太陽と月の終わらない恋の歌

泉野ジュール

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O Holy Night

05

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 華やかに朝の訪れを告げる陽光。
 日の終わり、悠然と地平線にうかぶ夕日。太陽はいつだって強烈にその存在をつきつける。

 月は違う……。
 いつのまにか薄っすらと空に浮かんで、静かに佇んでいる。

 気がつけば私たちを照らしている、優しい光。



【太陽と月の終わらない恋の歌 O Holy Night 5.】



 ダヴィッドは息を呑んだ。

 驚くべき理由はいくつもあったが、それでも最もダヴィッドを動揺させたのは、自分が「驚いた」という事実そのものだった。

 もう、どんなことにも動じなくなって久しいはずなのに、たった一人の路地にうち捨てられた少女を前に、頭を殴られたような衝撃を覚えたのだ。
 それは不慣れで、しっくりこない感覚で、ダヴィッドは落ち着きを取り戻すまでに数秒を要した。

 腕の中の少女は、その間も、徐々に呼吸を弱らせていった。まるで命の灯火をすり減らしながら息をしているようで、ぼんやりと開かれた瞳のほかに、彼女の生命力を感じられるものはほとんどない。

「しっかりするんだ、目を閉じないで──」
 ダヴィッドは少女の耳元に囁くように言った。

 彼女を包むぼろきれをあらためて探ると、まるで川か海にでも落ちた後のようにぐっしょりと濡れているうえに、外側は寒さにより凍りかけていて、はがそうとするとパリパリと乾いた音がするほどだった。

 これは奇跡としかいえない。
 ほんの少し……例えば十分、ダヴィッドが通りかかるのが遅れていれば、少女はもう息をしていなかったはずだ。小さな身体はすでに震えることさえ放棄していて、最期のまどろみに身を任せているような状態だった。

 濡れたぼろきれを剥ぎ取ると、ダヴィッドは背にしていたマントで素早く少女を包みなおした。

 はちみつ色の瞳はぼんやりとダヴィッドを見つめ返していて、身体はもう動かせないのか、すべてダヴィッドのなすがままにされている。医師の元へ、と一瞬、思ったが、すぐに打ち消さねばならなかった。こんな時間に駆け込める医院も、こんな裏路地に呼びつけられる医師もいない。

 では、自宅に?
 屋敷まで連れ帰らねば、彼女が助かる見込みはなさそうだった。

 それはつまり、ダヴィッドが自身に課していた原則を破ることを意味している。
 自分の領域に他人を入れないという、鉄壁の規則を……唯一の例外はバトラーだったが、彼には彼で執事という仕事があって、それで屋敷にいるのだ。何の理由もなく、誰かを自分の個人的な空間に入れることを、ダヴィッドは今この瞬間まで許していなかった。

 しかし、少女の瞳はダヴィッドをとらえていて、離さない。
 弱々しく、でも、確かに。

 彼女の肌はうす汚れていて、顔色さえ分からない状態にも関わらず、瞳だけは静かに揺れている。
 マントを脱いだことで、ダヴィッドは外がどれだけ寒かったのかをあらためて実感したが、背筋に汗が伝うのを止められなかった。
 俺は何をしようとしている?

 マントごと少女を抱いて立ち上がると、あまりの軽さにダヴィッドは少し後ろへ傾いてしまうほどだった。
 ──それも決心を揺るがす理由にはならず、かえって保護心をくすぐるだけで。

 ダヴィッドは、腕に力をこめると、体温を分け与えるように少女へ顔を寄せた。彼女の頬の辺りで遊んでいた金髪が、やわらかくダヴィッドの肌をくすぐる。

 ちくしょう、と再び心の中で毒づいて、ダヴィッドは少女を抱いたまま呟いた。

「俺と来るか」

 それは、ダヴィッドでない誰かが勝手に彼の身体をあやつって出したのではないかと思うほど、唐突に口をついて出た言葉だった。少女は答えないし、聞こえているかどうかも曖昧だ。栄養不足で耳が聞こえなくなる孤児を山ほど知っている。

「大丈夫か……?」
 と、抑えた声で今一度聞くと、少女は静かにまばたきをした。
 ただの、まばたきだった。

 本当に、生きていればどんな人間でもする種類の、つまらない動作の一つ。一生のうちに何億回するのかも知れないのに、心に留めることなど一度もないような、ささやかな動き。
 それでもそれは、ダヴィッドの心を動かすのに十分だった。

「嫌でもいい」とダヴィッドは言った。「今夜だけは俺の所に来るんだ」

 そして、自らが与えたマントの中から少女の手を探り取ると、肩に回してダヴィッドにしがみつくような格好にさせた。そして素早く馬に乗った。手綱をつかみ、少女を抱えたまま馬の背を叩く。馬は賢く命令を理解して、小さないななきを上げて走り始めた。

 ダヴィッドは少女を吹きつける風から護るように抱きながら、再び呟いていた。
「お前を救ってやるから」



 どうやってあの騒動から抜け出したのか、バトラーは主人のダヴィッドより先に屋敷に帰っていて、優秀な使用人らしく主人の寝室の暖炉に火をおこしているところだった。

 盛大な足音を立てながら寝室へ入ってきたダヴィッドを肩越しに振り返り、判で押したようないつもの台詞──「お帰りなさいませ」──を言おうと口を開きかけた瞬間。

 バトラーは異変に気が付いた。
 ダヴィッドが、何か大きな荷物を抱えて帰ってきた。

 中身は分からなくても、それが眠れない夜を約束するものであるということだけは、直感できた……。案の定、ダヴィッドは彼らしい低い声で、バトラーに指示を与えた。

「屋敷中のシーツを集めろ、バトラー。それからタオルと、湯を沸かして温かい飲み物を作れ。今すぐだ」

 早口にそうまくし立てると、ダヴィッドは腕に抱いていた荷物をベッドの上に降ろした。細い肢体が現れ、流れるような長い金髪がベッドに広がるのが見える。バトラーは唸りそうになった。
 もう夜も深いが、少しくらいは仮眠が取れると思っていたのに。

「一体何を持ち帰っていらしたんですか。子供たちへの取り計らいは、市警に任せると仰っていたのでは?」
「つべこべ言っている暇があったら、今すぐ俺の言ったものを用意しろ、バトラー! 女中を一人起こしてきてもいい。それから着替えと……」

 とまで言って、ダヴィッドは混乱したように髪をかきあげ、黒の怪盗のマスクを投げ捨てた。

「とにかく何でも一切がっさい、凍死しかけている子供に必要そうなものを全て用意しろ」

 外は街中が凍りつきそうなほど冷えているというのに、ダヴィッドの額には汗が光っていた。分かりましたと呟くと、バトラーは投げ捨てられたマスクを拾い、大股で部屋を出ていく。

 まったく、何ということだ。
 主人に言われた通り、シーツを集め、タオルを用意し、離れに寝泊りしている女中を起こしに行って、湯の用意をはじめながら、バトラーは古いことわざを思い出していた。

『上手くいった仕事のあとほど、用心しろ』というのを。



 屋敷に辿り着くまでの道のりは、普段ならそう長くはかからないが、凍えきった少女にとってはそうではなかったようだ。

 ベッドに横たえられた少女は、もう呼吸も確かではない。
 はちみつ色の瞳も今はもう閉じられていて、動かない。

 いまだかつて、ダヴィッドをこれほど混乱させたものはなかった。暖炉と燭台の明かりに照らされた少女は、裏路地で見たときよりもずっと痩せこけて、生気を失っているように見える。

 バトラーがシーツを用意するまでの間、ダヴィッドは寝室の中で思いつく限りのものを彼女に与えた。
 衣装箪笥をひっくり返すように開け、温かそうなシャツを見つけると何枚も被せてやった。中には目玉が飛び出すほど高価な品もあったが、ダヴィッドは構わなかった。

 しばらくすると、やっとバトラーと女中が寝室に入ってきた。
 女中の持つ盆に乗った、蒸気で温めたタオルを奪うように取ると、ダヴィッドは飛ぶような速さでベッド脇へ戻って少女の額を清め始めた。
 幸いマントは少女を包むのに脱いでいたし、マスクも外してあったので、女中の目に映るダヴィッドはただ、黒の衣装で舞踏会に出た帰りの紳士……くらいに見えるだろう。ひどく取り乱しているのをのぞけば。

「まぁ、お可哀想に」
 女中は少女を見て、首を振りふり、嘆くように言った。

「早く着替えさせて、お医者さまを呼ばなければなりませんね。それも、とびきり腕のよいお医者さまを……!」

 ダヴィッドが少女の顔を拭き終わると、汚れと垢に隠れていた彼女の肌が輝きだした。

 まさに、輝きだしたというのがぴったりくる、真っ白な雪のような肌だった……それが、寒さで青白く染まっていることで、まるで高価な瀬戸物の人形のように光っていて、絵画から抜け出してきたようだ。
 そのうえ現れたのは、驚くほど長いまつげと、綺麗な弓形をかいた眉、そしてすっきりとした頬骨……。

 どう控えめに見ても、少女はかなり器量がいいらしかった。

 ダヴィッドの脳裏に、今夜聞いた別の少女の言葉がよぎる。たしか、特別の客にだけ披露する予定だった上玉の少女が、逃げ出していた、と。四日ほど前だと言っていたか。


 四日間……。
 この寒さの中で?


 ダヴィッドは素早く少女の服を確認しようとた。汚れきっていたので特別注意を払っていなかったが、もしかしたら。
 ゆっくりと被せてやっていたシャツをめくり、皺くちゃになっているドレスを見てみると……。

「くそ!」
 気付くと、ダヴィッドは声に出して罵り言葉を吐いていた。

 少女の服は、黒く汚れてはいたものの、競売にかけられていた子供たちが着ていたのと同じお仕着せ服だった。つまり、ダヴィッドは彼らの一人を拾ってきたのだ。

「ああ、まず、お体を拭きますわ……それから、今すぐお医者さまが必要でしょう」
 女中は年配で、滅多なことには動じない物静かな人物だったが、少女の状態をみるときっぱりとそう断言した。

「ダヴィッド様、私が行って参りましょうか。ガーランド医師なら来られるかもしれません」
 バトラーが提案した。

 ガーランド医師は確かに優秀な医師だったが、高い治療費を出せるだけの成人を患者対象としたプライドの高い男で、子供は苦手だと言っていたのを覚えている。夜中に呼び出され、ぼろぼろになった凍死寸前の少女を見てくれなどといえば、間違いなく渋い顔をするはずだ。

 それに、どうしてか分からないが、ダヴィッドはガーランドのような男にこの少女を委ねたくなかった。
 誰か、信頼の置ける者でなければ……。
 誰か……。

「いや、俺が呼んでくる……腕のいい小児医だ。この時間なら、多分起きているだろう」
 あまり酒を飲んでなければいいが、と言いかけたのを、ダヴィッドは飲み込んだ。

「それまで、この子を死なせないでやってくれ」

 そう言い残すと、ダヴィッドは踵を返して、走るように寝室を出ていった。
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