Dear You

泉野ジュール

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21. Venom

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 目を閉じる間もないほどの一瞬で、アナトールは蛇の首を絞めるような動作をすると、どさりと細長い爬虫類を地面に投げ捨てた。
 蛇はしばらくヒクヒクと身体の末端を動かしたのち、力尽きたようにゆっくりと動かなくなって、息絶える。
 そして沈黙が訪れた。

 アナトールはその場に仁王立ちしたまま、荒く肩で息をしている。
 裸の上半身に浮き出た血管が、ドクンドクンと強く脈打っているのをエヴァは感じた。いや、もしかしたら、強く脈打っているのはエヴァの心臓の方で、それを勘違いしているだけなのかもしれない。
「ア……アナトール……」
 エヴァが普通に声を出せるようになるまで、幾ばくかの時間が必要だった。「大丈夫? 怪我は……?」
 アナトールは答えずに、地面に横たわる毒蛇に顔を向けたままでいたが、視線はどこかぼんやりとしている。
 エヴァははっとして数日前のアナトールを思い出した。『シザーズ』での喧嘩のあと、「戦った後というのは誰でも興奮する。アドレナリンが出て、心臓が高鳴って、神経が高ぶる。……俺の場合は、これが特にひどい」と、その事実を、ひどく恥じるように告白したアナトールを。
 エヴァが無意識に一歩前に進むと、アナトールはやっと地面から顔を上げてエヴァの顔を見た。彼の瞳はたしかに興奮を示すように熱く燃えていたが、我を失ったような狂気は一切感じなかった。
 ほっと息を吐くと、エヴァはさらにアナトールに近づいて、彼の腕に触れた。
「怪我はしていない?」
 エヴァの問いに、アナトールは無言で首を振って答えた。
「でも、念のために見せて。もし噛まれていたら、早く治療しなくちゃ」
 そう頼んだエヴァに、アナトールはこれといった抵抗は見せなかった。かといって自ら腕をさらすようなことはなく、獰猛な毒蛇と戦いを終えたときの格好のまま、同じ場所にたたずんでいた。
 エヴァはアナトールが蛇を掴んだほうの腕を持ち上げて、怪我の有無を調べるために、上から下へと視線を滑らせた。
 大きな手はずっしりと重く感じる。
 力強く発達した二の腕。
 激しく脈打つ動脈。
 伝わる熱。
 わたしを助けてくれたひと。
 エヴァは胸にあふれる想いを持て余しながら、ゆっくりとアナトールの腕に傷ができなかったか確認していった──そして。
 アナトールの腕を持ったまま、エヴァはその場で固まった。

 小さな点状の傷跡が二つ、ひじじの下あたりにくっきりとできていた。血はほとんど出ていないが、すでに傷の周りを囲むように、青黒い輪のような跡が浮かんでいる。

 エヴァは息を止めながら顔を上げた。
 アナトールはまるでなにもなかったかのように、じっとエヴァの一挙一動を眺めていた。しかしその視線は、普段の彼よりずっと集中力を欠いているようで、漠然とエヴァの動きを追っているだけのように見える。
 どうしていいのかわからず、エヴァは呆然とアナトールを見つめた。
 あの蛇の毒がどこまで強力なのか、エヴァには想像がつかなかった。想像がつかないというより、想像することそのものが怖くて、深く考えることができなかった。
 アナトールは大きい。
 大柄で、たくましくて、若い。強い。
 だから大丈夫。
 だから……。
「心配しなくていい。ただのかすり傷だ、エヴァ」
 ぼんやりとエヴァを見下ろしながら、アナトールはそう呟いた。
「で、でも……」
 アナトールの視線は曖昧で、声は単調で、腕の傷はゆっくりとその青黒い輪を広げていっている。どうするべきなのだろう。
 毒を吸い出すべきなのかもしれない。昔、牧場を手伝ってくれていた一人が足を噛まれて、そうしていたのを覚えている。あの時の蛇は、もっとずっと小さかったけれど。
 決心とともに、エヴァが腕の傷跡に唇を近づけようとしたとき、アナトールはそっとすり抜けるようにエヴァから離れた。
「ア、アナトール?」
 なにをしているの、とエヴァが疑問を口にする前に、アナトールは怪我をしたのとは別の手でポケットからなにかを取り出したかと思うと、カチ、と音を立てて携帯用のナイフを広げていた。
 エヴァは悲鳴を上げそうになった。
 しかし、アナトールはそのまま、ナイフの切先を傷口に当てたときに一瞬だけ止まったあと、歯を食いしばると、勢いよく刃を肌にめりこませ、そして回転させた。
 泣き声のような、短いエヴァの悲鳴が洞窟に呑み込まれる。
 アナトールは血に濡れたナイフを無造作に地面に投げ捨てると、ふたたび肩で息を繰り返した。
 彼の腕からは血が流れてしたたり、指を伝わり、地面を濡らしはじめている。
 エヴァも彼と同じくらい、荒い息をしていた。
「どうして……」
 そんなこと、本当は聞くまでもない。
 エヴァには分かっていた。
「こうすれば、君が毒に触れなくてすむ」
 アナトールは呟いて、洞窟の天井を見上げると、そのままふらふらとした足取りで後退して、倒れるように壁に背を預けた。
 エヴァの瞳から涙が一筋流れて、「ありがとう」という感謝の言葉は口にすることができなかった。
 座り込んだアナトールは、片膝を上げそこに傷ついた腕を乗せて、激しく呼吸を繰り返している。そんなに荒い息をしていたら、肺が痛くなるのではないかと思えるほどだった。エヴァは彼の目の前に膝をついた。
「止血をしなくちゃ」
「もう少し……毒を出してからだ。全部は無理だろうが」
「でも……」
 では、今のエヴァにできることはないのだろうか?
 こうして彼の前に膝をついて、彼の身体から多くの血が流れて地面を濡らすのを見ているだけ?
 そんなわけにはいかない。エヴァは彼を助けなくてはいけない。
 エヴァ自身に医術の知識がほとんどないことを考えれば、今するべきことは助けを呼びに行くことだ。もしくは、アナトールを適切な場所まで運ぶこと。
 医者がいて、柔らかいベッドがあって、雨にさらされないところへ。
 こんな寂れた洞窟ではなく。
「エヴァ」
 立ち上がろうとしたエヴァを、アナトールの低い声が止めた。「行かないでくれ。ここに……いてくれ。俺の側に」
「でも、助けを呼ばなくちゃいけないわ」
「いらない。俺の助けは、ここにいる」
「少なくとも、屋敷にもどらなくては。馬には乗れる? わたしがあなたを支えるから」
「いいんだ、エヴァ」
 アナトールは首を振って答えた。「今、あの荒馬に乗ったら間違いなく頭から落馬する。君一人じゃ俺を支えきれない。俺は大きすぎる」
 アナトールの声に皮肉なユーモアの響きがあるのを感じて、エヴァは鼻をすすりながら静かな笑い声をもらした。
「ええ、あなたは大きいわ、アナトール・ワイズ。そのお陰で、きっと毒も回りきらないから、安心して」
 今度はアナトールが短く笑い崩れる番だった。
 彼の広い肩と、鎧のようにそれを覆う筋肉が、緊張からほどかれたように揺れる。しかし、アナトールの肌色は徐々に生気を失っていくようだった。唇は乾き、紫に染まりはじめている。
 エヴァがじっとその唇を見つめていると、アナトールは穏やかな口調になり、呟いた。

