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【乃亜の章】
「君にできることはないと思うよ」②
とはいえ、ダグラスは馬に跨ったままでその場から動かない。
『来てみるといい』──どうやって?
乃亜のレンタカーが煙を吹いて動かなくなったのはダグラスもよくわかっているはずだ。ダグラスは馬上で、ほかに乗り物らしいものはピックアップトラック以外なにもなく。
つまり……歩け、と?
「わかりました」
乃亜は毅然と告げ、それこそチュチュを身に着けて舞台に立っているときのようにピンと姿勢を正し、不愛想な、でもそんなことはどうでもよくなるくらいハンサムなカウボーイに向かって歩を進める。
「さあ、行きましょう」
──泣かないのよ、乃亜。なんでもできると啖呵を切ってしまったのは自分でしょう。
ダグラスは近づいてくる乃亜を疑わしそうに眺めている。
ちょっと姿勢を崩して、馬上でサドルに片ひじをついているダグラスは、もうどこからどう見てもジーンズかサングラスの宣伝広告モデル並みの優雅さだ。
乃亜がダグラスの横を通り過ぎるとき、馬がヒン、と鼻を鳴らした。「あんた大丈夫?」と言われている気がした。多分間違ってはいない。
己のくだらないプライドを守るため、カウボーイと馬を置き去りにしてズンズン歩いて牧場に向かっていく乃亜の背後に声がかかる。
「ひとりで歩いていくつもりなのか?」
意外にも、ダグラスの声色には乃亜を馬鹿にするような響きはなかった。笑っているわけでも、怒っているわけでもなく、淡々と事実を確認しているという感じだ。
乃亜はためらいながらカウボーイと馬を振り返った。
「……ほかに選択肢がありますか?」
「あるよ。この馬に乗ればいいだろう。チャンピオン、このお嬢さんを乗せてほしい。どうだ?」
ダグラスは馬の首筋を軽く撫でながら、穏やかにさささやく。
チャンピオンと呼ばれた馬は誇り高く首を反らして、なんらかの意思表示をした。それは……イエス? ノー?
「チャンピオンは君を乗せていいと言っている」
「そ、そうなんですか」
「ああ」
そしてダグラスは見惚れるような滑らかな動きでチャンピオンから降馬した。
乃亜は東京生まれで、馬を乗り降りする人間を至近距離で目にするのははじめてだった。だから比べるものがないけれど、ダグラスの動きはこの上もなく美しくて、映像で見るよりずっと……色香があった。
「馬に乗ったことは?」
「ありません」
例の『ジーザス』を覚悟したのにそれはなく、ダグラスはただうなずいた。すでに呆れを通り越して悟りを開かれてしまったのかもしれない。
「もし牧場の仕事を手伝うつもりでいたのなら──」感情の読めない抑制の利いた静かな口調で、ダグラスは続けた。「なぜそんな恰好をしている?」
乃亜は己の姿を見下ろした。
動きやすいようなスポーツ用レギンズとシンプルな白い半袖シャツ。足元は運動靴である。
レギンズなのはダンスをしていた乃亜が一番動きやすいと感じるボトムスだからで、半袖シャツは……まあ、夏だからだ。そして動くなら運動靴。
特にとがめられるような恰好ではないはず。
乃亜はそれを淡々と説明した。
「他に服は持ってきていないのか?」
あ、マイルドに無視されてる感じ?
「あまり数は持ってきていなくて……。元々、ウィリアムさんに会って手紙を渡したら、少し観光して帰るつもりだったんです。これの他はワンピースとか」
言いながら、乃亜はダグラスの恰好をあらためて確認する。
シャツの布はしっかりとした厚手で、長袖のカフスまでしっかり留められている。下はもちろんジーンズだ。今時のファッションにありがちなわざと開けた穴などは一切ない、最もシンプルなかっちりしたジーンズ。
足元は踏まれたらかなり痛そうな革靴で、文字通りしっかり固められている。
「その服装、暑くないんですか? そもそもどうして皆さんその恰好なの?」
「この季節じゃどんな服を着ていても結局暑いだろう。だったら自分の身を守った方がいい。どうしてこの恰好をしているかについては……日が暮れる頃にはわかるよ。もし本当にここで働くつもりなら」
乃亜はぱちぱちと目を瞬いた。
「戻りたかったら戻った方がいい。君にこの牧場のことはわからないよ」
ダグラスは手綱を引きながらチャンピオンと共に乃亜に近づいてきた。
まだ比較的早い時間とはいえ、太陽はすでに燦燦と地上に降り注いでいる。眩しくて目を細めながら、ダグラスのカウボーイハットを羨ましく思った。他はわからないけれど、少なくともこのつばの広い帽子は間違いなく実用に優れている。
ただクリント・イーストウッドを美しく見せるためだけじゃないんだ。
「……どうしてわからないと思うんですか?」
「一目瞭然だからだ」
「む」
ぽすっ。
いきなり目の前に陰がかかって、乃亜はなにかダグラスに嫌がらせをされたのかと身構えた。でも次の瞬間、自分の頭についさっきまで羨ましいと思っていたカウボーイハットが乗っているのに気がつく。
逆にダグラスのいわゆるダークブロンドの髪が、日に照らされて輝いていた。
「君に貸せるのはこれだけだ。少なくともこれは被っていろ」
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