1 / 41
【春子の章】
『月の綺麗な夜ですね』①
しおりを挟む
過去──春子の章
『月の綺麗な夜ですね』
くっきりと空に浮かんだ夏夜の満月を見上げながら、異国の兵隊は春子にわかりやすいように、ゆっくりとそうささやいた。
まったくその通りだと思ったので、春子はこくりとうなずいた。
『でも、暑い、ですね。日本の夏は、あなたには、厳しい、でしょう』
どこまで合っているかわからない。
春子の口から出る英語は、彼が口にする滑らかな調子とはうってかわって朴訥としていた。もっと上手に喋れたらと思うけれど、いくら単語を勉強しても、重い発音はなかなか直らなかった。
『僕の故郷も夏はとても暑いですよ。ここまで蒸し暑くはないが』と言って、異国の男は春子に視線を移した。
彼の青い瞳は月の光を浴びてさらに澄んで見えた。
春子の鼓動はトクトクと高鳴った。
『君にもいつか見て欲しい。コロラドの自然は美しいから』
ころ、らど。
どんな場所なんだろう。彼はそこで育ったという。彼のような大きなひとが育つのだから、きっと雄大な大地と、豊富な食料があるのではないかと思う。
『はい。わたしでも、いつか行けますでしょうか』
春子は切なくささやいた。
そういった希望がないわけではない。でも、夢を見るには春子は厳しすぎる現実を生きてきた。みんなそうだ。
戦争は終わったのかもしれないけれど、春子のような市井の人間にとって、生き残りを賭けた戦いはこれからなのだ。
『僕が連れていってあげます。ハルコさん。僕と一緒に来てくれますか?』
『まあ』
春子はコロコロと笑った。彼の表情が、ちょっと可哀想になるくらい真剣だったからだ。
もしかしたら彼は緊張しているのだろうか? だってほら、彼の両手は脇できつく握られている。
異国の兵隊さんというのは、もっと無節操な気分屋で移り気なのかと思っていた。実際、みんなそうだと言う。でも彼はまったく違った。
彼はまっすぐだった。移り気なところはひとつもなく、生真面目すぎるくらいに春子を大事に扱ってくれた。
巷には異国の兵隊に弄ばれた子女の話が溢れているし、こちらの女も、一夜の慰みと少しばかりの食料のために彼らを利用することがある。
それが現実だった。
でも彼は違う。
少なくとも、違うと、春子は思っている。
そう思いたいだけかもしれないけれど。
コオロギの鳴き声が遠くから聞こえて、残暑の夜に風情を加える。ひと気のない川べりで、大きな満月と水面に映る光だけが頼りの中、彫りの深い彼の輪郭がさらに際立っていた。
『ころらど……。きっと連れていってくださいね。いつか』
春子は微笑んだ。
『いつか必ず。そう遠くない将来に』
誓いを立てるように、彼は軍帽のツバをクイっとわずかに持ち上げた。
軍服の胸元にはいくつかの立派な階級章がある。ばっじ、というらしい。本人は大した階級ではないと言っているが、どうだろう。
満月に視線を戻した彼は、再びつぶやいた。
『月の綺麗な夜ですね』
確かに美しいけれど、こうしてふたりきりでいるのに、彼が褒めるのは春子ではなくて月ばかり。
春子は少しふくれて『そうですね』とだけ答えた。
彼の頬が赤く火照っているのに、そのときは気づけなかった。
『月の綺麗な夜ですね』
くっきりと空に浮かんだ夏夜の満月を見上げながら、異国の兵隊は春子にわかりやすいように、ゆっくりとそうささやいた。
まったくその通りだと思ったので、春子はこくりとうなずいた。
『でも、暑い、ですね。日本の夏は、あなたには、厳しい、でしょう』
どこまで合っているかわからない。
春子の口から出る英語は、彼が口にする滑らかな調子とはうってかわって朴訥としていた。もっと上手に喋れたらと思うけれど、いくら単語を勉強しても、重い発音はなかなか直らなかった。
『僕の故郷も夏はとても暑いですよ。ここまで蒸し暑くはないが』と言って、異国の男は春子に視線を移した。
彼の青い瞳は月の光を浴びてさらに澄んで見えた。
春子の鼓動はトクトクと高鳴った。
『君にもいつか見て欲しい。コロラドの自然は美しいから』
ころ、らど。
どんな場所なんだろう。彼はそこで育ったという。彼のような大きなひとが育つのだから、きっと雄大な大地と、豊富な食料があるのではないかと思う。
『はい。わたしでも、いつか行けますでしょうか』
春子は切なくささやいた。
そういった希望がないわけではない。でも、夢を見るには春子は厳しすぎる現実を生きてきた。みんなそうだ。
戦争は終わったのかもしれないけれど、春子のような市井の人間にとって、生き残りを賭けた戦いはこれからなのだ。
『僕が連れていってあげます。ハルコさん。僕と一緒に来てくれますか?』
『まあ』
春子はコロコロと笑った。彼の表情が、ちょっと可哀想になるくらい真剣だったからだ。
もしかしたら彼は緊張しているのだろうか? だってほら、彼の両手は脇できつく握られている。
異国の兵隊さんというのは、もっと無節操な気分屋で移り気なのかと思っていた。実際、みんなそうだと言う。でも彼はまったく違った。
彼はまっすぐだった。移り気なところはひとつもなく、生真面目すぎるくらいに春子を大事に扱ってくれた。
巷には異国の兵隊に弄ばれた子女の話が溢れているし、こちらの女も、一夜の慰みと少しばかりの食料のために彼らを利用することがある。
それが現実だった。
でも彼は違う。
少なくとも、違うと、春子は思っている。
そう思いたいだけかもしれないけれど。
コオロギの鳴き声が遠くから聞こえて、残暑の夜に風情を加える。ひと気のない川べりで、大きな満月と水面に映る光だけが頼りの中、彫りの深い彼の輪郭がさらに際立っていた。
『ころらど……。きっと連れていってくださいね。いつか』
春子は微笑んだ。
『いつか必ず。そう遠くない将来に』
誓いを立てるように、彼は軍帽のツバをクイっとわずかに持ち上げた。
軍服の胸元にはいくつかの立派な階級章がある。ばっじ、というらしい。本人は大した階級ではないと言っているが、どうだろう。
満月に視線を戻した彼は、再びつぶやいた。
『月の綺麗な夜ですね』
確かに美しいけれど、こうしてふたりきりでいるのに、彼が褒めるのは春子ではなくて月ばかり。
春子は少しふくれて『そうですね』とだけ答えた。
彼の頬が赤く火照っているのに、そのときは気づけなかった。
1
あなたにおすすめの小説
オオカミ課長は、部下のウサギちゃんを溺愛したくてたまらない
若松だんご
恋愛
――俺には、将来を誓った相手がいるんです。
お昼休み。通りがかった一階ロビーで繰り広げられてた修羅場。あ~課長だあ~、大変だな~、女性の方、とっても美人だな~、ぐらいで通り過ぎようと思ってたのに。
――この人です! この人と結婚を前提につき合ってるんです。
ほげええっ!?
ちょっ、ちょっと待ってください、課長!
あたしと課長って、ただの上司と部下ですよねっ!? いつから本人の了承もなく、そういう関係になったんですかっ!? あたし、おっそろしいオオカミ課長とそんな未来は予定しておりませんがっ!?
課長が、専務の令嬢とのおつき合いを断るネタにされてしまったあたし。それだけでも大変なのに、あたしの住むアパートの部屋が、上の住人の失態で水浸しになって引っ越しを余儀なくされて。
――俺のところに来い。
オオカミ課長に、強引に同居させられた。
――この方が、恋人らしいだろ。
うん。そうなんだけど。そうなんですけど。
気分は、オオカミの巣穴に連れ込まれたウサギ。
イケメンだけどおっかないオオカミ課長と、どんくさくって天然の部下ウサギ。
(仮)の恋人なのに、どうやらオオカミ課長は、ウサギをかまいたくてしかたないようで――???
すれ違いと勘違いと溺愛がすぎる二人の物語。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
フリーランスエンジニアの優しすぎる無償の愛
春咲さゆ
恋愛
26歳OLの木崎茉莉は人生のどん底にいた。上手くいかないことに慣れ、心を凍らせることで自分を守る毎日に絶望した茉莉は、雨の夜に思わず人生の終わりを願ってしまう。そんな茉莉に手を差し伸べたかっこいい彼。茉莉は、なぜか無償の愛のような優しさをくれる不思議な男性に少しずつ救われ、前を向いていく。けれど、疑ってしまうほど親切な彼には、親切であり続ける理由があって……。雨の夜の出会いがもたらした、優しくも切ない物語。
同期に恋して
美希みなみ
恋愛
近藤 千夏 27歳 STI株式会社 国内営業部事務
高遠 涼真 27歳 STI株式会社 国内営業部
同期入社の2人。
千夏はもう何年も同期の涼真に片思いをしている。しかし今の仲の良い同期の関係を壊せずにいて。
平凡な千夏と、いつも女の子に囲まれている涼真。
千夏は同期の関係を壊せるの?
「甘い罠に溺れたら」の登場人物が少しだけでてきます。全くストーリには影響がないのでこちらのお話だけでも読んで頂けるとうれしいです。
Pleasure,Treasure
雛瀬智美
恋愛
同級生&身長差カップルの片思いから結婚までのラブストーリー。
片思い時代、恋人同士編、新婚編ですが、
どのお話からでもお楽しみいただけます。
創作順は、Pleasureから、Blue glassが派生、その後Treasureが生まれました。
作者の趣味により、極上dr~、極上の罠~シリーズともリンクしています。
【完結】京都若旦那の恋愛事情〜四年ですっかり拗らせてしまったようです〜
藍生蕗
恋愛
大学二年生、二十歳の千田 史織は内気な性格を直したくて京都へと一人旅を決行。そこで見舞われたアクシデントで出会った男性に感銘を受け、改めて変わりたいと奮起する。
それから四年後、従姉のお見合い相手に探りを入れて欲しいと頼まれて再び京都へ。
訳あり跡取り息子と、少し惚けた箱入り娘のすれ違い恋物語
悪魔な義理弟《ボディーガード》~ヤンキー校最凶犬男子の独占欲が強過ぎる~
Kore
恋愛
「余計なこと考えさせないくらい愛せば、男として見てくれる?」そう囁く義弟の愛は重くて、危険で、究極に甘い。
———勉強が大の苦手であり、巷で有名なヤンキー高校しか入れなかった宇佐美莉子。そんな義理姉のボディーガードになるため、後追いで入学してきた偏差値70以上の義理弟、宇佐美櫂理。しかし、ボディーガードどころか、櫂理があまりにも最強過ぎて、誰も莉子に近寄ることが出来ず。まるで極妻的存在で扱われる中、今日も義理弟の重い愛が炸裂する。———
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる