Forgiving

泉野ジュール

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本編

Forgiving 3 - A Proposal

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 The heart beats faster, as my breath goes deeper.

 次の日──。
 いつもより早めに会社に顔を出したあかねは、集中しなければいけないはずの仕事に、中々手を付けられないでいた。理由は、分かっている。昨日の夕方の、あの、突然あかねに話しかけて来た外国人のことが、頭から離れないからだ。
(ば、馬鹿みたい……っ! 仕事しなきゃ)
 そう自分を叱咤して、まとわりつく意識を消し去ろうと、あかねは首を振った。大体、自分はもう小娘ではない。大学も卒業した立派な大人だ。異性から声を掛けられることだって、少なくはなかった。あかねは特に飛び抜けた美女という訳ではなかったが、いかにもお嬢さんらしい可愛らしい顔立ちをしていたし、母親譲りの白く抜けるような肌を持っている。

(でも)
 明日、と彼は言った。

 一晩明けた今、それはまさに今日の事を指している。だからだ。だから、どんなに頑張っても、こうして意識から拭いきれないだけだ、と、あかねははやる鼓動をなんとか抑えていた。
 大体、冗談かも知れないし、彼の日本語はあまり流暢ではなかった。言葉の使い方を間違えただけ、というのも有り得る。あかねはそう何とか自分を納得させながら、慣れない書類仕事に没頭しようと、机の上に広がる紙の山とにらめっこをしていた。そんな時だ、まだ随分と早い時間──時計を見上げると、やっと8時半を回ったところ──だというのに、秘書の女性があかねの仕事部屋の扉を叩いた。

「はい、どうぞ」
 あかねが答えると、素早く扉が開かれた。現れた秘書は、色こそ地味なグレーだが、品質の良さそうな目をひくカットスーツと白いシャツを着込んでいる。長い黒髪を後ろで一つに束ねていて、三十代半ばだというのに、彼女の大きな瞳はいつも好奇心旺盛に輝いているのだ。
「おはよう、あかねちゃん。朝早いところをごめんなさいね」
「いえっ、鈴木さんこそ……早くからご苦労様です」
 社長とその秘書のもの、という感じの会話ではない。
 しかし、これは軽蔑だとか、彼女があかねを軽んじているからだという訳ではなく。ただ、鈴木はあかねの父が存命だった頃からの知り合いなので、当時の癖がそのまま残っているだけだ。しかし今朝に限って、この秘書はなぜか軽く興奮した様子で、顔を上気させていた。
「実は、もう下にお客様が見えているの。アポイントもなく急にいらっしゃったんだけど、あかねちゃんに会いたいって言うの。心当たりあるかしら? 外国の方よ。イギリス人ですって」
「え!?」
 あかねは音を立てて椅子から立ち上がった。
 その、あかねらしからぬ動向に、秘書はまた好奇心旺盛に目を輝かせる。
「おまけに、あかねちゃんだけじゃなく、役員の方も手漉きだったら出てきてくれないか、なんて言われちゃったのよ。とりあえず三島さんが捕まったから呼んでおいたわ。凄く礼儀正しい感じの男性だったから、変な人ではないと思うのだけど……名刺もきちんとしていたし。ケネス・リッターさんと仰るそうよ」
「はあ……」
「一階の応接室にお通ししておきましたから」
「分かりました、すぐ、行きます」
 目を見開いたままこくこくと頷くあかねに、応援するような笑顔だけ残して、鈴木は足早に部屋を後にした。


 なんと……いくら何でもこんなに朝早くに来るとは思わなかったから、秘書が去った後、あかねはしばらく放心したまま動けないでいた。確認した訳ではないが、きっと昨日のあの男と同一人物だ。昨今外国人など珍しくもないけれど、昨日の今日で、しかもあの男性は確かにイギリスアクセントの英語を使っていた。

(わたしじゃなくて、会社に用、だった……の?)

 あかねは机の横にある鏡に自分を映して、身だしなみを整えた。肩まで伸びた髪をなで付け、襟元を直す。その日のあかねはシンプルな白のシャツにベージュのスカートといういでたちで、それは中々、あかねの女性的な雰囲気によく似合っていた。
 鏡の前で格好を決めると、小さく短い息を吐いて、あかねは応接室に下りるため部屋を後にした。

 早足で階段を駆け降り、応接室に入ったあかねを迎えたのは、やはり……昨日の男性と同一人物だった。背の高い黒髮の外国人。
 薄いグレーのスーツが彼の身体に完璧に合っていて、否応なしに高級感を醸し出している。
 ソファがあるというのに彼はそれには座らず、扉に背を向けて立ったままで、あかねが部屋の扉を開けると、肩越しに振り返った。
「また、アイマシタね。ミス・イチジョー」
「はい……昨日は」

 男性は、いや、今はケネス・リッターという名前を既に知っているのだが、それだけ言うと可笑しそうに目を細めて、もと見ていた壁に視線を戻した。
 この応接室はそれなりの広さがあり、白を基調に、ソファ、接待机と椅子、観葉植物が配置されている。壁紙も白で揃えられていた。窓が扉から真正面側に大きくとられていて、そこからちょうど隣の公園が見渡せる造りになっている。これがこの応接室の「売り」といえる箇所だ。大抵の客人は、待ちの時間があるとこの窓からの景色を楽しむ──しかしこのケネスが見ていたのは、全くの別物だった。

「それは、私の父の写真です。先日亡くなりました」

 ケネスが見ていたのは窓からの景色ではなく、その窓枠のそばに飾られた、あかねの父の記念写真の一つだった。
 存命中、とある海外の政治家と一緒に撮ったもので、箔付けと、来客者との会話のきっかけを作るために、そんな写真が幾つか細いフレームの額に入れられ飾られている。その一つだ。
 しかしケネスは、あかねの言葉になにも答えなかった。もしかしたら意味が通じなかったのだろうか、と思って、あかねは英語に切り替えた。

「It's my father」
 そう、あかねは教えてみた。ケネスはじっと写真を見たまま視線は動かさず、静かに答える。
「I know. I'm sorry for your loss」

 まるで映画で聞くような見事なイントネーションに、あかねは背筋がビクッと震えるのを止められなかった。分かってはいたがケネスの母国語は間違いなくイギリス英語で、日本語はある程度かじっただけ、というレベルのようだ。声色さえも少し、英語と日本語の間で変わる。
「英語でお話した方がいいですか? それほど流暢ではありませんけど、きちんと喋れます。これから来る社員も、ある程度は喋れますから」
 あかねが英語でそう言うと、ケネスはやっと振り返って、また少し目を細めた。
「ええ、助かります。きちんと勉強したつもりだったんだけどね、実際に使うのは今回が初めてで、やはり難しい。そうして貰えると有難いです」
 ケネスもまた英語で答えた。しかし、ネイティブではないあかねを気遣うように、一語一語をはっきりと発音しながら。
「ケネス・リッターです。突然の訪問をお許しいただきたい。どうにもせっかちな性質で」
「一条あかねです、ミスター・リッター」
「知っています。わたしのことはどうか、ケネスか、ケンとでも」
「い、いえ……」

 あかねは戸惑いに頬を赤く染めた。
 女性としてならともかく、一つの会社の社長としてあるべき態度とは言えないだろうが、その時はどうしようもなかったのだ。ケネスの口調は丁寧で、でもどこか、有無を言わせないような強い響きがあった。突然ファーストネームを呼べと言われるのも、日本人のあかねには慣れない。おまけにケンはケネスの愛称だ。
「と、あまり真剣に取らないで下さい。ケン、は、日本語にも同じ名前があると聞いたので、それが言い易いだろうと思ったんですよ」
 そんなあかねの戸惑いに気が付いたのか、ケネスは肩をわずかに竦めて、そう言った。
「日本語、勉強していらっしゃるんですか?」
 あかねが訊くと、ケネスは一瞬だけ窓の方を見て、すぐに視線をあかねに戻すと答える。
「少し嗜んでみた程度ですけどね。挨拶くらいはと思って」
「とてもお上手でしたよ」
「それはどうも。あなたの英語も中々だ、ミス・イチジョー」

 そんな社交辞令としか言いようのない会話が、それから少しの間、続けられた。
 ケネスは常に礼儀正しく、あかねの彼に対する警戒心は徐々に解け始めていった。しかし、逆に、疑問はだんだんと増えていく。彼は何をしに来たのだろう、と。ただビジネスの為だけという感じではない。かといって、あかねを誘惑しようとするような素振りも皆無だ。あえて言うのならば、まるで、久しぶりに遠い親戚を訪ねにでも来たかのような態度、だろうか。
 けれど、ケネスの視線はあかねを探るようにぴったりと彼女に張り付いて離れない──あかねは、どくどくと鼓動がはやるのを必死で抑えていなくてはならなかった。

 しばらくすると、ケネスとあかね、二人きりだった応接室の扉が叩かれた。
 あかねが「どうぞ」と言うと入ってきたのは、三島ともう一人の役員、そして秘書の鈴木の三人だった。
「遅れて申し訳ありません、ミスター・リッター、でよろしかったでしょうか。わたしは三島と申します」
 三島が英語でそう名乗りながら、ケネスに手を差し出した。ケネスも、滑らかにそれを握り返す。

「いえ、こちらこそアポイントもなく、勝手に申し訳ない。迅速な対応に感謝します」
「どうぞお座り下さい、ミスター・リッター。鈴木、お茶のお代わりを」
「はい、今直ぐ」

