二度目の永遠 ~ある夏にコロラドで見つけた牧場主との運命の恋~

泉野ジュール

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【乃亜の章】

あなたと歩む道③ ※ダグラス視点



 ──俺はここでなにをしているんだろう。
 そんな理性の問いがまだ脳裏に残ってはいたが、いつまで冷静でいられるかは謎だった。目の前には乃亜がいて、薄い半袖のシャツとジーンズに身を包んで、潤んだ瞳でダグラスを見つめている。

 これはなんの試練だろう。
 なんの……拷問。

 三十五年も男として生きてきて、いまだに下半身の一部さえ制御できないとは、喜劇を通り越して悲劇では?

 ダグラスはシャワー上がりにジーンズを履くことにした己の判断を神に感謝したが、同時に天を呪いもした。
 厚いジーンズ生地の下では、無駄に自己主張をしたがる息子が今にも外に飛び出さんばかりに猛っていて、痛いからだ。
 この愚息は、目の前にいる元バレリーナを哀れなほど欲しがっていた。
 もしこの特定の部分に声があれば、深夜のフクロウも真っ青な求愛の叫びを上げていたことだろう。

 そんなふうに、この衝動を誰か──なにか──のせいにしたくなる程度には、ダグラスは自分を持て余していた。

「あの……ビールでも……吞みますか?」
 乃亜は視線を泳がせながら、とりあえずダグラスの裸足の足に焦点を定めると、あまり賢いとはいえない質問をしてきた。
 目の前にいる獣にアルコールを与えるのはよくないと、教わったことはないのだろうか?
 教えるべきだろうか?

「今はやめておくよ。なにか作ってもらえるなら、コーヒーを一杯」
「はい……もちろん」
「ありがとう」

 こそこそとダグラスに背を向けると、乃亜はコーヒーメーカーに手を伸ばす。
 乃亜もまた同じようにシャワーを浴びたばかりのようで、茶色の髪はアップにされていて、うなじ辺りに後れ毛がわずかに垂れている。

 なぜ……?
 なぜこんなにダグラスを誘うものが、この広瀬乃亜という女性には付属されているのだろう?

 別にここまで美しくなくても、ダグラスは乃亜に惹かれたはずだ。それでなくても我慢を強いられているダグラスを、さらに苦しめる理由が……神よ、いったいどこにある?

「ひゃあっ!」
 ダグラスの手が勝手に乃亜の首筋の裏をさすると、彼女は飛び跳ねんばかりに身震いした。

「……悪い。手が勝手に」
「なっ……手は勝手に他人の首を触ったりしないんですよ、コロラドのお兄さん」

 いつかのダグラスの口調を真似て、乃亜は抗議した。
 ──だから、なぜ。

「するんだよ、コロラドでは。時々。覚えておくといい、東京のお嬢さん」
「もう、そんな変なこと言ってるとコーヒー淹れてあげませんよ」

 構わないよ。
 俺はシャワーを浴びたばかりで、君もシャワーを浴びたあとで、するべきことなんて他にいくらでもあるだろう。君が付き合っていた阿呆なシェフが終えられなかった役目を、俺にさせてくれないか──ダグラスはほとんどそう言いかけた。
 ほとんど。

「それは困るな」
「そうでしょう? ちょっとソファで休んでいてください。今日は午後から様子がおかしかったから」
「そうさせてもらうよ」

 乃亜から離れる口実ができたことで、安堵のような落胆のような、複雑な気分に溺れる。とりあえず喉が渇いていたので、ダグラスは乃亜の後ろにあるキャビネットからグラスのコップを取った。

「ひぁ……」
 すると乃亜は、妙な声を漏らしながら手近にあったお盆を胸元に当てて、ヨロヨロと一歩下がった。

 そのとき、ダグラスはやっと、自分の裸の上半身がこの女性に与えうる影響を自覚した。

 別に自分を醜いと思ったことはない。
 ネイトのような誰からも好かれるいわゆるオール・アメリカン・ボーイではないが、大抵の成人女性はダグラスの男としての魅力を認めた。たとえば、コテージの女性客がダグラスの容姿を物欲しそうに眺めることを、嫌だとは思わない。金を稼ぐのに有利ならば、魅力はないよりあった方がいいと、その程度の認識でいた。

 しかし……乃亜が。
 乃亜がなにかを感じてくれるなら、ありがたく利用させてもらいたい。

「あの……ダグラス……?」
 彼女の隣から動かずにいると、乃亜はするすると、それこそバレリーナ特有の繊細な動きで優雅に後ずさった。
 ダグラスはそれに一歩で近づいた。

「なにを……してるんですか?」
「水を飲みたいんだ。蛇口が君の後ろにある」
「それもコーヒーと一緒に出しますからっ、ソファで休んでいてください!」

 乃亜は片手をお盆から離し、ダグラスの胸を別の手で押して距離を取ろうとした。そして素肌に指先で触れた瞬間、火傷したみたいにパッとのけ反った。
 ダグラスは乃亜の腰を取って、彼女が天板にぶつかるのを防いだ。
「あ────」

 もし……。
 もし乃亜が、将来の約束のいらない、今だけの関係を受け入れられるような女性なら。
 もしダグラスが、彼女を幸せにできるなら。
 幸せになってもいいのなら……。
 ダグラスはここで乃亜の唇を奪っていた。しかし『もし』の仮定はただ虚しいだけで、現実はどれも違う。

 だからダグラスは自分が許されるうちで最も夢に近いことをした。少しだけ背を屈めて、乃亜の耳元に顔を近づける。
 彼女のうなじから香り立つシャンプーの匂いを吸い込んで、目を閉じた。少しくらい素直になってもいい気がして、小さくささやく。

「俺が連れていくつもりだったのに」
「え……」
「なんでもない。君の言う通り、今日の俺は少し様子がおかしいんだ。あまり深く考えないでくれ」

 そしてコップを天板の上に置くと、乃亜の言う通りソファに向かって、そこにどさりと腰を下ろした。せめて……コーヒーと水を彼女にサーブしてもらうくらいの我儘は許されるだろう。
 違うのか……?

 ダグラスはソファに座ったまま足を投げ出して、手のひらで目を覆って心の嵐が去るのを待った。
 しばらくすると上品な足音が近づいてきて、ソファの前のコーヒーテーブルになにかが置かれる音がした。

「ありがとう」
 ダグラスは目を閉じたまま言った。
「どうしたしまして……。他になにか欲しいですか?」
 ──君が欲しい。
 許されるなら。

 そんな答えが喉から出かかって、ダグラスは目を覆ったまま口元だけで薄く微笑んだ。いったい自分は、あの世界一愚かなシェフとなにが違うのだろう。

「キスが欲しい。君からの」

 くそ。ダグラスは耳をつんざくような乃亜の悲鳴を覚悟した。
 もしくは平手打ちが飛んでくるか、それこそネイトにスマホで報告されて、ふたりに嘲笑われるか……。
 さっき拾ったばかりの包丁を差し向けられても文句は言えず、おそらくダグラスは抵抗しない──。


 ちゅ。


 温かくて柔らかくて……さっき嗅いだばかりの匂いのするなにか素晴らしいものが、ダグラスの頬に触れる。

 ダグラスは目を見開いてソファから腰を浮かせた。
 彼のすぐ横には、ソファの上に両手をついて四つん這いのような格好になった広瀬乃亜がいて、上目遣いにダグラスを見つめながら、頬を桃色に染めていた。

「────っ!」
 ダグラスが飛び跳ねるように後じさると、足元にあったコーヒーテーブルがあらぬ角度に傾いてコーヒーと水がこぼれた。

「ノア?」
「はい……?」
「今のは……」
「あ、あなたが欲しいって言ったから……。だめでしたか?」
「ノア!」
 ダグラスは喉が痛くなるくらいの声で叫んだ。

 三十五年。
 三十五年も男として生きてきて、下半身の制御どころか頬へのキスだけで昇天しそうになるとは、悲劇も喜劇も通り越して……病気だ。

 愛という名の不治の病。ダグラスのそれは乃亜という名前で、東京生まれの元バレリーナの形をしているらしかった。

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