9 / 25
09. "Scissors" (1)
しおりを挟む長い夜になりそうな気がして、エヴァの心はだんだんと沈んでいった。
あれから二人はほとんど口もきかずに夜道を歩き続け、気がつけばすでに街の明かりが見え始める場所まできていた。とくに『シザーズ』の夜は賑やかだから、遠くからでも喧噪を感じることができる。
「あそこよ」
と、エヴァは前を指差した。
その先には、煌煌とした明かりが窓から漏れる、木造の平屋があった。
正面の入り口前に低いテラスがあって、上から吊らされたハロゲンランプに照らされながら、数人の男たちがたむろしている。
アナトールはわずかに眉をしかめて見せた。
「あそこに一人で行くつもりだったのか?」
「ええ。どうして?」
「君みたいなのが一人で夜中に行く場所じゃない」
断定に満ちた口調だった。
エヴァは街で唯一の居酒屋をあらためて眺め、そしてアナトールに視線を戻した。アナトールがなにを考えているのか、エヴァにはなんとなく感じ取ることができて、思わずぷっと吹き出してしまった。
「大丈夫よ、アナトール・ワイズ。確かに外観はひどい見てくれだし、看板も落ちかけてるけど、中は明るくて清潔よ。あそこで騒いでいる人たちも大丈夫。大声を上げてるけど、猫が虎の真似をしているだけで、害はないの。子供の頃から知っている人たちばかりだもの」
しかし、アナトールは眉をしかめたままエヴァに向き直った。そして小声で呟く。
「そういうのが一番質が悪いんだ」
「え?」
「なんでもない」
そうは言ったが、彼の表情はなにか納得のいかないものを含んだままのようで、少し子供っぽかった。エヴァはなんだか可笑しくなって、今まで引きずっていた心の重みが少し取れたような気がして、顔をほころばせた。
「誰もあなたをとって食おうなんてしないから、心配しないで」
エヴァは冗談のつもりで言ったのだが、今のアナトールには通じないらしい。
「俺のことはどうでもいい。自分の身くらい自分で守れる。問題は君だ」
「わたし……?」
問題呼ばわりされて傷ついたのと、心配してくれているのかもしれないという甘い期待とが、エヴァの中で渦巻いた。ついさっき、君には関係ないと突き放されたばかりだったから、そんな小さいことにまで救いを求めてしまう自分がいるのが、分かる。
いよいよこの一人芝居も、泥濘ぬかるみにはまったようになってきた。
エヴァの立場を考えれば、こんなふうに彼の一挙一動に動揺していていいはずがないのに。
「……わたしのことは、あなたには関係ないんじゃなかったの?」
つい、エヴァは心にもないことを口走った。
途端にアナトールの表情が変わる。
夜の暗さのせいでよく見えないが、顔色さえ少し変化した気がした。彼は鋭いから、今のエヴァの台詞が、さっきのアナトールの言葉への当てつけであることをすぐに察したようだった。
「さっきのは、そんなつもりで言った訳じゃない」
アナトールは怒っているようだった。
肩が強ばって、半袖のシャツから覗く二の腕が躍動するのが見える。ヴィヴィアンの熊手を顔色一つ変えずに受けた彼の腕だ。力強くて、雄々しくて、その気になればエヴァなど簡単に組み伏してしまえるのだろう。
実際、アナトールはそうしたいのを厭々我慢しているようでさえあった。
「俺は……まどろっこしいことはせずに、正直に話してくれと言いたかっただけだ。君がヴィヴィアンに代わって俺に何かを言う必要はない、と」
そして、アナトールはまた、あの真摯な瞳でエヴァを見下ろしていた。
答えを。
返事を求められているのだと、エヴァは本能的に理解した。そしてエヴァも、今すぐ本当のことをすべて洗いざらい言ってしまいたい衝動に駆られた。
アナトールは許してくれるかもしれない。
エヴァの嘘を許してくれるかもしれない、今なら。
「アナトール、本当はわたし、」
緊張のせいで、エヴァは息苦しくなった。しかし今しかないかもしれないのだ。
「本当はわたしがあなたに──」
「エヴァ! エヴァじゃないか!」
エヴァが告白をし終える前に、突然、シザーズのテラスから降りてきた背の高い男性が声を上げ、こちらに早足で向かってきた。エヴァの親友、ジョンだった。
「どうしたんだい? 今夜は来ないのかと思ったのに」
「ジョン……こ、こんばんは」
エヴァはなんとか挨拶をしたが、視線はアナトールから離せないでいた。アナトールも、ジョンには一瞬目をやっただけで、いつまでもエヴァの方を見つめている。
嬉しそうな表情をして駆け寄ってきたジョンも、すぐになにかがおかしいと気付いたようだった。エヴァの前に立つアナトールに視線を向け、そしてエヴァに視線を戻す。
「大丈夫かい? こちらの男はなにか……君に良からぬことでも?」
「ま、まさか!」
エヴァは慌てて首を振って、アナトールとジョンの間に立つと、二人を紹介した。
「ジョン、こちらはアナトールよ。アナトール・ワイズ少将。それからアナトール、こちらはジョン……わたしとヴィヴィアンの親友で、街の仕立て屋の看板息子なの」
どちらの男性も背が高かったから、二人の真ん中に立つと、エヴァは自分が妙に小さくなったような気がした。
彼らはしばらく、初対面の男同士が必ずすることをしていた。つまり、お互いを値踏みするように見つめ合ったあと、どちらからともなく手を出し合うのだ。今回、先に手を差し出したのはジョンの方だった。
「よろしく、ワイズ少将。今は、アナトールと呼んでもいいのかな」
アナトールはうなずき、無言でジョンの手を握り返した。
二人の男たちの出会いを前にして、エヴァは内心、穏やかではなかった。
エヴァはどちらの男性もよく知っている。4年間、戦場で血と汗を流し続けてきたアナトール。そして、色盲のせいで召還されずに街に残っていたジョンは、アナトールのような男性に引け目を持っているはずだった。
「アナトールはうちの牧場に滞在しているの。その、その」
その場を和やかにしたくて説明を始めたエヴァだったが、すぐに言葉に詰まってしまった。アナトールは、なんだと言えばいいのだろう? ヴィヴィアンの恋人? 友人? 4年前、牧場で働く予定だった人?
「明日からエリオット牧場で働く予定なんだ」
そう答えたのはアナトールだった。
エヴァは驚いてアナトールを見上げた。彼の漆黒の瞳は闇にまぎれ込んだように予測不可能で、清潔に剃られた顎は動かず、意志の強さを表しているようだった。
──牧場の手伝いなど、大の男が誇れるような職務ではない。
それも、アナトールのように将校の地位まで受けた戦争の英雄が、これから小間使いのような仕事を始めるなどと、恥ずかしくて口に出来なくても不思議ではないのだ。それをアナトールは顔色一つ変えずにあっさりと言った。
エヴァの中で、アナトールの存在がさらに大きくなった瞬間だった。
「そうか……」
完全に納得した訳ではなさそうだったが、ジョンはアナトールの真摯な言葉に神妙にうなづいてみせた。
「それで、今夜は仕事始めに飲んでみるというとこかい? 僕が一緒しても邪魔にならないかな」
ジョンの誘いを受けて、エヴァはまたアナトールを見つめた。
アナトールがエヴァを見下ろすと二人の目が合って、彼はふいに優しく表情を緩めてみせた。
「まさか」
1
あなたにおすすめの小説
悪魔な義理弟《ボディーガード》~ヤンキー校最凶犬男子の独占欲が強過ぎる~
Kore
恋愛
「余計なこと考えさせないくらい愛せば、男として見てくれる?」そう囁く義弟の愛は重くて、危険で、究極に甘い。
———勉強が大の苦手であり、巷で有名なヤンキー高校しか入れなかった宇佐美莉子。そんな義理姉のボディーガードになるため、後追いで入学してきた偏差値70以上の義理弟、宇佐美櫂理。しかし、ボディーガードどころか、櫂理があまりにも最強過ぎて、誰も莉子に近寄ることが出来ず。まるで極妻的存在で扱われる中、今日も義理弟の重い愛が炸裂する。———
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された皇后を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
推しと清く正しい逢瀬(デート)生活 ーこっそり、隣人推しちゃいますー
田古みゆう
恋愛
推し活女子と爽やかすぎる隣人――秘密の逢瀬は、推し活か、それとも…?
引っ越し先のお隣さんは、ちょっと優しすぎる爽やか青年。
今どき、あんなに気さくで礼儀正しい人、実在するの!?
私がガチのアイドルオタクだと知っても、引かずに一緒に盛り上がってくれるなんて、もはや神では?
でもそんな彼には、ちょっと不思議なところもある。昼間にぶらぶらしてたり、深夜に帰宅したり、不在の日も多かったり……普通の会社員じゃないよね? 一体何者?
それに顔。出会ったばかりのはずなのに、なぜか既視感。彼を見るたび、私の脳が勝手にざわついている。
彼を見るたび、初めて推しを見つけた時みたいに、ソワソワが止まらない。隣人が神すぎて、オタク脳がバグったか?
これは、アイドルオタクの私が、謎すぎる隣人に“沼ってしまった”話。
清く正しく、でもちょっと切なくなる予感しかしない──。
「隣人を、推しにするのはアリですか?」
誰にも言えないけど、でも誰か教えて〜。
※「エブリスタ」ほか投稿サイトでも、同タイトルを公開中です。
※表紙画像及び挿絵は、フリー素材及びAI生成画像を加工使用しています。
※本作品は、プロットやアイディア出し等に、補助的にAIを使用しています。
閉じ込められた未亡人は、当主となった義息と契約する。
黒蜜きな粉
恋愛
借金の肩代わりとして後妻に入った私は、
妻と呼ばれながら屋敷の離れで「いないもの」として暮らしていた。
ある雪の日、夫が事故死したと告げられる。
だが、葬儀に出ることすら許されず、私は部屋に閉じ込められた。
新たに当主となった継子は言う。
外へ出れば君は利用され奪われる、と。
それが保護であり、同時に支配なのだと理解したとき、
私はその庇護を条件付きの契約に変えることを選ぶ。
短いお話です。
※第19回恋愛小説大賞にエントリーしております。
【完結】孤高の皇帝は冷酷なはずなのに、王妃には甘過ぎです。
朝日みらい
恋愛
異国からやってきた第3王女のアリシアは、帝国の冷徹な皇帝カイゼルの元に王妃として迎えられた。しかし、冷酷な皇帝と呼ばれるカイゼルは周囲に心を許さず、心を閉ざしていた。しかし、アリシアのひたむきさと笑顔が、次第にカイゼルの心を溶かしていき――。
【完結】傷物令嬢は近衛騎士団長に同情されて……溺愛されすぎです。
朝日みらい
恋愛
王太子殿下との婚約から洩れてしまった伯爵令嬢のセーリーヌ。
宮廷の大広間で突然現れた賊に襲われた彼女は、殿下をかばって大けがを負ってしまう。
彼女に同情した近衛騎士団長のアドニス侯爵は熱心にお見舞いをしてくれるのだが、その熱意がセーリーヌの折れそうな心まで癒していく。
加えて、セーリーヌを振ったはずの王太子殿下が、親密な二人に絡んできて、ややこしい展開になり……。
果たして、セーリーヌとアドニス侯爵の関係はどうなるのでしょう?
天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎
ギルドで働くおっとり回復役リィナは、
自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。
……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!?
「転ばないで」
「可愛いって言うのは僕の役目」
「固定回復役だから。僕の」
優しいのに過保護。
仲間のはずなのに距離が近い。
しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。
鈍感で頑張り屋なリィナと、
策を捨てるほど恋に負けていくカイの、
コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕!
「遅いままでいい――置いていかないから。」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる