太陽と月の終わらない恋の歌

泉野ジュール

文字の大きさ
25 / 33
O Holy Night

11

しおりを挟む
 どこかへ深く、落ちていくような感覚がした。

 底のない谷間に吸い込まれて、果てしなく下へ下へと落ちていく感じだ……。最初こそ鼓動が速まったものの、目を閉じて、ゆっくり落ちてゆくに身を任せていると、しだいに心地良くなっていく。

 そして最後に、どこかへ投げ出されるように柔らかい地面に着地する。
 どこか……とても安心する場所に辿り着いたような感じがした。

 マノンを抱きしめた時、ダヴィッドを襲ったのは、そんな果てしなく甘い感覚だった。

 どのくらいの間、マノンを抱きしめたままでいたのか、覚えていない。
 しかし、子供はずっと同じ姿勢でいるのが苦手なものだ。ずっとダヴィッドの胸に身を任せていたマノンだったが、いつの間にか所在なさそうに身をよじりはじめていた。

「ん……ダヴィッド……」
 そう言って、顔を上げる。
 潤んだ大きな瞳に見上げられて、ダヴィッドは少し腕を緩めた。ついでに顔まで無意識に緩んでしまっていたのは、蛇足だが。

「どうした?」
「ダヴィッドは……あの、変なひとたちの仲間じゃない……でしょう?」
「違うよ」
 ダヴィッドは苦笑を浮かべながら答えた。
「夜中に馬を駆っていたら、布に包まっていた君を路地で見つけたんだ。放っておいたら病気になってしまうから、ひとまず俺の家に来てもらったという訳だ。迷惑じゃなければいいが」
「うん」
 マノンはすぐに答えた。
 ダヴィッドの穏かな話し方に安心したようで、微笑してみせる。そして手元のロケットに視線を戻した。

「助けてくれたのがダヴィッドで……よかった」

 そうだ──と、ダヴィッドは思った。君を助けたのが俺でよかった。

 たとえもうすぐ手放さなくてはならない存在だとしても、今夜、こうして彼女と二人きりで過ごせるのは至福に思えた。なぜこんなに穏やかな気分になれるのか、理由は分からなかったが。

「さて」
 ダヴィッドはマノンを抱いていた腕をほどくと、ベッドサイドに腰を落ち着けた。
「そうだな、どうしようか。食事にするか、それとももっと休んでいたいか……欲しいなら温かい風呂にも入れるが、どうしたい?」
「おなかは……すいてないの」
「湯につかればきっと腹も空くだろう。用意させるよ」

 マノンはその提案が気に入ったようで、こくこくと勢いよくうなづいた。ダヴィッドは微笑してみせ、すっとベッドサイドから立ち上がって扉へ向かった。

 ダヴィッドが寝室の扉を開くと、
「わぁ!」
「ああ!」
 リーとバトラーが、各々叫びと共に部屋の中になだれ込んでくる。

 実はダヴィッドは数秒前から気が付いていた──この、こっそり聞き耳を立てていた男たちに。ダヴィッドは片手で髪をかきあげると、二人の男を見下ろしてゆっくりと言った。

「バトラー、聞いていただろう。湯の用意をしてくれ。リーは……一応、彼女を診てやってくれ」
「は、はい、今すぐ」
「分かったよ……」
 気まずさのせいか、彼らはダヴィッドの指示に渋々と従いはじめた。





 ねずみ色の鋳鉄製のバスタブは、そもそも長身のダヴィッドに合わせて置いていた代物だったから、深く幅が広い──小さなマノンでは溺れてしまうかもしれない。

 バトラーは湯を用意して運ぶのに忙しかったし、そもそも、少女を風呂に入れてやるというタイプの男ではなく、頼んでも嫌がっただろう。
 女中は夕食の準備で手が空いていなかった。
 リーは……論外だ。
 小児科医とはいえ、人間的に。

 ダヴィッドは軽く二十の理由を挙げることができた。

 そして、それを何度も何度も理性の中で繰り返していた。マノンにはまだ微熱がある。これはまだ子供だ。バスタブが大きすぎて……。

「ダヴィッド?」
 ふいに声を掛けられて、ダヴィッドは床から顔を上げた。

 すると、お湯の蒸気に頬を高潮させたマノンが、無邪気に瞳をまたたかせてダヴィッドを見つめている。長い髪は後頭部あたりでくるりとひとまとめに留められていた。細い首と肩が、バスタブから覗いている。

