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08. A Summer Night Sorrow
しおりを挟む外は薄闇に覆われていて、町へと続く道を歩いていくには時間がかかった。
──もしくは、緊張のせいでエヴァがそう感じただけかもしれない。
エヴァは淡い黄色の夏用スカートをはいていて、それが月の光りを受けて足下で揺れている。
その隣を歩くアナトールは、食事の時と同様に、あまり饒舌ではなかった。
なにか気の利いたことを言いたくて、エヴァは時々アナトールのほうをちらりとのぞいてみたが、彼はまっすぐ道の先を見ているか、やはりエヴァをじっと見つめているかのどちらかだった。
こうして改めてアナトールの隣に立つと、エヴァは彼の不思議な存在感に圧倒されそうになる。
牧場から町へと向かう道は荒れていて、轍わだちやぬかるみがそこここに広がっていた。それでもエヴァにとっては慣れた道のはずなのに、今夜ばかりは足下に集中することができなくて、どうしても不安定になった。
逆にアナトールのほうが、この道を知り尽くしているようなしっかりした足取りで歩いている。
エヴァは言葉に詰まった。
きちんと彼のほうを見ることができない。
でも、なにか、なにか言わなくちゃ……
「危ない」
アナトールの声が頭上から聞こえたとき、エヴァの腕はすでに彼の手に支えられていて、その胸元に引き寄せられていた。
ハッとして下を見ると、大きな水たまりがすぐ側にのびていて、もう少しではまってしまうところで──エヴァはアナトールの腕の中に、安全におさまって難を逃れていた。
「あ、あ、あの……」
「道がぬかるんでいる」
と、アナトールは指摘した。「家を出た時から少しフラフラしていたみたいだったから……気分でも?」
「いえ、あの、気分は大丈夫よ。本当に平気だから……」
──でも、とエヴァは続けそうになった。
大丈夫でないのはわたしの心臓なの。さっきからずっとバクバクと激しい音を立ててる。こんなの普通じゃないわ。
背の高いアナトールに寄り添うと、エヴァの鼻の先がちょうど彼のシャツのボタンが終わるところについた。短く息を吸っただけでエヴァは、まるで誘うような男性的な香りと、清潔な石鹸の匂いに包まれる。
瞬間。
エヴァは、このままアナトールの胸に抱きついてしまいたい衝動に駆られた。そしてなぜか、それがあたかも自然なことであるかのような錯覚に、とらわれる。
いけない。
軽く頭を振って、エヴァはアナトールから離れようとした。しかし、エヴァの腕を掴むアナトールの手は力強くて、ただエヴァが後ろに下がろうとしただけではビクともしなかった。
少し動揺したエヴァがアナトールの顔を見上げると、彼はその無言のメッセージに気が付いたようだった。
アナトールは口元を引き締め、どこか硬い表情になって、エヴァをそっと放す。
「ごめん」
と、すぐ呟いたのはアナトールだった。「乱暴にするつもりはなかった」
まるで、エヴァに怒られると思っているような謙虚な声で、一歩後ろに下がりながら両手を下ろす。その仕草は、さっきまでの力強い男性のものではなくて、どこか不安そうな、自分に自信のない少年のもののようだった。
立ち直ってスカートをはたいたエヴァは、なんだか居たたまれない気持ちになった。
アナトールを今の状況に引きずり込んだのは自分なのに、なに一つ解決策も見つけられないまま、彼の魅力にフラフラしている。おまけに彼に気まずい思いをさせてしまうなんて。
今すぐに真実を話して、彼を解放してあげるべきな気がした。
あなたが恋心を綴って心を通い合わせたヴィヴィアンは、本当は存在しないのだと。美貌の姉に代わって返事を書いていた平凡な妹がいただけで、あの4年間の文通は、ただの幻だったのだと。
──ただの幻?
