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【乃亜の章】
厩舎にて④
しおりを挟む乃亜の身体は硬直した。
ついさっきまで真っ赤だった顔は、きっと蒼白を通り越して紫か土色になっているだろう。あまりよくない意味で心臓がドクドクと高鳴った。
「なんですって?」
乃亜はすごんだつもりだったが、ダグラスはひるまなかった。
「言った通りの意味だ。うぶなフリをしていないでさっさと仕事をしてくれ。そのためにここに来たんだろう」
それだけ言い捨てるとダグラスはくるりと踵を返して、厩舎の奥に向かってしまった。
鍬を持つ乃亜の手が震えはじめる。
恐怖ではない……怒りで。
やるせなさで。
ひとつ深く息を吸うと、乃亜は鍬を手放して地面に落とした。
そして自分で集めた干し草の山にガッと勢いよく手を突っ込んだ。持てるだけの干し草を握りしめると、全速力でダグラスのあとを追った。
「なにを────うぉっ!」
ダグラスは変な声を上げた。それだけで少し胸がすく。この冷静なカウボーイを少しだけでも困惑させることができた。
乃亜は手にした干し草をダグラスの背中に向けて投げつけた。
さらに地面に落ちた干し草をもう一度掴みなおして、ダグラスのシャツの後ろを掴むと、襟首から乾いた干し草の塊をねじり込んだ──少なくとも、ねじり込もうとした。
乃亜は癇癪持ちではない。
でも……。
でも、ひとには触れてはいけない弱みがある。超えてはいけない一線が。ダグラスは乃亜のそれを踏みにじった。乃亜だけでなく曾祖母の名誉まで。
「やめろ! なにをしているんだ、気でも狂ったのか──」
たかってくるハエを追い払うみたいに、ダグラスは背後の乃亜をどうにかしようと腕を上げた。
殴られるとは思わなかったけれど、突き飛ばされるくらいは覚悟していたのに、ダグラスはただ乃亜の干し草攻撃をかわすために両腕を宙に浮かせるだけだった。
乃亜はなにも言い返せなかった。
ただ喉が詰まって、こめかみがツンと痛んで、乃亜はボロボロと涙をこぼしながらそれでもダグラスに干し草を投げつけるのをやめなかった。
それしかできなかったから。
そうして数分もみ合っているうちに、乃亜の力も、怒りも、手にした干し草もなくなっていく。最後にダグラスの頭からカウボーイハットが地面に落ちて、なにかが終わった気がした。
どうして人生はこうもうまくいかないんだろう──あちらでは身持ちの硬さを理由に捨てられ、こちらでは身持ちが悪いみたいに罵られる。
乃亜は厩舎の地面につっぷして肩を震わせて泣いた。
「ノア……」
頭上からダグラスの声が乃亜を呼んだ。
甘い、優しいと言ってもいいような静かな声色。こんな素敵な男性なのに、乃亜に対しては冷たい。悔しい。苦しい……。
「悪かった。言うべきじゃないことを言った。すまない。泣かないでくれ」
「う……ぅ……っ」
「悪かった……。ノア、本当にすまなかった」
ダグラスは何度も謝罪を口にしたけれど、許してくれとか、立ってくれとか、乃亜になにがしかを期待するようなことはほとんど言わなかった。ただ謝ってくれる。
それは少し……心地よかった。
どのくらい時間が経ったかわからないけれど、とにかく泣けるだけ泣きつくした乃亜はゆっくり顔を上げた。
まだ干し草を肩から被ったままのダグラスが、心配げに乃亜を見つめている。
「わ……わたしのことをどう思っても……構いません。でもおばあちゃんのことは……悪く言わないで」
朝、必要最低限しか化粧していなかった乃亜の顔はきっとぐちゃぐちゃだろう。マスカラをしていなくて逆によかったかもしれない。
「わかった。わかったよ、本当にすまない」
「い……いいんです……。あなたが、わたしを迷惑だと思う理由は……わかりますから……。でも、言っていいことと悪いことが……」
「その通りだ。君が百パーセント正しい」
そう言いながら、ダグラスは乃亜の頭にも乗った干し草を取ってくれた。彼自身も干し草まみれなのに、それは軽く頭を振って落とすだけにとどめている。
ふたりとも厩舎の地面に座り込んだような格好のまま、互いの顔をじっと見つめ合った。
「君がこんなに勇敢だとは思わなかった」
と、ダグラスはつぶやいて、しばらくは黙っていた。しかし次第に肩を震わせて笑いはじめた。
──笑い!
もしはじめて見る笑顔のダグラスがこんなに素敵じゃなければ、今度は干し草どころか馬糞を投げつけることだって考えた。でも……。
でも。
「じゃあ、なんだと思ったんですか。大事な純潔をあざ笑われてだまって泣き寝入りする弱虫だとでも……?」
ダグラスの笑いがぴたりと止まった。
「ちょっと待ってくれ、君は本当に処女なのか?」
むむ!
「……あなたこそちょっと待ってください。カウボーイはみんなあなたみたいに失礼なの?」
「イエス。それどころか、俺はそんなに口の悪い方じゃないよ。先に俺の質問に答えてくれ」
「そうです! その通りよ!」
乃亜は破れかぶれに声を上げた。
おそらく乃亜の羞恥心とかマナーというものは、あのポンコツレンタカーの冷却水の蒸気とともに、コロラドの荒野で湯気になって消えたのだ。
「広瀬乃亜、二十四歳! 男のひととはキスもしたことがありません! 最後の恋人にはそのせいで振られました! ひと月前のことよ。この答えでご満足ですか、クリント・イーストウッドさん!」
ダグラスはその灰色の瞳を大きく瞠目して──そして、さっきよりもさらに大きな声で笑いはじめた。
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