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【乃亜の章】
「俺は誰も乗せない」④
しおりを挟むダグラスの目線は真っ直ぐ乃亜の胸元に向けられている。
不思議に思って彼の視線の先に自分でも目を向けてみると、ネイトと呼ばれた金髪カウボーイの手がぴったり胸元に張りついていた。
いや、正確にはアイスパックがあるので直接ではないけれど、遠くから見れば完全にネイト氏が乃亜の胸を触っている図だろう。
なぜか、乃亜は自分がいけないこと──まるでダグラスを裏切るようなこと──をしてしまった気がして、後ろに退いた。
「おっと」
ネイトはそれを阻止するように乃亜の背中に片腕を回した。もしかしたら乃亜が転ぶと勘違いしたのかもしれない。
とにかくダグラスは驚くような速さで乃亜とネイトの間に到達した。
「なんだよ。新しい同僚に挨拶しているだけじゃないか」
と、ネイト。
声色こそ苛立ちを装っていたが、顔は完全に笑っていて、この状況を面白がっている。
「彼女は従業員じゃない。客だ」
対するダグラスの答えは、鋭い目つきと同じくらい危険な響きでネイトを威嚇していた。そう、威嚇。
動物がするあれとまったく同じ響きをしていた。
「じゃあ客に料理させてるのか? とんでもない野蛮人だな、ダグラスさんよ」
「違います! わたしがやりたいって申し出たんです。ミスター・マクブライトは強制したりしませんでした」
まだ状況がわからないけれど、なにか争っているなら乃亜はダグラスの味方をしたい。
そう意気込んで弁護したつもりだったのに、ダグラスは乃亜をぐいっと彼の背後に押しやった。
「君は黙っていてくれ、ノア」
そんな!
もちろんカウボーイ同士の威嚇のし合いに乃亜が勝てるとは思わないけれど、少しくらい加勢させてくれてもいいのに……。
「ノアって言うんだ? いい名前だ。俺は──」
「ノア、この男はネイト・モンゴメリー。うちの牧場の乗馬インストラクターだ。ネイト、こちらはミス・ヒロセ。親父の古い知り合いの娘さんだ。お前が手を出していい相手じゃない」
ネイトの自己紹介を遮って、ダグラスがそう口早に説明した。
これまでダグラスは決して早口で喋るひとではなかったので、乃亜はちょっとこの男性の可能性に驚いた。その気になれば達弁になれるひとなのだ。
「ウィリアムの知り合い? それはタイミングが悪くて大変だったな。せっかく来てくれたのに……その、入院中で」
おそらく、長くはない、というような発言をしそうになったのだろう。
でもネイトは表現を曖昧に濁した。
答えようがなくて乃亜はただ静かに小さくうなずいた。
「そんなわけで、親父が目を覚ますまで、彼女は俺の責任で面倒を見ている。今晩ここで飯を食いたいなら、シャワーでも浴びてその悪臭を落としてからにしてくれ」
ダグラスはそう言ってネイトを一旦追い出そうとした。ネイトは「えー」などと文句を言いつつ、自分のわきの下を嗅いで顔をしかめ、そして笑った。
──責任……。
そうか、責任。そうだよね。
あの笑顔や優しさに片鱗に、それ以上の意味なんかないんだ。
「わかったよ、ダグラスさん。でもこのお嬢ちゃんの火傷にアイスパックを当ててやるのを忘れないでくれ」
ネイトは去り際、ダグラスの手の中にアイスパックを押しつけて出ていった。
「──アイスパック?」
灰色の瞳が、今度は乃亜に向かって鋭く細められる。
「えっと……少し火傷をしちゃったかもしれなくて……」
「フライパンで頭を殴っただけでは足りなかったのか、ノア?」
「殴ってません。あれは落ちてきたの」
「フライパンは勝手に空を飛ばないんだよ、東京のお嬢さん。どこを火傷したんだ。見せてくれ」
──見せ……!
「無理です、服の下ですから」
「服の下? 服の下にある火傷に服の上からアイスパックを当てていたのか?」
ダグラスはまるで悪夢を見ているみたいに顔を歪めた。アイスパックを握る手がかすかに怒りに震えている。
まずい。多分、かなり。
「一番やってはいけないことだ。もし焼けただれた肌に布が張りついたりしたら──」
「そんなっ、大袈裟です。ただ料理のソースが飛んだだけだから……せいぜい少し赤くなった程度で……」
「見せろ」
ダグラスの懇願は命令形に進化した。
仕方がないのでワンピースの胸元のボタンに手を伸ばすと、ダグラスの手もそれに覆い被さってくる。
──心臓よ、静かにして。
きっとこれは彼の『責任』だから。馬を世話するのと同じ。馬が鍋の中のソースで火傷をしても、きっと彼は同じことをするでしょう。
ふたり一緒になってボタンをふたつ目まで外すと、ほんの少し赤くなった乃亜の素肌が露わになった。火傷というほどでもない、おそらく軟膏を塗っておけばすぐに治ってしまう種類のわずかな肌の赤み。
でも、ダグラスの視線はじっとそこに吸い込まれた。
そして無言で、そこにアイスパックを当てた。
乃亜は思わず小さく笑ってしまった。
「どうして笑う?」
「どうしてって……ふふ、実はネイトさんに同じことをされたとき、彼じゃなくてあなただったらよかったのにって思ったんです。それが叶ったから、なんだかおかしいなと思って」
調理に使う赤ワインを少し味見してしまったせいだろうか?
ひやりと肌に伝わる冷たさが心地いい。わずかに肌にかかるダグラスの吐息は必要以上に荒い気がした。その意味を深く考えようとすると、なぜか頭がくらくらしてくる。
「……この程度ならすぐ治るだろう」
ダグラスは誰にともなくつぶやいた。
「そう言ったでしょう?」
乃亜はさらに笑った。
やっと安堵したのか、ダグラスの関心は乃亜自身から乃亜の料理に移ったらしく、クンクンと匂いを嗅ぎだした。
「この旨そうな匂いがなんなのか聞いても……?」
「牛肉と野菜の煮込み料理です。付け合わせはライスにしたかったんですけど、放っておいたらもうすぐ芽が出そうなジャガイモが沢山あったので、そっちをフライドポテトにしました。ちょっとカロリーは高いメニューですけど、皆さん肉体労働でしょう? サラダも作ったし、そこまで脂っぽくはないと思います」
ダグラスがやっとアイスパックを離してくれたので、乃亜は巨大なガスコンロの上でまだ煮込まれている鍋の中身を自信満々で披露した。
褒めてもらう気でいたのに、ダグラスの反応はチベットスナギツネ並みに目を細める、というものだった。
ちなみに、灰色の瞳の美形カウボーイがそれをやると、とても……色っぽいということを、乃亜は学んだ。
「ノア」
「……はい?」
「君は今夜、少なくともふたりの独身男からプロポーズを受けるよ。覚悟しておいた方がいい」
「それは……誉め言葉だと思って……いいんでしょうか」
そして──そのふたりの中にあなたは入っているの?
引き出しからフォークを取り出したダグラスは、鍋の中の肉片を味見して、うーんと感極まったようなうなり声を漏らした。
いやだ、どうしよう。
ダグラスが男性として素敵だとか、彼の武骨でいて少し優しいところに惹かれはじめているとか、そういう要素を横に置いておいたとしても、こんなふうに自分よりずっと大きい生き物の胃を満たして満足させてあげるというのは……一種の快感だった。
癖になってしまいそうなくらいに。
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