「君はいつだって、俺の中に光りを見つけてくれた」

 弾かれたように顔を上げて、エヴァはアナトールの瞳をのぞいた。
 もしかしたら、毒で意識が混濁こんだくとしているのかもしれないという疑いは、彼の目を見て一瞬で消え去った。アナトールの珈琲色の瞳はいつものようにじっとエヴァを見下ろしていて、そして、かつてなかったほどの優しさをたたえていた。
 エヴァが返事を見つけられないでいると、アナトールの怪我をしていないほうの腕がすっと伸びてきて、エヴァの髪を一房、すくった。
「どこにもいかないでくれ。死ぬならここがいい。君に見守られて、時々は優しくされたりして、そういうふうに死にたい」
 喉に大きな石が詰まったように苦しくて、エヴァは答えられなかった。
 アナトールはわずかに微笑みさえ見せながら、続ける。
「……くそ。そうだ、死なせてくれ。君が他の男のもとへ嫁ぐのを見るくらいなら、死んだ方がましだ」
「やめて」
 エヴァは髪に触れるアナトールの腕に自分の手を伸ばした。「そんなこと言わないで」
「ああ、言うとも。俺はずっと、俺にも希望があるんだと思ってた。小さな一筋の、取るに足りないおこぼれのようなわずかな希望でも、俺にもあると。君がそう思わせてくれた……それがなんだ。君は急に俺に冷たくなったと思うと、突然、他の男と結婚すると言い出した」
 まるで毒を吐き出そうとするような勢いの、アナトールの声だった。
 エヴァが反論しようとすると、アナトールはシーッと歯の間から音を出して、それを遮る。
「あの男に言ってくれ。もし君を不幸にしたりでもしたら、俺は自分の墓石を蹴り飛ばしてでも奴を八つ裂きにしに戻ってくる……もし、俺に墓石が与えられればの話だが」

 こんなに饒舌なアナトールは初めてだ。
 蛇の毒とは恐ろしい。

 エヴァはあっけにとられていたが、アナトールはまだ喋り足りないらしかった。「そして、俺は人間を八つ裂きにする方法を知っている。脅しじゃないぞ、くそ」
 もしかしたら、口を動かしていた方が楽なのかもしれない。
 そう思い直して、エヴァはアナトールの独白に小さくうなづいて見せた。
「あなたは死なないわ、アナトール。そんなはずがないのよ」
「ああ……早死にするのは、神に愛された人間だけだからな」
「そして、わたしはジョンと結婚しないわ。きちんと断ったもの」
「ああ……」
 と、言いかけて、アナトールは目を見開いて片方の眉を上げた。「なんだって?」
「わたしはジョンと結婚しないわ。きちんと断ったもの」
 エヴァは同じ台詞を繰り返した。
「ジョンのことは大好きよ……友人としてね。でも、結婚をするための愛じゃないの。だからお断りしました」
 アナトールは言葉を失ったらしかった。しばらく、肺を激しく上下させながら、エヴァの顔を見つめてなにかを考えているようだった。

 ──ええ、あなたは死なないわ、アナトール・ワイズ。
 わたしがいかせないから、そんなふうにいじけないで。

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