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【乃亜の章】
「君が俺の牧場に用があるようには見えない」③
ああ……どうしよう。
故障の原因らしきものはわかったものの、それだけではなにも解決しない。
知識のあるひとが通りかかってくれたのは不幸中の幸いだったが、残念ながらそのひとはあまり友好的ではなく、気軽に助けを求められる雰囲気ではなかった。
「そうでしたか……すみません。教えてくれてありがとうございます」
他に言いようがなくて、乃亜はささやいた。
それでも頼めばなんらかの手を貸してくれるかもしれない……と、ほのかな期待を抱いたものの、結局、男はなにも言わずにスタスタとピックアップトラックに戻ってしまった。
(ああ……行っちゃうんだ……?)
ポンコツレンタカーと観光客っぽい日本人を置いて。コロラドの奥地の一本道に、何頭かの牛と一緒に。
牛……もしかしてコヨーテとかも出るのだろうか?
狼とか? ワニとか……く、熊?
どんどん想像が悪い方に向いていくのはいい兆候ではない。少なくともスマホの電波はわずかにあるようだし、原因はわかったのだからレンタカー会社に連絡して……。
乃亜は持ち前のポジティブさでなんとか乗り切ろうと決心した。
心細かったけれど。
(な、泣かない……っ)
震える指でスマホを開こうとしたそのとき、後方の白いピックアップトラックの扉がバンッと閉じられる音がした。
乃亜は顔を上げる。
サングラスの彼が、なにか大きな白いボトルのようなものを持ってこちらに戻ってくるところだった。
「え……と、それは……」
彼はさっきと同じく、乃亜に許可を求めるようなことはしなかった。
まだ開いたままのレンタカーのボンネットの前にくると、例の冷却水がどうのというタンクの蓋をひねる。
相当熱を持っていたのだろう、開いた蓋と一緒に吹き出すような湯気が出た。
「液の種類が違うかもしれないが、生憎今はこれしかない。ひとまずはこれで動くだろう。エンジンがやられていなければ」
そう言って湯気が落ち着くのを待つと、彼は手にした大きなプラスチックボトルから水色の液を注ぎ込んだ。
なにかの魔法を見ているような気分だった。
助けてくれている……のよね?
「ありがとう……ございます」
「どういたしまして」
棒読みな感じではあったが、サングラスの彼は作業を続けながらそう答えた。
愛想はないけれど、ただの通りすがりである彼が乃亜に向かってヘラヘラする理由はないのだ。十分ありがたい。
あまり一気に注入できるものではないらしく、注ぎ終わるまで時間がかかったので、乃亜は少なくとも会話をしようと試みた。
「あなたは……きっとどこかへ行く途中だったんですよね。引き止めてしまってごめんなさい。なにか予定に遅れてしまわなければいいのですが」
返事はない。
むむむ。
「わたし、実はこの先の牧場に用があるのですけど、どんな場所か知っていますか? 住所しか分からなくて。牧場って普通、それぞれ名前があるんですよね? ネットで調べても周囲にいくつか同じような牧場があって、どれなのかよくわからなくて」
男は作業の手を止めた。
サングラス越しに乃亜の顔をじっと見つめる。
「……その住所とやらは?」
唐突な質問に目をしばたたきつつ、乃亜は何度も確認したおかげですでに暗唱できるそれを答えた。サングラスのせいで表情の機微まではわからないが、彼は少し驚いたように眉を上げた。
「スプリング・ヘイブン」
「え?」
「牧場の名前だ。スプリング・ヘイブン牧場。もし本当にその住所なら」
スプリング・ヘイブン。
スプリング……。
温泉、もしくは……春。
春。
まさか。
「た……多分そこだと思います。場所を知っていますか? カーナビによればこの道をまっすぐ行った先にあるはずなんですけど」
彼はすぐには答えず、冷却水の注入を終えるとプラスチックボトルとタンクの蓋をゆっくりと閉めた。
男性はしばらく無言で、なぜか硬い表情をしているようだったので、答える気がないのかと乃亜が諦めかけていたとき……彼はサッとサングラスを外した。
乃亜は息を飲んだ。
想像以上の美形が、そこにはいた。
もちろん、スタイルのいい長身と長い手脚と、サングラスで隠せない部分からすでにそれなりの偉丈夫なのだろうと想像していたけれど、これは。
吸い込まれそうになる灰色の瞳。
彫りの深い顔つきは男らしく、繊細さとは無縁の厳格さがあった。
おそらくダークブロンドと呼ばれる種類の、金髪と茶色の混じった髪は無造作に短く切り揃えられている。
服装は、初夏だというのにチェック柄の長袖にジーンズ、足元は硬そうな革のブーツだ。これは……例のつばの広い帽子こそ被っていないものの、あれだろうか。
カウボーイ。
それも、かなり魅力的な。
「その牧場になんの用がある?」
男の冷淡な声が乃亜を現実に引き戻した。
「えっと……」
質問の意味はわかったが、その口調があからさまに咎めを含んでいて、乃亜は口ごもった。
「最初に言ったが、コテージの客なら入り口はこの道じゃない」
「違います、わたしは……」
「君が俺の牧場に用があるようには見えない」
「え」
──俺の?
「あ、あなたの……?」
男は無言でうなずいた。灰色の視線は射るように乃亜を見据えている。その迫力に乃亜の膝はガクガクと震えそうになった。
本物の美形とはそこにいるだけで怖いものなのだ。乃亜ははじめて知った。
「だったら……ウィリアムさんをご存知ですか?」
「ウィリアム?」
「ウィリアム・マクブライトさんです。彼が本来の牧場主ではないのですか? 彼に会いたいんです。そのために日本からここに来ました」
灰色の瞳が、地上に獲物を見つけた鷲のように鋭く光った──ような気がした。もちろんその獲物とは乃亜だ。
間違いない。
「それはできない」
男はゆっくりと静かに告げた。
それは最後通牒の響きを持っていて、乃亜をさらに緊張させる。
でも、乃亜だってここまできて怯むわけにはいかなかった。文字通り地球の裏側までやってきた。飛行機を二回も乗り継いで慣れない左ハンドル右車線を運転し、冷却水とやらの足りないオンボロレンタカーにもめげず……。
「ど、どうして……ですか」
──そしてあなたは誰ですか。
そこまで一気には聞けなかったけれど、乃亜の言葉尻にその疑問のニュアンスがあったのを、彼は感じ取ったはずだ。
彼は手にしていたアビエーター・サングラスを畳むと、チェック柄の長袖シャツの胸ポケットにそれを差し入れた。
そしておもむろに両腕を胸の前で組む。
「なぜなら……親父は心臓発作で入院中だからだ。すでに数日意識がない。来るのが少し遅すぎたようだな、日本のお嬢さん」
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