そこまで考えて、エヴァは強い抵抗を感じた。
違う。確かにエヴァはヴィヴィアンのふりをして手紙を書いていたけれど、したためた言葉はすべて本物だった。手紙に綴られた文字だけが相手だったけれど、いつだってエヴァはその向こう側に居るアナトールの存在を感じていた。
想っていた。
それはきっとアナトールも同じで、たとえ実際は存在しないとしても、彼の中にはヴィヴィアンが生きているはずなのだ。彼を励ます手紙を書き続けた、ヴィヴィアンが。
時には勇気づけられ、時には心の平安を得ていたはずだ。
エヴァがそうだったのだから。
「姉とのことで……その、姉と手紙のやりとりについて……あなたが責任を感じることはなにもないと思うわ」
「は?」
「あの、姉にも色々あって。戦争中だったし、大袈裟に書いたりしたこともあったと思うの。だから、あなたがここを去りたいと思うなら、いつでもいいのよ」
言いながら、エヴァは下を向いた。
アナトールの顔を見ることができない。自分がなにを言っているのかもよく分からなかった。
本心でもない、真実でもないことを言って、なにがしたいというのだろう。
アナトールはしばらく黙って、エヴァの言葉を咀嚼しているようだった。まだ会って間もないけれど、エヴァはすでにアナトールという男性について少し理解をしはじめている。
彼は思慮深い人だ。なにかを言うとき、なにかをするとき、いつも深く考えてから行動する。
「それはつまり、君の姉上は俺を歓迎していないということかな」
アナトールの声は冷たかった。
あまりに冷たくて、顔を上げたエヴァは凍りついた。
「違うの! ただ、ヴィヴィアンは戸惑っているみたいだし、あなたは自由だってことを言いたくて……」
アナトールは黙ってエヴァを見下ろしている。
彼の動かない瞳と表情から本心を読み取るのは難しかったが、不用意なエヴァの言葉を不快に思っているのは確かだった。
それでなくても無愛想なヴィヴィアンの態度に彼は傷ついているかもしれないのに、部外者のエヴァが、勝手な口をきくなんて。
「俺は誰かに強制されてここにいるわけじゃない」
と、アナトールは忠告するような口調で、ゆっくりと言った。
「戦争中だったからといって、気まぐれに意味の無い言葉を送り続けていたわけでもない。俺に帰って欲しいなら、はっきりそう言えばいいんだ」
彼の苛立ちを感じて、エヴァの身体中が緊張した。たとえあからさまに顔に出さないとしても、伝わるものは伝わる。たとえ今朝会ったばかりでも、エヴァは4年間彼の心をのぞいてきた。
穏やかな月光が二人を照らしている……。
夜風が吹いて、牧場の草木の香りを運んでくる。
まるで4年間夢に見ていたことが現実になったようだった。戦争が終わり、アナトールが帰ってきて、エリオット牧場に二人、月明かりの下で肩を並べて歩く。しかし現実はそんなに単純ではなかった。
だってエヴァは4年間、嘘の名前を騙ってきたのだ。
こうしてアナトールが本当にエリオット牧場に帰って来て、エヴァの隣にいて初めて、エヴァは自分のしてしまったことの重大さに気がつき、打ちのめしされそうな気分だった。
「ごめんなさい……」
その言葉は、無意識に口をついて出た。
謝ること以外、なにをしていいのか分からなかった。そしてもっと悪いことには、エヴァはそれでも、後悔していないのだ。自分がヴィヴィアンの名前を使って返事を書かなければ、アナトールは二度とエリオット牧場に戻ってくることはなかった。あの4年間も、その間に交わし合った優しい言葉も、想いも。なに一つ後悔していない。
──最低だ。
「ごめんなさい、アナトール」
エヴァは繰り返した。
目頭が熱くなってきたけれど、泣くことだけはしたくなかった。そんな資格がエヴァにあるとは思えない。
アナトールはまたしばらく、さっきまでのように、じっとエヴァを見つめたままだった。
真剣で真っ直ぐな視線が、突き刺さるようにエヴァを凝視している。にらまれているわけではないが、穏やかな視線とはほど遠かった。まるでエヴァの中から真実を見つけ出そうとしているかのような、ひたむきな眼差し。
「君が謝ることじゃないよ」
という、穏やかなアナトールの声がした。
エヴァはつい、アナトールの笑顔が見られるのではないかと期待してしまったほど、彼の声は優しかった。しかし続いた彼の言葉は、エヴァの心を再び凍りつかせるのに十分だった。
「それに、これは俺とヴィヴィアンの間の問題だから……君には関係ないはずだ」
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