 三島はケネスを含む全員に、席を勧めた。あかねは今の今まで気がつかなかったが、よく見てみると応接机の上に手付かずのお茶が一杯置かれており、すでに冷たくなりかけていた。
 三島、もう一人の役員、ケネス、そしてあかねの四人は、そのまま席に付いた。
 突然の訪問者であるにもかかわらず、三島の対応は堂々としたものだった。彼は、あかねの父が会社を興した当時からここで働いていた人物で、会社がそれなりの大きさになったのも彼の助けがあったからだと、父はよくあかねに漏らしていた。年の頃は既に六十になるが、四十代後半と言っても通じるような、精悍な容貌をしている。

「それで、今回はどういったご用件で?」
 全員が座ると、ゆっくり、しかしはっきりした口調で、三島はケネスに切り出した。
 その場にさっきまでとは別の緊張感が流れる。仕事の話が始まったのだ。ケネスの顔付きも、もっと真剣なものに変わった。
「その前に……もう一度自己紹介をさせて頂きたい。私はケネス・ウィリアム・リッター、イギリス人で実業家をしています。主に貿易などを。マルチ・ビリオネアとは言えませんが、それなりの資産はあるつもりです」
 ゆっくりとそう言って、ケネスは胸のポケットから名刺を三島に差し出した。
 三島がそれを見た。すでに鈴木から見せられているはずだが、本人の手から渡されると、また少し実感が違うのだろう。
 ケネスは続けた。
「今回わざわざイギリスから日本へ来た理由は、あなたがたです」
「ウチと取引をなさりたい、と」
「取引というべきか──融資をさせて頂きたいのです。失礼ですが、ミスター・ミシマ、現在この会社はあまり芳しい状態とは言えませんね」
「この会社だけではありません。日本の経済自身が難しい状況なのです」
「そうとも言えます。しかし、あなたがたに悪い話ではないはずです」
「悪いどころか、これ以上素晴らしい話はないくらいです、ミスター・リッター。しかし……」
 三島はそこまで認めて、一旦言葉を止めた。日本人にしてははっきりした顔立ちの三島の瞳には、明らかに疑問が浮かんでいて、ケネスはそれを予想していたように質問をさえぎった。
「なぜ、と仰るのでしょう。なぜわたしがこの一条グループを選んだのか」
「平たく言わせていただければ、そうです」
「理由は単純です。正直、確かに、あなたがたと同じような会社は日本にいくらでもあります」

 そう言って、ケネスはゆっくりと、三島に向けていた視線をあかねに移した。
 あかねはといえば、彼らの話を聞きながらも、戸惑っていた所だ。まさに昨日まで咽から手が出るほど欲しかった融資話が、今、目の前に据えられている。けれど理由が分からなくて、上手く事情を飲み込みきれない。
 二人の視線が合って、ケネスは口元を緩めて微笑んだ。その表情にはまた、笑顔であるはずなのに喜びを感じさせない、不思議な雰囲気があった。
「わたしの理由は、あなたです、ミス・イチジョー」
「え……」
 ケネスの抑えたバリトンの声に、あかねは背筋をぴんと張り直した。
「アカネ・イチジョー、わたしは貴女が欲しい。だからわたしはあなたと、あなたの会社が必要としている融資を申し出ているのです」
 ──それは低く、厳かで、でもどこか冷たい声。
 あかねが返す言葉もなく絶句していると、三島が横から質問を返した。
「それは……どういう意味でしょうか? 彼女をヘッドハンティングなさりたいと……?」
 その声には、疑問と当惑がありありと浮かんでいた。そんな筈がないと言いたげでさえある。それもそのはず──あかねは社長と言っても着任してまだ数日、形ばかりの立場で、実績らしい実績は何もない。三島本人の様な優秀な社員をケネスが欲しがるのならまだしも、あかねをビジネスの為に引き抜くとは考え難い。
 そうすると思い当たる理由は一つだけだが、それを易々と口に出来るほど、三島は前時代的な人物ではない。
「違いますよ。まぁ、ある意味そうかも知れませんが」
「それでは……」

 ケネスの視線は、三島と話しながらもあかねに向けられたままでいた。
 しばらくの沈黙のあと。ケネスはおもむろに立ち上がると、正面に座るあかねの前まで進み出た。あかねが慌てて立ち上がろうとすると、ケネスは「待って」と低く言ってそれを遮る。

 ケネスはあかねの目の前で片膝を折った。
 ──今時、たとえ外国であろうと、映画以外では滅多にお目にかかれない仕草だ。しかしそれが何を意味しているのかは、あかねにもすぐに分かった。

 心臓が、壊れてしまったのではないかと思えるほど高鳴って、頭に血が上る。
 固まって動けなくなってしまったあかねの前で、しかし、ケネスは滑らかに先を続けた。

「アカネ、わたしと結婚して欲しいのです」

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