「ああ」
 ダヴィッドは自分でも驚くほどの低い声で答えた。
「何だ?」

 ダヴィッドは白いシャツを腕まくりして、普段はベッドの横におく足置き台を椅子がわりにしながら、バスタブの横に座っていた。

 バスタブに浸っているのはマノンだ。
 マノンが、ダヴィッド個人用のバスタブを使っていた。

 どうしてこんなことになったのか、思い出すのも噴飯ものだが、とにかくそういう状況に陥っている。


 バスタブは木製の衝立に隔てられているだけで、ダヴィッドの寝室の端にあった。
 普段はダヴィッドだけが使う、ひじょうに個人的な空間だ。
 流行の猫足つき浴槽ではなく、簡素な鋳鉄製で、いかにも実用性を重視する独身男性用という感じの空間だった。

 それが、今は──
「こんなに大きいお風呂、はじめてみたの」
 パシャ、パシャ、と両手で水を弾きながら、マノンが言った。

「五人くらい入れそうね……」
「子供ならね。実際は、俺一人で一杯になるよ」
 ダヴィッドは首をもたげ、片手で髪をかき上げながら答えた。

「ダヴィッドは、一人で住んでるの?」
「ああ」
「さっききた……銀色の髪のお医者さまはだれ……?」
「あれは古い知人で、子供のための医師をしている男だ。ここ数日はうちに泊まっているが、住んでいるわけじゃない。他に、執事や女中や料理人がいる。だから、実際は五、六人の所帯がいるな」
「ふうん……」

 マノンが手持ち無沙汰そうに水をかき回し続けているので、ダヴィッドは彼女に石鹸を手渡した。使いかけではあるが、大きめのブロック型石鹸だ。自分の拳の二倍近い大きさがある石鹸の塊を、マノンは興味深そうに眺めていた。

 ──くそ、この動悸は何なんだ?
 ダヴィッドは横目でマノンの一挙一動を覗きながら、正体不明な感情の渦と戦っていた。

 自分に少女愛好趣味はない。
 実際、そういった意味でこのバスタブを占領している小さな生き物に欲望を感じているわけでないのは、確かだった。身体がそれを証明している。

 しかし……この、恋に似た情熱は何だ。
 胸をかき乱して止まないもの。鼓動を高めて、揺るがないもの。

(分かった……認めよう)

 たしかに、十年後のマノンと出逢っていたら、自分は間違いなく恋に落ちていたのだろう。
 ただし十年後の、だ。
 今の彼女ではない──あってはならない。

「ダヴィッド」
 マノンがもう一度ダヴィッドを呼んだ。そして、問う。
「ダヴィッドに、家族はいないの?」

 それは、どんな子供でも持つ種類の、なにげない疑問だったのだろう。実のところ、ダヴィッドはこの質問を受けるのが嫌いだった。過去を語るのはいつだって痛みを伴う。

 しかし……なぜだろう。
 マノンになら話してもいい気がした。
 多分、どこか根本的なところで、二人は似たもの同士なのではないかと思えたからだ……。

「父が……いたよ。でも、俺が七歳の時に死んでしまった」
「病気だったの?」
「いや。とても丈夫で強い人だった。でも、悪い奴がいてね。父の農園を焼いて、沢山のものを盗んで、父の命も一緒に盗っていってしまった。助かったのは俺だけで、それ以来、ずっと一人でいる」

 マノンは、大きな瞳をさらに大きく見開いて、ダヴィッドを見つめた。
 ダヴィッドは今日まで、マノンほどの年の子供が同情という感情が持てるものだとは思っていなかった。しかし、マノンの瞳に浮かんでいたのは、間違いなくダヴィッドに対する憐憫の情だった。
 ダヴィッドは薄く笑うと、肩をすくめてみせた。

「家も家族も失った子供は、街に流れ着くしかないのが常だ。街に……ルザーンに。俺もご多分に漏れなかった」
「ダヴィッドも……あの怖いおじさんたちに、連れてこられたの?」
「いいや、幸か不幸か、俺は醜い子供だったんでね。ああいう連中には歯牙にもかけられなかった。でも、力だけはあったから、港場の連中に使われてたな」
「…………」
「俺一人だ……一人だけで生きてきた」

 マノンは口を閉じた。
 手に持っていた石鹸を、湯の中につけたまま呆然としていたので、ダヴィッドは腕を伸ばして彼女の手から石鹸を取り返した。そして、
「後ろを向くんだ。背中を流してやるから」
 と、擦れた声で言った。

 マノンはほとんど躊躇をみせず、静かにダヴィッドの声に従った。

 青白く光る若い肌に、オリーブ油を使った若草色の石鹸を滑らせる。手が、痺れるような感覚がした。マノンの肌は魔法のようで、ダヴィッドの動きに巧みに吸い付いてくる。

 肩の後ろ辺りが、寒さでしもやけを起こしかけていたのか、赤く腫れていて痛々しい。
 ダヴィッドはそこに優しく触れた。

「軟膏を塗っておけば、すぐに治るだろう……。俺も、裏路地で生きてたころは、本当にしもやけだらけだった」
 少しだけ首をよじって振り返ると、マノンはダヴィッドを見た。

「いたかった?」
「それはもう。冬はしもやけだらけで、夏は汗疹だらけだった。最初のうちはハエにたかられて鬱陶しかったが、そのうち気にならなくなった。もしかしたら、ハエも近寄らないくらい臭くなってたのかもな」
「いや、ね」
「ああ、いやだったよ」
「あのね、とおりに焼き菓子屋さんがあったの……。すごく、すごく、いいにおいがしたの……。そとから見ていただけだったの。ほんとうよ。でも、急にお店のおじさんが出てきて、あっち行けって怒って……冷たい水をかけられたの」
「分かるよ。怖かっただろう」
「ダヴィッドも……ある?」
「水をかけられたことが? そうだな、三百回くらいあっただろうな。そのうち逃げ方を覚えたけどね」
「いやね」
「ああ、すごくいやだった。悔しくて寒くて、本当に嫌な思い出だ」

 ダヴィッドは石鹸を横の台に乗った皿の上に置いた。
 そして、バスタブの中の湯をすくって、マノンの背の石鹸を流した。しもやけに沁しみたのか、きゅっと目を閉じるマノンを、ダヴィッドはたまらなく愛しく感じた。

 救いたかったのは、誰だろう。
 過去の自分自身か……。

 それとも。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

処刑台の皇妃、回帰して復讐を誓う ~冷酷公爵と偽りの婚約者~ おまえたちは許さない!

秦江湖
ファンタジー
皇妃エリアーナは、夫である皇帝アランと、たった一人の親友イザベラの策略により、無実の罪で処刑される。 民衆に罵られ、アランの冷酷な目とイザベラの嘲笑を「始まりの景色」として目に焼き付けながら絶命した彼女は、しかし、処刑の記憶を持ったまま三年前の過去に回帰する。 「おまえたちは許さない」 二度目の人生。 エリアーナの目的はただ一つ、自分を陥れた二人への完璧な復讐。 彼女はまず、アラン(皇太子)からの婚約内示を拒絶。そして、アラン最大の政敵である「北の冷血公爵」ルシアン・ヴァレリウスに接触する。 1周目で得た「未来の知識」を対価に、エリアーナはルシアンに持ちかける。 「貴方様には帝国の覇権を。わたくしには復讐の舞台を。そのための『契約婚約』を――」 憎悪を糧に生きる皇妃と、氷の瞳を持つ公爵。 二人の偽りの婚約の行く末は……

【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?

旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】 佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。 新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。 「せめて回復魔法とかが良かった……」 戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。 「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」 家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。 「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」 そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。 絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。 これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

追放された養女令嬢は、聖騎士団長の腕の中で真実の愛を知る。~元婚約者が自滅する横で、私は最高に幸せになります~

有賀冬馬
恋愛
「お前のような無能な女、私の格が下がるのだよ」 最愛の婚約者だったはずの王子に罵られ、雨の夜に放り出されたエルナ。 すべてを失った彼女が救われたのは、国の英雄である聖騎士団長・レオナードの手によってだった。 虚飾の社交界では見えなかった、本当の価値。 泥にまみれて子供たちを笑顔にするエルナの姿に、レオナードは心を奪われていく。 「君の隣に、私以外の居場所は作らせない」 そんな二人の裏側で、エルナを捨てた王子は破滅へのカウントダウンを始めていた。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

処理中です...