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【乃亜の章】
「俺は誰も乗せない」⑤
「……テーブルのセッティングを手伝うよ」
乃亜の質問をはぐらかしたダグラスは、キャビネットから皿やカトラリーやコップを出してダイニングテーブルを調えはじめた。
それもまた、ダグラスのような男性がやってるのを見るのは……控えめに言っても目の保養だ。乃亜は今日まで自分は時代にそぐわないくらい身持ちが硬いと思ってきた。心も体もそう簡単には誰にも落ちないと。でも、意外とチョロかったのかもしれない。
──考えてみなさい、あなたにはウィリアムの血が流れているのよ。
一度落ちてしまったら永遠だ。
抗えない……たとえ叶わない恋でも。
気がつくとテーブルはセッティングされ、乃亜の料理はできあがり、日は落ちはじめていた。ダグラスは食前にビール瓶を一本開けて、正面のウッドデッキに出るとゆっくり呑んでいた。
「君は?」
半分開いた窓から乃亜がそれをのぞいていると、ダグラスは誘ってくれた。
「わたし、ビールはあまり……。さっき少しワインを味見でいただいちゃったし。勝手にすみません」
「ワインがいいなら新しいのを一本開けようか?」
「いいえ! そんなにお酒に強くないんです。もし他に呑むひとがいればどうぞ。多分、料理には合いますので」
「……毎回、君には驚かされるよ。冷却水も知らない世間知らずなバレリーナかと思えば厩舎を完璧に掃除して、その上シェフなんだな」
乃亜は笑った。「知ってたんですか?」
「は?」
「まだ料理長ではなくて一般の料理人ですけど。英語でいうクックですね」
ダグラスの口がぽかんと開いて、顎が床に落ちてしまいそうだった。可愛い。
今までずっと惑わされっぱなしだったから、もう少し驚かせてみたい気持ちになって、笑みを深めた。
「足の怪我でバレエを諦めたあと、料理の道に進むことにしたんです。レッスンばかりであまり成績はよくなかったので……学歴が必要な仕事は難しくて。体重制限のために自分で調理することが多くて、好きだったので。栄養士並みの知識もありましたし」
ダグラスはビール瓶を手にしたまま動かなかった。
声にはならなかったけれど、彼の唇は例の『ジーザス』を無音でつぶやいていた。
「……ミシュランガイドで星がひとつあるレストランに勤めていたんですよ。見習いですけど。最初は給仕係として滑り込んで、なんとかキッチンに入れてもらったんです」
「ノア」
ダグラスは頭を振りながら乃亜の名前をささやいた。「次はなんだ? 君の元カレは日本のエンペラーの息子だと言い出すんだろう?」
「違いますよ。そのレストランのシェフでした。だから振られると同時にクビになったんです。そんなわけで、コロラドの牧場に三十日間滞在することもできるんです」
ダグラスはビール瓶をウッドデッキの床に置くと両手で顔を覆った。
よく聞き取れない、乃亜にはちょっと理解の難しい英語のスラングを、ブツブツと手のひらに向かってつぶやいている。
やっと手を離して顔を上げると、ダグラスはちょっと可笑しな顔で微笑んでいた。
「そのシェフを殺してやるべきなのか……感謝するべきなのか、わからなくなってきたよ、ノア」
そう言って、ダグラスは残りのビールを一気に呑み干した。
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