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【春子の章】
『結婚しよう。君を連れて行く』
しおりを挟むそしてもうすぐ冬がはじまろうとする頃、それは起こった。
「今夜はビルさん、いらっしゃるかねえ」
その夕方、珍しくすでに帰宅していた母が、どこかせわしなく夕餉の準備をしながらそう言った。
ビル、とはウィリアムのことである。
はじめてウィリアムが春子の家族に挨拶に来た日、舌足らずな弟達が上手くウィリアムと呼ぶことができなかったため、ビルでいいよ、とウィリアム自身が提案したからだ。
以来、ウィリアムは春子の家で「ビルさん」と呼ばれている。
春子を抱いてからのウィリアムは今まで以上に優しいうえに、春子の家族の面倒さえ見てくれるようになった。
「どうかな。最近、お勤めが忙しいんですって。もしかしたら帰国もあるかもしれないという話らしくて……」
野菜を洗う手伝いをしながら、冷たい水にかじかむ手を動かしつつ、春子はそう答える。
答えながら──しまった、と思った。
「春子」案の定、母は手を止め、春子を見据える。「あんたはビルさんについて行くつもりかい?」
「わ……わからないわ」
「米国は遠いよ。嫁いだらもう帰ってこられないかもしれない」
「お母さんは……反対……よね、もちろん」
当然だ。ここまで育ててやった恩を忘れたのか。米兵に嫁ぐなどとんでもない──そんな叱責を覚悟したのに、母は柔らかく微笑むだけだった。
ウィリアムとの関係を非難されたことはなかったが、それは彼が時折都合してくれる食料があるからで……。
「あんたはいい子だから、遠くに行ってしまうのは寂しいよ」
「う、うん……」
「でも、お父さんはもういないし、ここにいたって嫁入り道具も揃えてあげられない。もしビルさんが大事にしてくれるなら、行っちゃった方があんたの幸せかもしれないね……。向こうさんには、食べきれないほど食料があるって話じゃないか」
皮さえもったいなくて落とせない大根を家族四人のために細かく刻んで、汁にしようとしているところだった。
味噌が手に入らなくて、調味料といえるのはウィリアムがどこからか持ってきてくれた塩のみ。
なんとか火が起こせるだけでも、感謝しなくてはならない日々だった。
「……でも、お母さんと哲と次郎を置いていけない」
「哲も次郎も永遠に子供じゃないよ。それに、東京辺りに嫁いだって、会えなくなるのは同じさぁ」
娘なんだから覚悟はしていたよ、とぶっきらぼうに付け加える。
そして母は調理に戻った。
少し重たい気分で外に出る。
夕餉は終わって、少しだけ新鮮な空気を吸いたかった……と母には言い訳したが、本当はウィリアムが来てくれるかもしれないという期待からだ。
昨今、治安は必ずしもよくはなく──特に日の暮れたあとは──本来なら、不用意に女がひとりで外をふらつくべきではない。ただ、春子はこの時間帯にウィリアムと散歩に出る習慣ができたせいで、彼がいなくても身体がそれを求めてしまう。
(今夜は冷えるし、少しだけ外を回ったら、戻ろう。もしかしたら、いつもより遅れてウィリアムも来てくれるかもしれない)
そんな甘い考えで、とてとてと舗装された道を歩く。
河川敷はさすがにウィリアムなしでは行けないから、近所の、なにかあれば声の届く範囲だけ散歩しようと考えていた。
そのときだ。
通りの角まできて、そろそろ曲がって戻ろうと踵を返した瞬間、春子は急に誰かに腕を引っ張られた。
「ウィリ──」
──アム、かと、最初は思った。
なぜなら、春子の腕を引っ張ったその人物は、ウィリアムと同じ色の軍服を着ていたからだ。でも、力が違う。背の高さが違う。匂いだって違う。
『あいつに抱かれているなら、俺ともできるだろ? 可愛い日本の女の子』
そして春子の耳元をざわつかせた声も、ウィリアムのそれとはまったく違う響きを持った英語だった……。
そこから先、正直に言うと、春子の記憶は曖昧である。
思い出すのが辛すぎて、頭が、心が、覚えておくことを拒否しているかのようだった。ただ、要約すると次のようになる──。
春子は、ウィリアムの上官にあたる男に乱暴されそうになった。
ウィリアムはそこに駆けつけ、春子を救った。
あのときのウィリアムは春子の知っている穏やかなウィリアムではなかった。仔を護る獅子よりも獰猛に春子を護った……その事実を、嬉しくも思うし、悲しくも思う。
ウィリアムに救われたあと、ふたりが交わした抱擁を、春子は忘れない。
『結婚しよう。君を連れていく』
そして、涙ながらに受け取った婚約指輪も。
幸せになれるのかもしれないと夢を見たのに、次の朝に春子が受けた報は、ウィリアムが逮捕されて軍法会議にかけられることになった……というものだった。
あとからわかったことには、春子を乱暴しようとした男は、本国ではそれなりに名の通った政治家の息子だったのだ。
事件を揉み消すため、ウィリアムを悪者に仕立てることなど難しくなかったのだろう。春子を救う際、ウィリアムがこの男に怪我を負わせていたことも不利になった。
ウィリアムは、春子に別れの挨拶をする時間さえ与えられず、本国に強制送還となった。
つわりがはじまり、春子が妊娠に気づいたのはそれからひと月後だった。
そしてこの物語がはじまる。
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