二度目の永遠 ~ある夏にコロラドで見つけた牧場主との運命の恋~

泉野ジュール

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【乃亜の章】

厩舎にて②

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「……馬の歯を磨く必要はないよ」
 とりあえずダグラスはそう言ったけれど、その案を前向きに考えているみたいに乃亜を見つめている。
「じゃあ、なにを……」
「とりあえず通路の掃除を手伝ってくれ。その恰好じゃできるのはそれくらいだろうから」

 壁に立てかけてあった掃除道具の中から、最もシンプルな熊手っぽい鍬を手渡される。乃亜はできるだけ勇ましくその鍬を握ってうなずいた。

 他に比べるものがないけれど、厩舎の中はかなり清潔に保たれている。
 それでも、馬が皿に干し草を乗せて上品に食事をとることができるわけではなくて、柵から藁があちこちにはみ出て散らばっていた。

「柵の中には入らないこと。それからこの列の一番奥の黒馬には近づかないこと。あそこは俺がやる」
 ダグラスが忠告した。
「はい……。でも、どうして?」
「あの黒いのは悪魔の化身なんだ。すでに三人の従業員が奴のせいで怪我をしている」
「はあ」
「最初に言った通り、俺は君に手伝いを期待しているわけじゃない。嫌ならいつでもやめていい」

 もしかしてダグラスは一周回って乃亜を焚きつけているのだろうか。そんなことを言われると、逆に猛烈に働いて見返したくなるのが人間の性だというのに。

「わかりました。完璧にやってみせます」
「…………」

 ダグラスはまたため息を吐くとサングラスを外して胸の前に掛けた。現れた灰色の瞳に、乃亜はあらためて見惚れてしまう。
 なんだか不必要なくらいじっと見つめられている気がして……余計に。
 すると急にダグラスの手が伸びてきて、乃亜が被っていたカウボーイハットを持ち上げた。

「……これは誰にやられた?」
「え」
「昨日は気づかなかった。いったいいつ、ついた傷なんだ?」

 ダグラスは片方の手で乃亜が被っていたカウボーイハットを取り、別の手で彼女の前髪をたくし上げた。当然、ふたりの距離は縮まり、乃亜はダグラスを見上げる格好になる。
 傷……?
 ああ、昨夜フライパンでついたあざのことだろうか。

 説明しようと思えばすぐに説明できたはずなのに、ダグラスのような長身美形のカウボーイに前髪とおでこを触られている緊張……というか、ときめきは、乃亜の舌を混乱させた。
 それでなくても外国語でものを順序だてて説明するというのは難しいのだ。

「えっと……フライパンにぶつけて……」
「フライパン? 誰かがフライパンで君を殴ったのか?」

 どういう……展開? 論理の飛躍?

 乃亜はパチパチと目をまたたいた。
 真剣なダグラスの灰色の瞳に引き込まれそうになる。おそらく見惚れたりしている場合ではないのに、こんな至近距離で、こんな美形に、これほど真摯に見つめられて、平常心でいられるはずがない。

「大丈夫ですから……」
 なんとなく身を守るものが欲しい気持ちになって、取られたカウボーイハットに手を伸ばそうとする。
 ダグラスはそれを阻止するように、一度は乃亜に被せていた帽子を彼の頭にぽすんと戻した。
 あ、やっぱり素敵。カッコいい。すごく似合っている。

「大丈夫なはずがない。呆けていないで答えてくれ、いったい誰がいつどういう理由で君を殴ったんだ。しかもフライパンで」

 なんだか乃亜が糾弾されていると錯覚してしまうくらい真剣な、怒気をはらんだ口調だった。しかもダグラスは乃亜の二の腕をギュッと掴んできた。

「昨晩……というか、夜中に……」
「昨夜? あの時外にいたのはフクロウの鳴き声のせいだったんじゃなかったのか? 他になにかあったのか?」

 乃亜は驚いて息を詰めた。ダグラスがどこか、こう……一種のパニックを起こしているように見えたからだ。まるで乃亜の怪我の責任がダグラスにあるみたいに。
 まるで……彼自身が傷ついたみたいに。
 それはなぜか嫌な気分ではなかった。焦りはしたけれど、なぜかお腹の奥がきゅんと疼くような不思議な熱に包まれる。

「自分でやったんです……。だから心配いりません」

 乃亜は一応の真実を告白した。ただ、自分でも賢い説明の仕方だとは思えなかったから、ダグラスの眉間の皺がさらに深くなったのを責めることはできない。

「君は自分の頭をフライパンで殴ったのか?」
「そういうわけでは。えっと……お……落ちてきて……?」
「あのキャビンに頭より高い位置のキャビネットはなかったはずだ」
「違います。あの殺人の悲鳴を聞いたあと、被害者を助けなくちゃと思ってフライパンを防具代わりにして外に出たんです」
「……ふくろう」
「そうだったみたいですね。でもあのときはまだ知らなくて。外は完全に暗くて、キャビンの周りのこともあまり知らなくて……なにか切り株みたいなものに躓いて、後ろ向きに転んだんです。そのとき手にしていたフライパンがここに落ちてきました」

 サングラスを外してくれたとはいえ、ダグラスは表情だけですべてを読めるような明け透けなタイプではなかった。
 乃亜を見つめる灰色の瞳は、なにがしかの深い感情をはらんではいる。

 それが乃亜の説明に対する理解なのか、感心なのか、呆れなのかはわからない。多分呆れなのではないかと、なんとなく予感はしたけれど。

 ダグラスはくいっと顎を突き出して、それでなくても見下ろす形だった乃亜をさらに上方から見下ろした。

「……どこからコメントするべきか悩んでいる」
 と、カウボーイは言って、かぶりを振りながら長いため息を吐いて乃亜の二の腕を放した。
 そして、頭痛がするみたいに片手で眉間を押さえた。

「ひとつ、もし殺人現場に出くわしたら、外に出てくるのではなく隠れるんだ。なにか有用な武器を持っていない限りは」
「だからフライパンを」
「ふたつ、フライパンは武器ではない。防具でもない。この場合は火器のことを言っている。ハンドガン、猟銃、ライフル、そういったもののことだ」

 乃亜はふるりと身震いした。
 たしかに乃亜はアメリカ大陸のど真ん中にいるけれど、そんなものを手にするオプションをさらりと告げられると背筋が凍る。

「そして、みっつ目……。これが一番重要だ。怪我をしたならきちんと俺に言うべきだった。頭を打っていたなら余計に、すぐ眠るのは危ない。誰かが君を看ているべきだったんだよ」

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