時間がかかった。
──もしくは、緊張のせいでエヴァがそう感じただけかもしれない。
エヴァは淡い黄色の夏用スカートをはいていて、それが月の光りを受けて足下で揺れている。
その隣を歩くアナトールは、食事の時と同様に、あまり饒舌ではなかった。
なにか気の利いたことを言いたくて、エヴァは時々アナトールのほうをちらりとのぞいてみたが、彼はまっすぐ道の先を見ているか、やはりエヴァをじっと見つめているかのどちらかだった。
こうして改めてアナトールの隣に立つと、エヴァは彼の不思議な存在感に圧倒されそうになる。
牧場から町へと向かう道は荒れていて、轍わだちやぬかるみがそこここに広がっていた。それでもエヴァにとっては慣れた道のはずなのに、今夜ばかりは足下に集中することができなくて、どうしても不安定になった。
逆にアナトールのほうが、この道を知り尽くしているようなしっかりした足取りで歩いている。
エヴァは言葉に詰まった。
きちんと彼のほうを見ることができない。
でも、なにか、なにか言わなくちゃ……
「危ない」
アナトールの声が頭上から聞こえたとき、エヴァの腕はすでに彼の手に支えられていて、その胸元に引き寄せられていた。
ハッとして下を見ると、大きな水たまりがすぐ側にのびていて、もう少しではまってしまうところで──エヴァはアナトールの腕の中に、安全におさまって難を逃れていた。
「あ、あ、あの……」
「道がぬかるんでいる」
と、アナトールは指摘した。「家を出た時から少しフラフラしていたみたいだったから……気分でも?」
「いえ、あの、気分は大丈夫よ。本当に平気だから……」
──でも、とエヴァは続けそうになった。
大丈夫でないのはわたしの心臓なの。さっきからずっとバクバクと激しい音を立ててる。こんなの普通じゃないわ。
背の高いアナトールに寄り添うと、エヴァの鼻の先がちょうど彼のシャツのボタンが終わるところについた。短く息を吸っただけでエヴァは、まるで誘うような男性的な香りと、清潔な石鹸の匂いに包まれる。
瞬間。
エヴァは、このままアナトールの胸に抱きついてしまいたい衝動に駆られた。そしてなぜか、それがあたかも自然なことであるかのような錯覚に、とらわれる。
いけない。
軽く頭を振って、エヴァはアナトールから離れようとした。しかし、エヴァの腕を掴むアナトールの手は力強くて、ただエヴァが後ろに下がろうとしただけではビクともしなかった。
少し動揺したエヴァがアナトールの顔を見上げると、彼はその無言のメッセージに気が付いたようだった。
アナトールは口元を引き締め、どこか硬い表情になって、エヴァをそっと放す。
「ごめん」
と、すぐ呟いたのはアナトールだった。「乱暴にするつもりはなかった」
まるで、エヴァに怒られると思っているような謙虚な声で、一歩後ろに下がりながら両手を下ろす。その仕草は、さっきまでの力強い男性のものではなくて、どこか不安そうな、自分に自信のない少年のもののようだった。
立ち直ってスカートをはたいたエヴァは、なんだか居たたまれない気持ちになった。
アナトールを今の状況に引きずり込んだのは自分なのに、なに一つ解決策も見つけられないまま、彼の魅力にフラフラしている。おまけに彼に気まずい思いをさせてしまうなんて。
今すぐに真実を話して、彼を解放してあげるべきな気がした。
あなたが恋心を綴って心を通い合わせたヴィヴィアンは、本当は存在しないのだと。美貌の姉に代わって返事を書いていた平凡な妹がいただけで、あの4年間の文通は、ただの幻だったのだと。
──ただの幻?
そこまで考えて、エヴァは強い抵抗を感じた。
違う。確かにエヴァはヴィヴィアンのふりをして手紙を書いていたけれど、したためた言葉はすべて本物だった。手紙に綴られた文字だけが相手だったけれど、いつだってエヴァはその向こう側に居るアナトールの存在を感じていた。
想っていた。
それはきっとアナトールも同じで、たとえ実際は存在しないとしても、彼の中にはヴィヴィアンが生きているはずなのだ。彼を励ます手紙を書き続けた、ヴィヴィアンが。
時には勇気づけられ、時には心の平安を得ていたはずだ。
エヴァがそうだったのだから。
「姉とのことで……その、姉と手紙のやりとりについて……あなたが責任を感じることはなにもないと思うわ」
「は?」
「あの、姉にも色々あって。戦争中だったし、大袈裟に書いたりしたこともあったと思うの。だから、あなたがここを去りたいと思うなら、いつでもいいのよ」
言いながら、エヴァは下を向いた。
アナトールの顔を見ることができない。自分がなにを言っているのかもよく分からなかった。
本心でもない、真実でもないことを言って、なにがしたいというのだろう。
アナトールはしばらく黙って、エヴァの言葉を咀嚼しているようだった。まだ会って間もないけれど、エヴァはすでにアナトールという男性について少し理解をしはじめている。
彼は思慮深い人だ。なにかを言うとき、なにかをするとき、いつも深く考えてから行動する。
「それはつまり、君の姉上は俺を歓迎していないということかな」
アナトールの声は冷たかった。
あまりに冷たくて、顔を上げたエヴァは凍りついた。
「違うの! ただ、ヴィヴィアンは戸惑っているみたいだし、あなたは自由だってことを言いたくて……」
アナトールは黙ってエヴァを見下ろしている。
彼の動かない瞳と表情から本心を読み取るのは難しかったが、不用意なエヴァの言葉を不快に思っているのは確かだった。
それでなくても無愛想なヴィヴィアンの態度に彼は傷ついているかもしれないのに、部外者のエヴァが、勝手な口をきくなんて。
