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【乃亜の章】
「いくら親父が許しても、俺は許さない」②
しおりを挟むダグラスにうながされて玄関をくぐると、そこは落ち着いた内装の、外観の優雅さに劣らない美しい室内があった。
「荷物はここに置くから」
素っ気なくそう言って、ダグラスは乃亜の荷物を玄関裏に運び込んでくれる。
「ありがとうございます。素敵なお家ですね」
と、思わず口走ってしまってから、乃亜は慌てて付け加えた。
「──って、別にこのお家の乗っ取りを狙ってるとか、そういうわけじゃないですよ! ただの感想ですから! すみません!」
すでにリビングの奥にある大きなキッチンに向かっていたダグラスは、肩越しに乃亜を振り返って、ふっと笑うような声を漏らした。
「そこまで警戒はしてないよ」
「まったくしなくて大丈夫です」
「とりあえず、そういうことにしておこうか」
むむ……。
だいぶ態度を軟化してくれたとはいえ、完全に信頼されているわけではない……のだろう。
とはいえ、助けてくれたのはありがたかった。レンタカー会社に連絡してもいつ代車がくるかわからないし、もし時間が掛かって日が暮れてしまったりしたら、あの一本道は真の闇に包まれてしまうはずだ。
もしかしたら、茂みに隠れた凶悪なクロコダイルに攻撃されたり……。
乃亜を餌とみなした空腹の大鷲が、空から急降下で襲ってきたり……。
「コーヒー? 紅茶?」
悶々と不穏な想像をしていたところを、ダグラスの声で現実に引き戻される。
「え……。あ、ありがとうございます。じゃあ、コーヒーを」
ダグラスは小さくうなずくとキッチンに向かった。
この家の他の部分と同じく、落ち着いた白と灰色と木材を組み合わせた立派なシステムキッチンだ。東京育ちの乃亜には羨ましいくらいの広さで、綺麗に整頓もされている。
カプセル式の小さなコーヒーメーカーで、ダグラスはすぐに香りのいい一杯を淹れてくれた。マグカップを手渡されるとき、一瞬だけ指が触れる。
「……今から従業員に連絡してキャビンを一部屋掃除させておく。夕方には入れるようになるはずだ」
「はい」
それまではこの家に……いていい、ということだろうか。
「本当に……そこまでしていただかなくていいのに、感謝します。約束通りウィリアムさんに手紙を渡せたら、すぐ帰りますから」
ダグラスは彼自身にも一杯コーヒーを淹れて、キッチンカウンターに腰を当ててリラックスした体勢を取ると、あおるようにそれを呑み干した。
熱いのに。
このひとの舌はどうなっているんだろう。
舌だけじゃない。こうしてあらためて見ると、ダグラスは全身から乃亜が知らない種類の力強さを放つ男性だった。
肉体的なたくましさだけじゃない──それに関してはもういくら語っても語り尽くせそうにない──なにか違法な媚薬が彼の肌から分泌されているのではないかと疑うくらいの色香で、圧倒されてしまう。
しばらくは沈黙が続いた。
ダグラスはじっと乃亜を見つめている。彼はそれを隠そうとさえしなかった。
乃亜も……それが嫌だとは思えなかった。
ただ、出会ったばかりの美形カウボーイといつまでも無言で見つめ合える胆力は乃亜になかったので、さりげなく視線を外すと、話題を求めて広いリビングを見渡した。
壁にいくつか写真が飾られていて、乃亜はそこに吸い寄せられるように向かった。
(ウィリアムさんの写真……あるかな)
実は、曽祖母はウィリアムの写真を一枚も持っていなかったから、乃亜も、曽祖母が口頭で語る思い出の中の彼の容姿しか知らない。
金髪。青い瞳。優しげな目元。
でも、息子であるダグラスが険しく男らしい顔つきなので、もしかしたら乃亜が想像していたほど穏やかな優男ではないのかも……。
「あ……」
でも、見つけてしまった。
見た瞬間、これがウィリアムだとすぐにわかった。
乃亜の中に流れる血と、曽祖母から聞かされた愛情あふれる言葉の数々が、それを可能にした。
想像していたのと寸分違わない、金髪碧眼の優しげな男性がそこにいる。
ものすごい美形ではないのかもしれない。
でも、つい甘えてしまいたくなりそうな穏やかな目元と、誠実そうな顔つき。
白いフレームに収まった縦長の写真には、おそらく三十代……もしかしたら四十代に入っているかもしれない「ウィリアム」がいた。
間違いない。
まだ真新しい頃のこの邸宅のポーチの下に立って微笑んでいる。もしかしたら竣工した日の記念写真だろうか?
