Dear You

泉野ジュール

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18. The Storm

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 どうやってここまで歩いて来たのか、エヴァはよく思い出せなかった。
 気が付くとエヴァはエリオット牧場へ向かう砂利道まで来ていて、そのときやっと、風が強くなってきているのを感じて我に返った。
 見上げると空には、灰色の雨雲が低くのしかかるように広がっている。
 耳を澄ませば、ざわざわと遠くの草木が風に揺れ、鳥たちの鳴き声が聞こえなくなってきているのが分かった。──もうすぐ嵐になると、直感と経験が告げてきて、エヴァは心持ち屋敷へ戻る足を早めた。
 まだ昼を少し過ぎただけの時間だが、いつもより肌寒い。
 それに、朝方はあんなに晴れていたのに、こんなふうに急に天気が変わるときは、かならず激しい夏嵐が待ち受けているものだった。雨雲がほとんど予告なく空を灰色に覆い、強い雨を振らせながら雷鳴をとどろかせ、半日もするとまた訪れた時のように突然晴れ間を見せる、南部独特の夏の雨だ。
 エヴァは雨が好きだった。
 もっと正確には、雨が大地に残していく匂いが好きだった。
 しかし、牧場では雨の前にやらなくてはいけないことが多く、のんびりはしていられない。わららは雨に濡れないようにしないといけないし、家畜たちを厩舎に戻さなくてはならない。とくに馬はデリケートだから、雷を怖がることも多かった。
 雷鳴に怯えて草原を走り出したりすると、足の速い馬は雷の格好の標的になってしまうから、かならず厩舎に繋いでおく必要がある。
 エヴァは空を見上げて息を吸うと、急いで牧場へ向かった。



 エリオット牧場にたどり着いたエヴァは、屋敷に入るより先に厩舎へ向かった。
 まだアナトールとヴィヴィアンに顔を合わせる勇気がなかったこともあるし、馬たちが心配だったせいでもある。
 風がますます強くなってきて、まだ遠いけれどどこかから雷鳴がとどろきはじめていて、エヴァは身震いした。
 早足に柵を越えたエヴァは、古い木造の厩舎へ向かった。
 三頭のうち二頭の馬がまだ外を歩き回っているのが見えて、エヴァはそのうちの一頭に駆け足で近寄った。
「どう、どう……」
 天候の変化を察しているらしい茶色の馬が、ヒンヒンと鳴きながらエヴァに向かって顔を寄せてくる。
「おびえなくていいのよ、恐がりな子ね」
 エヴァは繊細な雌馬のたてがみをなでながら、ぐるりと周囲を見渡して状況を確認した。もう一頭の馬が、まだずいぶん遠くを歩き回っている。気難しがりやで気性の激しい、黒い雄だ。ヴィヴィアンはこの馬を密かに「サタン」と呼んでいるくらいだった。
 早くこちらに呼び戻さなくてはならないが、それには根気と覚悟と時間がいるだろう。それよりも先に、この大人しい馬を戻してあげなくては。
 とりあえずできることから、がエヴァの信条でもあった。
「さあ、まずあなたを馬小屋に帰してあげましょうね」
 エヴァは茶色の雌馬を言葉でなだめながら、厩舎の方へ誘導しはじめた。最初は少し戸惑いをみせた馬も、エヴァの穏やかだが確かな声に導かれ、ゆっくりと歩き出す。
「そう、いい子ね。馬小屋には新鮮な藁もあるわよ、いらっしゃい」
 そうして厩舎の入り口に近づいたとき、エヴァは中に人の気配があるのに気が付いて顔を上げた。

 人の声がする、ような気がする。
 雌馬を気遣いながら耳を澄ますと、それが男性の声であるのが分かって、エヴァは思わず足を止めた──アナトールの声だと、姿を確認しなくてもすぐに感じることができた。
 できればこのまま遠くへ逃げてしまいたい。
 しかし、エヴァの手には臆病な雌馬がいて、空は早くも雨雲に覆われはじめているうえに、姉がサタンと呼ぶ癇癪持ちの馬がまだ外をうろついている。つまらない見栄のせいで、無駄にできる時間はあまりなかった。
 エヴァは心の底から勇気をかき集めると、厩舎へ足を踏み入れて中を覗き込んだ。
 入り口に背を向けたアナトールが、馬房の前に立って、中に収まっている馬に新鮮な藁を与えているところだった。アナトールの黒髪は無造作に乱れていて、シャツは乱雑にズボンにたくし込まれている。
 エヴァはなにか熱いものがのど元を上ってくるような感覚を覚えて、きゅっと口を結ばなければならなかった。
 するとアナトールは作業を続けながらふと顔を上げて、後ろを振り返った。
「ヴィヴィアンか? エヴァはまだ──」
 とアナトールが言いかけたところで、エヴァは彼と目が合って、驚きに背筋をぴんと伸ばした。

 アナトールの瞳は充血していて、まるで何日も寝ていない人間のように乾いてるように見えた。彼はエヴァを見つけると、しばらく口をぽかんと開けたまま、その場に硬直して動かずにいた。
 しかし、アナトールの頬の筋肉だけは、なにか言いたげにひくひくと痙攣している。
 エヴァも同じように、わずかに開いた口を閉じられないで立ち尽くした。

