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19. Thunder
しおりを挟むさらに強くなりはじめた風が大地から土を舞い上げて、牧場の風景を埃っぽく陰らせていた。
アナトールと一緒に厩舎から出たエヴァは、まるで反抗するように柵の最先端のほうへ逃げて行く黒い雄馬、通称サタンを呆然と見つめた。ぶるんと背を振るわせて足を踏み鳴らす姿は、遠目からでもいかにも不従順そうに見える。
エヴァは深いため息を吐いた。
「あの子はきっと、馬小屋に連れ戻されると分かって逃げているんだわ」
エヴァの説明にアナトールは肩をすくめて見せた。
「やっぱり俺が乗ったほうがいいんじゃないのか?」
その提案に、心惹かれるものがあったのは隠せない事実だ。しかし、エヴァはまだアナトールに頼りたいような気分ではなかった。一度彼を頼りだしたら、きっともっと、もっとと求めてしまいたくなる……それは賢明ではない。
「いいえ、わたしのほうが慣れてるし、あの子もわたしのほうをよく知っているもの」
二人は黒馬へ向かって歩き出した。
アナトールの大きな歩幅に追いつくためには小走りに走る必要があって、エヴァは焦った。重い鞍を持っているのもアナトールなら、今まで力仕事をしていたのもアナトールなのに、エヴァのほうが彼との距離を調整するために急いでいる。
エヴァはアナトールの後ろ姿を追いながら、その大きな背中に触れられたら、どんな感じがするんだろうと想像せずにはいられなかった。
そっと寄りかかることができたら、どんな心地がするんだろう。
どんな香りがして、どんな感触なんだろう。
あたりがだんだん暗くなりはじめて、まるで、この地上に存在する人間は彼女とアナトールの二人だけなのではないかと思えてくるほど、閉鎖的な雨雲が空にたちこめてくる。エヴァは息を切らしながら走った。
先にサタンに追いついたのはアナトールだった。
すぐに鞍を乗せようとはせず、なにかをささやきながら雄馬をなだめていたが、長い尾は強く振られていて、あくなき反抗を示している。
「どう、どう」
エヴァもすぐアナトールの横にたどり着き、サタンを落ち着かせるのに協力した。「賢い子ね、あなたは、嵐になるのが分かっているんでしょう。馬小屋に戻ったほうが利口だってことも、分かっているわよね?」
激しい鼻息が返事として返ってきた。
「かわいそうに。でも、時には思い通りにならないこともあるのよ」
するとサタンは、顔を持ち上げてぶるぶると首を振って、エヴァの意見にはまったく賛成できないと反論してみせた。
アナトールが低い笑い声を漏らす。
「馬鹿だな。女性の意見には嘘でも賛成するふりを見せたほうがいいんだよ」
エヴァはキッとアナトールに顔を向けた。アナトールはすでにエヴァを見つめている。そして付け加えた。「相手が美人なときは、特にね」
エヴァはどう反応していいのか分からなくて、アナトールから顔をそらすことしかできなかった。
「鞍を……つけてくれる? 雨が来るまでもう時間がないわ」
エヴァはできるだけサタンの艶やかな黒毛を見つめることに集中して、アナトールを見ないように努力した。ほんの少しの間があって、アナトールは鞍をサタンの背に乗せる作業を始めた。
手綱のための水勒を頭部にはめるのは二人掛かりでも楽な仕事ではなかったが、まだ雨の始まる前になんとか終わらせることができて、エヴァはアナトールの手を借りてサタンに乗った。
そのとき、アナトールの乾いた声が呟いた。
「ジョンっていうのは、あのひょろ長い男のことかい?」
エヴァはジョンの細身で背が高い容貌を思い出して、たしかにそういう言い方もできるかもしれないと納得した。
「ええ……彼を覚えてるのね」
「半日も、彼のところでなにをしてたんだ?」
アナトールの疑問にエヴァを責めるような響きはなかったが、かといって、ただ静寂の隙間を埋めるためだけの雑談をしようとしている感じではなかった。アナトールの口調は固く、声は緊張しているようにさえ聞こえた。
勇気をふりしぼってアナトールを見下ろすと、彼はサタンの頬革を握りながら、エヴァをじっと見上げている。
エヴァの鼓動は痛いほど早まった。
「は、話をしていただけよ」
「どんな?」
矢継ぎ早な質問に、エヴァはわずかな苛立ちを覚えて、首を横に振った。
「なんでもないことばかりよ」
「例えば、どんな?」
「ねえ、もう戻らなくちゃいけないわ。急ぎましょう」
エヴァは手綱を引き、サタンを急かして厩舎のほうへ向かせた。いくらアナトールが力強いとはいっても、馬の動きを止めることまではできないから、彼は黙って頬革を持ちながらサタンの動きに合わせて歩きはじめた。
それでも、アナトールが質問を終わらせた訳ではないのは、エヴァにもよく分かっている。
二人と一頭は、ゆっくりながらも厩舎に向かって進んでいた。
サタンはまだ時々、嫌々をするように首を振ったり足踏みをしたりして不満足を訴えてきたが、それでも少しずつ納得してきたようだった。
実のところ、サタンがときおり小さな反抗で邪魔をしてくれたお陰で、エヴァはアナトールからの質問に答えないでいる口実を得ることができていたから、エヴァはこの頑固な馬に少なからず感謝もしていた。
しかし、厩舎が近づくにつれサタンの抵抗もほとんどなくなり、二人の間の沈黙はまた堪えがたい、重いものになってくる。
その思いはアナトールも同じだったのだろうか。アナトールは答えを求めるように、ちらりと馬上のエヴァを見上げた。
途端に目が合って、エヴァは、ずっとアナトールを見つめていたことがバレてしまったことに恥じ入って頬を染めた。しかし目は離せなかった。
まだ答えを求められているのだと、分かった。
それに、どこか心の暗いところで、エヴァはアナトールに知って欲しいと思っているのだ……。アナトールがどんな反応をするのか、知りたいと思っている自分が、いる。エヴァの口の中が、なにか酸っぱいものを食べたときのように湿りだした。
「き、今日はずっと、ジョンと話をしていたの」
と、エヴァは切り出した。
アナトールは驚きもせず、口も挟まずに、じっと聞いていた。まるで一言でも逃さないようにと、真剣に。
エヴァの手綱を握る手が固くなる。
言うべきか、言わざるべきか、迷ったのはほんの一瞬だった。
「け、結婚を申し込まれたわ……。彼はここから離れた場所に牧場地を買う予定で、一緒に来てくれないかと言われたの」
アナトールの目が見開かれた、その瞬間だった。
激しい雷鳴が天を裂くように轟き、強烈な光りが暗くなってきた大地に閃光のように走った。
ハッとエヴァが息を呑む間に、サタンが両前足を高く上げながら、声の限りにいなないて怒りをあらわにした。
「駄目よ、戻って!」
しかし、エヴァの叫びはサタンの耳には届いていなかった。
仮に聞こえていたとしても、反抗的なこの雄馬には、火に油を注ぐ結果にしかならなかっただろう。雷鳴を合図に、雨が降り出してきた。
サタンはもう一度自然に抵抗するようにいななくと、頬革を持ったアナトールを勢いよく振り切って、ジグザグに走りはじめた。突然の激しい野生の動きに、エヴァができるのは馬上にしがみついていることだけだった。
「エヴァ!!」
アナトールの叫び声が、雨の音に混じって聞こえた。
サタンは厩舎から離れると今度はまっすぐに遠くの柵へ向かって走りだした。柵へ、その先に続く草原へ、そして森へと。
エヴァを乗せたままで。
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