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【乃亜の章】
厩舎にて③
しおりを挟む誰かが君を、看ているべきだった……。
そんなふうに言ってもらえることに、乃亜の中のなにかが喜んでいる。どうしてだろう? どんな理由であれ、誰かが自分を心配してくれるのはありがたいことだ。でもそれだけじゃない……。
「つ……次はそうします……」
とりあえず乃亜はつぶやいた。
「そうしてくれ。もちろん、そんな必要はないことを願うが」
ダグラスは静かに……ともすれば陰気な声でそう答えて、再度、乃亜の前髪に触れて三日月型のあざを確認した。
──ちょっと待って。もしかしてカウボーイってひととの距離感がバグってる? それとも乃亜はひととか、女性とか、そういうふうには思われていない? ここの馬と一緒?
「アイスパックを持ってこようか?」
「いえ……。ありがとうございます。でも、今さらだし……大丈夫です」
ダグラスは納得していない顔をしていたが、それでも一応うなずいてくれた。「もし痛んだり吐き気がしたりしたら言ってくれ」
乃亜はなんとか「はい」とだけ同意し、高鳴りすぎる鼓動を抑えるために一歩後ろに下がった。
正直、少し距離ができたことでダグラスの全貌が見えてしまい、かえって緊張したけれど。
──しっかりしなさい、乃亜! 今あなたには、この厩舎の床を掃くという重要な仕事があるのよ! 灰色の瞳のカウボーイに見惚れている場合ではないの!
使命感をみなぎらせた乃亜は、鍬をしっかり構えると与えられた仕事に邁進することにした。
ざっ、ざっ、ざざっ。
鍬の先端が、ざらついた音を立てて散らばった干し草を集めていく。
そんな乃亜の行為に感謝の目っぽいものを向けてくる穏やかな馬もいれば、胡散臭そうに新入り掃除係を鼻で笑っている馬もいる。中にはカカカッという音を歯で鳴らして、威嚇してくる馬もいた。
ダグラスはしばらくそんな乃亜を見つめていたが、やがていつもの深いため息を吐くと頭を振って、彼自身の仕事に向かった。
(カウボーイってなにをするんだろう……)
そんな好奇心が頭をもたげて、地面を掃きながらついついダグラスの方を盗み見てしまう。
彼はさっきまで不躾なくらい堂々と乃亜を見ていたので、乃亜だってこんなにコソコソする必要はないのだろう。でもなぜか、禁断を覗いているような気分になってしまって、上目遣いにこっそりと彼の様子をうかがった。
ダグラスは乃亜のように鍬を持ったりはしなかった。
代わりに、鍬が並べられていた壁にフックで掛かっていた、長い革のズボンのようなものを手に取る。ダグラスは慣れた手つきでそれを履いた。
(…………?)
薄い茶色の革製の長ズボンのようなものは、よく見ると上部が太ももの付け根辺りまでしかない。
なんというか……比べるものがないので表現が難しいが……作業着の一種だというのはわかるけれど……。
端的に言って布が足りなかった。
その……明らかにズボンなのに、男性の大事な部分だけ布がないのだ。ダグラスはそれをジーンズの上に履いている。後ろを向くと、お尻の部分も前と同じく布が足りない……。
乃亜は鍬を手から落としそうになった。
「ミスター・マクブライト……!」
ダグラスは顔を上げて、その(大事なところに)布の足りない革製の作業着ズボンを履いたまま乃亜のところに戻ってくる。
「なにか?」
「そ、そ……それは……どうして……」
単語が思いつかなかったから、乃亜は言い濁りながらダグラスの作業着(の布が足りない部分)に目を向けて声を震わせた。
ダグラスはスタスタと乃亜の前を通り過ぎる。
下にはジーンズを履いたままなので、別に大騒ぎするような恰好ではないはずだ。重要な表現:『はず』。現実はそれでなくても男らしいダグラスをさらに色っぽく見せていて……。
「なにが、『どうして』?」
「その……ズボンは……なんですか……?」
平静を装うつもりだったのに、乃亜は自分でもわかるくらい真っ赤になって、鍬の柄をまるで命綱のようにきつく握ってしまっていた。
ダグラスは彼自身のズボンに視線を落とした。そしておそらく乃亜の狼狽の理由を理解した。
「チャップス」
「へ?」
「これの名前だ。チャップス」
「そ……それは意外と……可愛らしい名前で……」
ついに直視できなくなった乃亜が地面の干し草を掃く作業を再開させようとすると、ダグラスは足を止めて振り返った。
そして胸の前で腕を組む。
──ちょっと、その体勢は! 刺激が! ツヨスギマス!!
「馬に乗るときに足を守るためのものだ。長時間乗るときやロデオでブル・ライダーが履く」
ブル……雄牛!
雄牛がいるの? ここから歩いて行ける距離に? あの、西部劇でしか見たことのない、角の生えたごつい筋肉の塊みたいな凶暴そうな生き物が? まさか普通にこの牧場で草を食んでいたりするの?
「俺は、ロデオはしないよ。もし疑問に思っているなら。少なくとも今はもう」
「じゃあ、どうして……」
「奥にいる黒いのに乗るからだ。暴れることがあるから、君は近づかないでくれ」
「は、はい」
近寄れと言われてもできない……気がする。
乃亜は頬を赤らめたままうつむいた。ダグラスは腕を組んだままわずかに首をかしげた。
「──そんなティーンエイジャーみたいな反応をしないでくれ。処女でもあるまいし」
な──っ?
確かに、ちょっと刺激的な恰好をしている男性が目の前にいるからといって赤面している乃亜は子供っぽすぎるし、ダグラスからしたらあまり気持ちのいい反応ではないのだろう。それはわかる。
でも。
でも……。
「『ハルコ』はあれだけ手が早かったんだ。君だってそんなものだろう」
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