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【乃亜の章】
「君にできることはないと思うよ」①
しおりを挟む次の日の朝。
乃亜が目を覚ますと、太陽はすでに空高く昇っているようだった。ヘッドボードの上の馬の写真に見守られながら身体を起こすと、ズキンとおでこの辺りに鈍痛が走る。
(いた……っ、て、当たり前か……)
カーテンの隙間から強い日差しが差し込んでいる。
どのくらい眠っていたんだろう……。乃亜は昨晩、フクロウの鳴き声を殺人現場と勘違いする醜態を演じてから、再び気絶するような深い眠りに落ちていた。
助けてくれた……というか、とりあえず現場に現れてあの悲鳴の正体を教えてくれたダグラスは、乃亜をキャビンの玄関まで送り、中に入るのを見届けると無言でいなくなってしまった。
(とにかく今日からここで生活させてもらうことになるのよね。なにもせずに無駄飯食いになるわけにはいかないから……なにか手伝わないと)
まあ、ご飯が提供されるとは思わないけれど、このキャビンにだってそれなりの価値はあるのだし、電気代や水道代だってかかる。牧場というからには仕事は山ほどあるはずだ。ホセのような従業員だっている。
フラフラと浴室に向かって、そこで洗面台の鏡を覗き込んだ。
おでこに三日月型の真っ青なあざができていた。
うう……。
乃亜は普段は横に流している前髪の一部であざをできるだけ隠してみた。
乃亜の髪は日本人にしては淡い茶色で柔らかく、それだけがアメリカ人の血を引いていることを匂わせた。顔つきに関しては曾祖母春子の若い頃にそっくりだったが、春子自身が目のぱっちりした二重の可愛らしい顔つきのひとだったので、時々はハーフに間違われることもある。
(おばあちゃんはどうして今を選んだんだろう……)
もう今さら嘆いてもどうにもならないけれど、予定通りにいかないことだらけで誰かを恨みたくなった。
とはいえ最愛の曾祖母に怨念を持つ気にはなれず、もうすぐ百歳を迎える顔さえ合わせたことのない心臓発作で入院中の曽祖父はさらに無罪だ。
となると……浮かぶ顔はひとつ。
(ダグラス……ジョンソン・マクブライトか……。ジョンソンはミドルネーム? でも両方苗字っぽいけど……養子だから元の苗字を合わせたのかな)
もちろんダグラスにだってなんの罪もない。
向こうからしたら乃亜は、ある日突然、勝手に彼の牧場に乗り込んできた養父の血縁だ。普通、ようこそいらっしゃいませとはならないだろう。
でも、どうしてだろう……。
彼にはなにか、もっと暗い陰があるような気がした。
触れてはいけないなにか。
のぞいてはいけない、深層。
* *
「おはようございます!」
できるだけ明るい声を心がけて、乃亜はダグラスの家の玄関をノックした。
最初は無言でノックだけしたのだが、まったく返事がないので挨拶の声を上げることにしたのだ。なぜ彼がまだ家にいると判断したのかといえば、例の白いピックアップトラックが脇に停まったままだからだ。
一見しただけでもスプリング・ヘイブン牧場は広大だった。
広大過ぎて、人間の足でどこかを回れるようには思えなかったから。
「おはよう……ございます、ミスター・マクブライト! ここにいないんですか?」
ダグラスと呼び捨てしていいのかわからなくて、とりあえずそう敬称呼びにしてみる。そもそも家が広いから、聞こえなかった可能性も考えてさらに強くドンドンと叩いてみるが、返事はまったくない。インターホンの類も見当たらなかった。
出足をくじかれてうなだれていると、どこかから耳慣れないパッカパッカという小気味のいい乾いた連続音が響いてくる。なんの音……?
「あんたはなにをやっているんだ」
乃亜は声のした方を振り返った。
そこにいたのはダグラス・マクブライトで、乃亜は驚きに息をのんだ。
ダグラスは大きな焦げ茶色の駿馬に跨っていた。
見るからに使い込まれた分厚い革製のサドル。それと同色同質の長い手綱。チェック柄の長袖シャツは色あせたジーンズにたくし込まれていて、足元は黒に近い色合いのブーツで固められていた。そのブーツのかかと部分には、ちょっと痛そうな突起のついた小さな拍車がついている。
そして、あのアビエイター・サングラスと。
なだらかに波打つ角度のついた、つばの広い帽子……。
あ、れ、だ。
「ほ、本物……だぁ……」
乃亜は思わず日本語で感嘆していた。
でも間違いない。これは……三百六十度どの角度から見てもまぎれもない……カウボーイだった。
いや、もちろん昨日の時点で面影というか……原型はあった。でも実際に馬に乗って手綱を握って、カウボーイハットと乗馬用ブーツを履いているとなると、もう完璧なる完成型である。
それも映画でしか拝めないような美形カウボーイだ。
もし眺めているだけでいいだけなら、乃亜は喜びによだれを垂らしていただろう。もしかしたら自覚がないだけで、実際垂れているかもしれない。
でも……。でも。
「聞こえなかったのか? なにをしているんだ」
こんなふうにすごまれていなければ! 喜べたはず!
しかし現実は無情で、サングラスに隠れて目つきまでは見えないけれど、彼の眉間の皺は視力1.0の乃亜にもはっきり見えるほど深く刻まれている。
「あの……おはようございます」乃亜はささやいた。
「おはよう」
ダグラスの棒読みはアメリカン・エアライン機内の冷房よりも冷たかった。
「ミスター・マクブライト。実は……せっかくお世話になるんですから、なにかお手伝いできることがあるかと思ったんです。それで……」
「君にできることはないと思うよ」
早っ!
「そんな、決めつけなくても……。わたし、結構なんでもできます。スポーツもしていたのでそれなりに体力もあります」
「そのスポーツとは?」
「バレエです。踊りの」
「ジーザス・クライスト」
「え?」
「なんでもない。それで? 俺とホセと馬の前でチュチュでも履いて踊ってくれるのか?」
「は……」
このひとは……。
これで乃亜がおののいてスゴスゴと引っ込むと思っているのだろうか? いや、確かに引っ込みたいけれど、乃亜にだって意地がある。根性が。そうでなければコロラドになんて来ない……。
「それがあなたの望みなら、ミスター・マクブライト、やってあげます。そんなにチュチュが好きなの?」
ダグラス・マクブライトはなにか聞き取れないうなり声のようなものを漏らした。
彼の乗っている馬が、ヒン、ヒン、と哀れっぽく啼いた。
「……そう言うなら、来てみるといい。仕事をやるよ。後悔することになると思うけどね」
乃亜は心の中でガッツポーズをした。
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