「俺は誰かに強制されてここにいるわけじゃない」
と、アナトールは忠告するような口調で、ゆっくりと言った。
「戦争中だったからといって、気まぐれに意味の無い言葉を送り続けていたわけでもない。俺に帰って欲しいなら、はっきりそう言えばいいんだ」
彼の苛立ちを感じて、エヴァの身体中が緊張した。たとえあからさまに顔に出さないとしても、伝わるものは伝わる。たとえ今朝会ったばかりでも、エヴァは4年間彼の心をのぞいてきた。
穏やかな月光が二人を照らしている……。
夜風が吹いて、牧場の草木の香りを運んでくる。
まるで4年間夢に見ていたことが現実になったようだった。戦争が終わり、アナトールが帰ってきて、エリオット牧場に二人、月明かりの下で肩を並べて歩く。しかし現実はそんなに単純ではなかった。
だってエヴァは4年間、嘘の名前を騙ってきたのだ。
こうしてアナトールが本当にエリオット牧場に帰って来て、エヴァの隣にいて初めて、エヴァは自分のしてしまったことの重大さに気がつき、打ちのめしされそうな気分だった。
「ごめんなさい……」
その言葉は、無意識に口をついて出た。
謝ること以外、なにをしていいのか分からなかった。そしてもっと悪いことには、エヴァはそれでも、後悔していないのだ。自分がヴィヴィアンの名前を使って返事を書かなければ、アナトールは二度とエリオット牧場に戻ってくることはなかった。あの4年間も、その間に交わし合った優しい言葉も、想いも。なに一つ後悔していない。
──最低だ。
「ごめんなさい、アナトール」
エヴァは繰り返した。
目頭が熱くなってきたけれど、泣くことだけはしたくなかった。そんな資格がエヴァにあるとは思えない。
アナトールはまたしばらく、さっきまでのように、じっとエヴァを見つめたままだった。
真剣で真っ直ぐな視線が、突き刺さるようにエヴァを凝視している。にらまれているわけではないが、穏やかな視線とはほど遠かった。まるでエヴァの中から真実を見つけ出そうとしているかのような、ひたむきな眼差し。
「君が謝ることじゃないよ」
という、穏やかなアナトールの声がした。
エヴァはつい、アナトールの笑顔が見られるのではないかと期待してしまったほど、彼の声は優しかった。しかし続いた彼の言葉は、エヴァの心を再び凍りつかせるのに十分だった。
「それに、これは俺とヴィヴィアンの間の問題だから……君には関係ないはずだ」
0
あなたにおすすめの小説
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
女王は若き美貌の夫に離婚を申し出る
小西あまね
恋愛
「喜べ!やっと離婚できそうだぞ!」「……は?」
政略結婚して9年目、32歳の女王陛下は22歳の王配陛下に笑顔で告げた。
9年前の約束を叶えるために……。
豪胆果断だがどこか天然な女王と、彼女を敬愛してやまない美貌の若き王配のすれ違い離婚騒動。
「月と雪と温泉と ~幼馴染みの天然王子と最強魔術師~」の王子の姉の話ですが、独立した話で、作風も違います。
本作は小説家になろうにも投稿しています。
将来の嫁ぎ先は確保済みです……が?!
翠月るるな
恋愛
ある日階段から落ちて、とある物語を思い出した。
侯爵令息と男爵令嬢の秘密の恋…みたいな。
そしてここが、その話を基にした世界に酷似していることに気づく。
私は主人公の婚約者。話の流れからすれば破棄されることになる。
この歳で婚約破棄なんてされたら、名に傷が付く。
それでは次の結婚は望めない。
その前に、同じ前世の記憶がある男性との婚姻話を水面下で進めましょうか。
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
花言葉は「私のものになって」
岬 空弥
恋愛
(婚約者様との会話など必要ありません。)
そうして今日もまた、見目麗しい婚約者様を前に、まるで人形のように微笑み、私は自分の世界に入ってゆくのでした。
その理由は、彼が私を利用して、私の姉を狙っているからなのです。
美しい姉を持つ思い込みの激しいユニーナと、少し考えの足りない美男子アレイドの拗れた恋愛。
青春ならではのちょっぴり恥ずかしい二人の言動を「気持ち悪い!」と吐き捨てる姉の婚約者にもご注目ください。
拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
藤原ライラ
恋愛
心を奪われた手紙の先には、運命の人が待っていた――
子爵令嬢のキャロラインは、両親を早くに亡くし、年の離れた弟の面倒を見ているうちにすっかり婚期を逃しつつあった。夜会でも誰からも相手にされない彼女は、新しい出会いを求めて文通を始めることに。届いた美しい字で洗練された内容の手紙に、相手はきっとうんと年上の素敵なおじ様のはずだとキャロラインは予想する。
彼とのやり取りにときめく毎日だがそれに難癖をつける者がいた。幼馴染で侯爵家の嫡男、クリストファーである。
「理想の相手なんかに巡り合えるわけないだろう。現実を見た方がいい」
四つ年下の彼はいつも辛辣で彼女には冷たい。
そんな時キャロラインは、夜会で想像した文通相手とそっくりな人物に出会ってしまう……。
文通相手の正体は一体誰なのか。そしてキャロラインの恋の行方は!?
じれじれ両片思いです。
※他サイトでも掲載しています。
イラスト:ひろ様(https://xfolio.jp/portfolio/hiro_foxtail)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる