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【乃亜の章】
あなたと歩む道⑤
しおりを挟むマクブライト邸のキッチンにひとりで立ちながら、乃亜は静かにハンバーグのタネを混ぜていた。付け合わせのベイクドポテトはすでに立派な巨大オーブンでいい感じに匂いをくゆらせはじめていたけれど、ついにお米が恋しくなってきた乃亜は別途鍋でライスも炊いている。
(君には『ハルコ』になって欲しくない……か)
乃亜の手がぴたりと止まる。
あれは半時間ほど前の出来事だった。
乃亜は半裸の推しに壁ドンされた──身も蓋もない言い方をしてしまうと、それがわかりやすい状況説明だった。
そして振られた。
色々複雑な事情をほのめかしてはいたけれど、結局はそういうことなんだろう……。そもそも告白したわけではないけれど。
告白さえする前に、「するな」と言われた形なわけで。
あのあと、ダグラスはいつものフランネルシャツを素肌の上に羽織ると弾丸のような勢いで玄関から出ていってしまったきりなので、今どこでなにをしているのかはわからない。
(最高の思い出……なんて、嘘、だよね……。わたしを慰めたくて言った、方便)
乃亜はすでにダグラスの過去の片鱗を聞いてしまったから、彼にはなにか……まだ知らない闇のような……事情のようなものを抱えているのを、なんとなく察してはいる。
でも、どんな事情があっても、結果が同じならなんの違いがあるだろう。
時代は変わった。
当時の曾祖母のような貧困は乃亜にはないし、太平洋を渡ることだって、国際恋愛や……国際結婚でさえ、ウィリアムたちの頃よりずっと楽になっている。だからそれを言い訳にするなんておかしい。
やっぱり、ただ乃亜を遠ざけるための口実なんだ。
(泣かない……っ)
なんとか己を律して手作業を再開すると、乃亜はスプリング・ヘイブン牧場のカウボーイたちの腹を満たすべく、無心に料理を続けた。
* *
その晩はいつもより人数が多くて賑やかだった。
普段は帰宅して夕食を取っているというコテージの従業員やホセの部下などまでが、乃亜の料理の腕の話を聞きつけて食べにきたからだ。
「あなたがノアね。ダグラスから話はかねがね聞かせてもらったわ。宿泊客にも好評で助かってるの。ありがとう。わたしはマリアナよ」
コテージ運営の雇いマネージャーだという三十代の女性もそこにいて、乃亜に握手を求めてきた。黒髪で、一見すると白人だが、もしかしたらインドか東南アジア系の血が混ざっているのかもしれない、少しエキゾチックな雰囲気のある美人だった。
「こちらこそ……ありがとうございます。毎朝楽しく作らせてもらっています」
「できたら、あなたにディナーのオーダーも頼めないかしらってダグラスにお願いしたのよ。そうしたらすごい剣幕で断られちゃったけど。ノアはこっちの夕食まで手伝ってくれているんだから、そんな負担はかけられないって。ね、ダグラス?」
美人マネージャー・マリアナは、ダイニングエリアをウロウロしているダグラスに声をかけた。料理ができた頃にやっと家に戻ってきたダグラスは、シャワーを浴びてから結構な時間が経っているはずなのに、髪は濡れたままだ。
それが彼の男の色気をさらに上げている。
ひとり馬鹿みたいに興奮したくなくて、乃亜はできるだけ推しのカウボーイを見ないように視線を泳がせた。
「そうなんですか……? オーダーの数にもよりますけど、少しくらいなら喜んで──」
「ノア、君はそのうち帰国するんだ。そこまで仕事は広げられない」
ダグラスの鋭い声がテーブルの向こうから飛んできて、乃亜は仕方なくそちらに顔を向けた。ダグラスは遠くから乃亜を見つめている。
そう、ダグラスは乃亜に近づこうとしなかった。
乃亜もあえて、彼に近づこうとはしなかった。
マクブライト邸は無駄に広いから、離れようと思えばいくらでも離れられる。この家で喧嘩をしたら、ちょっと寂しいだろうなと思ってしまうくらいに。
「確かにそうね。でも週末にひと晩くらい特別にやってみるのも面白いかと思うのよ。考えておいてね」
マリアナはそう言って、ダグラスの肩に親しげにぽんと手を乗せる。
ダグラスは特にそれを振り払うでもなく、淡々と受け入れていた。
──ズキン。
胸が痛んだ。心が。
マリアナは背が高くて、体格はしっかりしているけれど女性らしくて、ダグラスの隣に並ぶと本当にお似合いだった。多分年齢も同じくらい。もちろん英語もネイティブで、乃亜のようなアクセントもない。
ずっと男所帯のイメージだったから、こうして日常的にダグラスが別の女性と交流を持つのを見るのははじめてだった。
端的に言って……痛い。
夢から覚めて現実を見せつけられているような気分だった。
「よっ、ノア。今晩はまた君が調理の係だと聞いたから、飛んできたよ」
そんなとき、少し遅れてネイトがマクブライト邸に入ってきた。
ネイトは一直線に乃亜に近づいてくる。
このひとは素直だ。わかりやすくて、ダグラスのように乃亜との間に壁を立てたりしない。
別にダグラスとマリアナに当てこするつもりはなかったし、ネイトはどんな女性に対しても同じように軽く親しく接する……それはわかっていたけれど、乃亜はネイトの存在に安堵を見だして、近づいていった。
「こんばんは、ネイト」
英語マナーの教科書みたいな挨拶を乃亜がすると、ネイトはカウボーイハットを脱いで胸に当てた。
「こんばんは、ノア」
そして目の前にくると、乃亜の手を取ってその甲に小さなキスをした。
肌に触れるか触れないかの、挨拶のキス。
しかも場所は手だ。
ネイトは乃亜が、キスの経験さえないことなんて知らない。だから別にこのくらいは問題ないと判断したのだろう。ダグラスだって一度乃亜の手には唇を寄せている。
でもなぜか、ダグラスを裏切っているような、傷つけているような妙な寒気がして、彼の方を見られなかった。
とはいえダグラスはなにも言ってこない。逆に興味を示したのはマリアナだった。
「あら、あなたたちはもう仲良しなの?」
「まあね」
ネイトはまんざらでもないといった感じで、マリアナに向かって意味ありげな笑みを向ける。
「明日の準備はできてるかい、ノア? もしかしたら雷雨がくるかもしれないって予報だから、合羽も用意しておいた方がいい」
「サンダーストーム?」
「強い通り雨みたいなやつだ。君が来てからまだ一度もないかな。雨はかなり降るし落雷もあるけど、大抵はすぐやむよ」
乃亜はうなずいた。日本でいう夕立だろうか。
合羽は持ってきていないけれど、折り畳み傘なら日本から持ってきている。それでなんとかなるだろう。
「どこかへ行くの?」と、マリアナ。
「ピエドラのトレッキングにね。初心者はあそこがいいだろう?」
「温泉もあるしね。ノア、日本にも温泉が沢山あると聞いたわ。行ったら感想を聞かせてね」
「ええ、もちろん……」
──『俺が連れていくつもりだったのに』
ダグラスのささやきが脳裏を横切った。あれは……明日のことだったのだろうか。だったらダグラスは今のこの会話をどんな気持ちで聞いているんだろう。
でも、彼の方に目を向けることができない。
もし辛そうな顔をしていたら傷つくし、まったく平気そうにしていても、それはそれでやっぱり傷つく。
だから乃亜は自分が調理係である利を生かして、彼らに背を向けるとキッチンへ戻った。
人数が多いのでダイニングテーブルの椅子を増やしたせいもあって、この晩はじめて、ダグラスは乃亜の隣に座らなかった。
そして夕食後、乃亜をキャビンまで送ってくれたのはネイトだった。
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