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【乃亜の章】
月の輝く夜に①
しおりを挟むあれだけ暑い一日だったのに、夜になってみると外は過ごしやすかった。少なくとも東京の夏の夜のような蒸し暑さはない。
近いようでいて遠い星空が、幾千、幾億もの煌めきを放ちながら乃亜の頭上に広がっている。
昨夜はフクロウの一件で夜空を見つめる余裕はなかったけれど、今は。
今はもう……。
「わざわざ送ってもらわなくても大丈夫ですよ。ひとりで戻れます。本当にすぐそこですから」
マクブライト邸を出てキャビンに戻ろうとする乃亜の後ろに、陰気な顔をしたダグラスがのっそりとついてくる。
ネイトにそうしろと念を押されたからだろう。だからこそダグラスには、この不必要な役目を無理にしてほしくなかった。
それでなくても微妙な立場である自分を、さらにぬかるみに突き落とすような真似はしたくない。
本音を言えば、たとえ一分の距離でもダグラスと一緒にいられるのは、嬉しかったけれど。
「距離くらいわかってるよ」
ダグラスは憮然と告げた。
「──それでも、暗闇に君をひとりで帰すわけにはいかない。また殺人現場にでくわすかもしれないし」
「はは」
ジョークのつもりなのか言い訳なのか、それとも彼自身に言い聞かせているのか。真意ははっきりしなかったけれど、それこそたった一分の送迎をいつまでも遠慮しているのも馬鹿らしい。
ふたりは一緒に外に出た。
光の灯っている邸宅から少し離れると、そこには息を飲むような夜空が待っていて、乃亜とその隣を歩くダグラスを包む。
「すごい星……」
乃亜は日本語でつぶやいていた。
ダグラスが不可解そうな顔を向けてきたので、乃亜は英語に戻して説明した。
「すごく素敵な星空だなって言ったんです。ここまですごいのは東京ではあまり見られないから、感動しちゃって」
「ここに住めば毎晩いくらでも見られるよ」
「そうでしょうね。いいなぁ、ネイトさんと結婚すればいいのかな」
乃亜の冗談に、ダグラスはぴたりと足を止めた。灰色の鋭い視線を向けられて、乃亜の足も動かなくなる。
まずい。
つい昨日まで牧場乗っ取り疑惑をかけられていた乃亜が、口にするべきことではなかったのかもしれない。ネイトの両親の牧場を足掛かりに、ここも乗っ取るつもりかと言われたらどうしよう? 夕食時に聞いた話によれば、ネイトは三男坊なので、多分無理だとは思うが……。
「そんなことをする必要はない」
ダグラスは不動のまま静かにそう告げた。
「そ……その通りです……スミマセ……」
「君はウィリアムのひ孫なんだ。来たければいつでも来ていいし、泊まりたければ……あのキャビンは君用にして空けておくから」
「へ……?」
裏返った変な声が出てしまう。今、なんと……?
「おそらく親父はそう言うだろう。ここはまだ彼の名義になっているから、俺は逆らわないよ」
「ほ、本当ですか?」
「こんなことで嘘は言わない」
「それはそうでしょうけど……」
乃亜は体温が上がるのを感じた。ワインのせいだろうか。ダグラスの真剣な瞳のせいだろうか。あまりにも美しい荒野の夜のせいだろうか。
わからない……けれど、嬉しい、と思っている自分がいる。
乃亜による完璧なる厩舎の掃除と、美味なる牛肉のワイン煮込みがこのカウボーイに与えた影響を考えると、誇らしいような……空恐ろしいような。
「そんなに夕食が美味しかったんですか? 昨日は追い出されるかと思ったのに、すごい変わりようですね」
ダグラスは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「俺がそんなことを言ったか? 君を追い出したいと?」
「この牧場を乗っ取るつもりなのかとか、春子おばあちゃんとわたしを許さないとか、いろいろ仰っていたでしょう」
なにか聞き取れない単語をうなったダグラスは、ジーンズのポケットに両手を突っ込んだ。
「あのとき俺は……驚いていた。それだけだ。君は予想もしていなかったときに夢にも見なかった形でここに現れたから──」
そして降参するように首を横に振る。
「どうかしていたんだ。君を傷つけたなら、すまなかった」
星が。
遠くの星が、なにかを祝福するように輝いている。
もしかしたらふたりの周りに降ってくるのではないかと思えるほどの光が、足がすくむほど広大な荒野を照らしている。
月は三日月だった。
これからゆっくりと満ちていく、細くて、柔らかい月の影。
「ミスター・マクブライト……」
乃亜がささやくと、ダグラスは小さく舌打ちをした。
「それをやめてくれないか」
「え」
「俺を『ミスター・マクブライト』と呼ぶことだ。この牧場にミスター・マクブライトはふたりいる。少なくともふたりいたし……近いうちにまた、帰ってきてくれることを願っている」
「じゃあ……?」
「ダグラス、だ」
ダグラスの声は夜の空気に溶け込んで乃亜の鼓膜をくすぐる。ひとの名前ひとつが、こんなふうに心拍を乱すなんて、信じられなかった。
「ダグラス」
その名を舌に乗せると、乃亜の中でなにかが変わった。
おそらく、永遠に。
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