背後にそびえる美しい邸宅を誇らしげに、でもどこか憂いを帯びた表情で、真っ直ぐカメラに顔を向けていた。
写真のディスプレイはまだ続いているので、乃亜はその隣に視線を移す。
最初の写真よりずっと歳を取った、おそらくすでに七十代のウィリアムが、まだ少年のダグラスと一緒に様々なイベントで撮ったものがいくつか飾ってあった。
旅行。
卒業式。
アメリカン・フットボールの装備を着た高校生のダグラスの肩を、ウィリアムが抱いている写真もあった。彼はアメフトをやっていたんだ。どちらかというとパリピな印象のあるスポーツなので、ちょっと意外な感じがした。
それから……。
「軍服……? 軍隊にいたんですか?」
ウィリアムではない。
ウィリアムが兵隊だったのはもちろん知っている。だからこそ彼は曽祖母と知り合ったのだ。彼の時代はおそらく兵役があって選べなかったし、もちろん戦争だった。
でもダグラスは……。
「四年だけだ。ハワイと……アフガニスタンを少し」
「どうして……?」
と、口が滑ってしまってから、ものすごくプライベートなことを聞いてしまったのだと気がついて、乃亜は慌てた。
ダグラスが、同じように米軍の軍服を着た友人と一緒にポーズを取っている写真は、一枚しかなく、そしてウィリアムは写っていない。
それ以後の写真もなかった。
ダグラスの母親もいない。
「特に深い意味はないよ」
ダグラスは静かに答えた。
「すみません、出過ぎたことを聞いて」
「別に隠しているわけじゃない。気にしなくていい」
とは言ってくれたが、ダグラスにそれ以上の説明を続ける気がないのは明らかだったので、乃亜は写真から目を逸らした。
そして大きなリビングと広いキッチンと、そこから続いている書斎コーナーとを繁々と観察する。
素敵だ、やっぱり。
少し殺風景なミニマリズムではあるけれど、きっと女のひとがいてインテリアを考えている……はずだ。
ダグラスの妻か、恋人。
もしくは、ウィリアムの……。
その想像をすると乃亜の胸はギュッと締めつけられる。乃亜は心のどこかでウィリアムは曽祖母を愛し続けてくれていると思っていた。
願っていた。
そんな資格はないのに。
それに、乃亜がすでにひ孫の代に当たるのに対して、ダグラスは息子だ。つまり、かなり高齢になるまで待っていてくれたことになる。それだけでもすごいことだ。
「お……お母様の写真はないんですか……?」
ここまで失礼な発言を繰り返してしまったのだから、もうひとつくらい口走っても、ダグラスの乃亜に対する印象は変わらないはずだ。
少なくともこれだけははっきり知りたくて、乃亜はダグラスに対峙した。
「お母様?」
「あなたの……母親です。つまり……ウィリアムさんの奥さんか……恋人だったひとか……」
ここから続いた沈黙の重さを、乃亜は一生忘れられないだろう。
ダグラスはその灰色の瞳を見開いたあと、思わず悲鳴を上げたくなるような鋭い目つきで、乃亜を睨んだ。
もしかしたら小さな悲鳴が無意識に口から漏れていたのかもしれない。
慌てて下を向いた乃亜の視界に、革のブーツがスッと入ってくる。気がついたらダグラスは乃亜の目の前に迫ってきていた。
「親父を……ウィリアムを侮辱するのはやめてもらおうか」
大きな手にクイッと顎を掴まれて、上を向かされる。
怒りに満ちた表情のダグラスが乃亜を見下ろしていた。このまま呑み込まれてしまうのではないかと思うくらい、彼の瞳は感情的だった。
そしてその感情とは、決してポジティブなものではない。
「そ、そんなつもりは……。ただ、現実を知りたくて……あなたに失礼のないように……」
「そして親父に妻がいれば、遺産が手に入らないかもしれないから?」
「そんな! だから、それは違うって何度も言って……!」
おそらく、ダグラスはもっと酷い言葉を乃亜に向かって吐き出したかった。でも彼はグッと歯を食いしばって肩で息をしながら、しばらく無言で乃亜を見下ろしていた。
乃亜も逃げられない。
逃げる場所なんてない。
「これは言うつもりはなかったが──親父を侮辱するなら、これだけははっきりさせておこう」
ダグラスは、耳を澄ませてやっと聞き取れるような低くて掠れた声で、静かに告げた。
「俺は親父の養子であって、血の繋がりはない。九十九歳の今日まで、彼に女の影はなかった。一度たりとも」
大きく瞠目して、乃亜は「え」という声を漏らした。
「裏切ったのは君達の方だろう? 『ハルコ』だったか……。いくら親父が許しても、俺は許さない。それを覚えておくんだな」
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