「エヴァ?」
 アナトールは手にしていた藁を積むための熊手を地面に落とすと、エヴァの方に向き直った。その表情はどこか恍惚としていて、エヴァはどう反応していいのか分からずに戸惑った。
 たった半日留守にしていただけなのに、なにがあったのだろう?
 アナトールはたったの三歩で厩舎の中を横切り、エヴァの前に立った。
「いままでどこに行っていたんだ? 半日も……どこも、なにもないか? 大丈夫か?」
 急な質問の連続に、エヴァはぱちぱちと瞳をしばたたいた。
 置き手紙を残してきたはずなのに。たった半日いなかっただけなのに、どうしてまるで一週間も行方不明だったように扱われるのだろう。
 アナトールは素早く、エヴァの頭のてっぺんから爪先までに確認するような視線を走らせ、なにもないのを見極めると、長く深いため息を漏らした。
「なにもないんだな?」
 アナトールの声があまりにも真剣だったので、エヴァは少し可笑しくなってしまったくらいだ。
「え、ええ。なにもないわ。崖から落ちたりもしていないし、馬車に轢かれたりもしていない。この田舎街で、そんな心配することは起らないものよ」
 突然、幼なじみからプロポーズされるのを除いては。
 と、エヴァは心の中だけで呟いた。
 しかしアナトールはまだ納得がいかないような顔で、じっとエヴァを見下ろしている。あの、いつもエヴァを熱くさせる、真剣な瞳で。
 なにかがあると、エヴァは気が付いた。

「わたし……置き手紙をしたわ」
 エヴァはまるで言い訳をするようにささやいた。
「知ってる」
 アナトールは即答した。「とは言っても、ヴィヴィアンはそれを俺に読ませてくれなかったけどね。服の中に隠して、俺に触れられないようにしたんだ。今日一日中、この手がヴィヴィアンの首を絞めないようにするのに、どれだけ忍耐が必要だったか、想像もつかないだろうな」

 大きな両手が本当になにかを握りたそうに、アナトールの両脇で動いている。
 エヴァはあんぐりと口を開けて言葉を失った。

「君はどこに行ったんだと聞くたびに、君の悪魔のような姉さんは、俺に違う答えを言っては困惑させた。いわく、君はロデオ大会に行った、興奮した牛に刺されなければいいが、とか」

 そのアナトールとヴィヴィアンの会話を想像して、エヴァの顔はほころんだ。
「それを信じたの?」
「いわく、君はもう帰ってこないつもりだ、修道院に入ると書いてあって、切った髪が一房添えられていた、とかね」
 エヴァはついに笑い声を漏らした。
「姉にはもう少し想像力が必要なようね」
「まったくその通りだな。そして君は、もう少し正直になったほうがいい」
 アナトールのはっきりした声に、エヴァの笑いは止まった。どういう意味で言われたのかが分からなくて、わずかに緊張する。

「べつに……街へ行っていただけよ」
「あんなに朝早くから?」
 ──どうしてそんなことを気にするの? エヴァはそう叫びたい気分になっていた。アナトールが心配してくれていたのは分かる。ヴィヴィアンの悪戯に、気が立っているのだろいうというのも、分かる。
 でも、こんなふうに気にかけてもらったら、勘違いしてしまう。エヴァにもまだ機会はあるのだと、思い込みたくなってしまう。それだけは避けたかった。
 傷つきたくなかった。
「ジョンのところに行っていたの」
 エヴァは短く答えて、それ以上この話題は続けなかった。「もうすぐ強い雨が来るわ。半日くらい続く嵐になるかもしれないの。馬を中に入れましょう」

 そのとき、アナトールが傷ついたような顔をしたのに、気付かないはずはなかった。厚い胸板がすっと深く吸い込んだ息に膨らみ、筋肉質な肩が緊張に固くなるのが、シャツ越しにも分かる。
 エヴァはその気迫に、うなじの毛が逆立つのを感じたほどだ。
 しかしアナトールはしばらく黙ったのち、エヴァの言葉に従って雌馬を馬房に入れるのを無言で手伝ってくれた。
 途中、二人の手が触れ合いそうになって、エヴァは思わず火傷をしたかのようにパッと手を引いた。すると今度のアナトールは、もっと明らかなショックを見せた。
 エヴァはそれを見ていられなくて、雌馬をアナトールの手にゆだねると、馬具を探しに厩舎の端の壁へ向かっていった。
「まだ外にいる一頭は、とても気難しがりやなの。手綱と鞍をつけて、乗ってあげないと戻ってきてくれないはずよ」
 背後でアナトールがうなづくのを感じた。「俺がやろう」
 この数日で、アナトールの馬術がかなりのものであることは分かっていたが、エヴァは首を横に振った。
「わたしがやるわ。わたしのほうが慣れているもの」
 エヴァは革製の鞍を持ち上げ、脇に抱えて振り返った。──アナトールはじっとエヴァを見つめている。
 いつものように。
「俺が持つよ。そのほうが早く済む」
 馬房を閉めると、アナトールは口だけ動かすような要領でそう告げて、エヴァの心を射るようなあの瞳を、ずっと離さずにいた。

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