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【乃亜の章】
あなたと歩む道⑦
最初はすべてうまくいっていた。
……と、思う。
天気はよかったし、装備も完璧だったし、目の前には息を飲むような大自然が広がっている。なによりも乃亜のスマホにはダグラスの番号があった。ほら、完璧でしょう?
乃亜の目指すピエドラ川のトレッキングコースには、三マイルという表示があった。つまり五キロ弱である。
歩いて歩けない距離ではない。
しかも出発点と到着点が同じ、周回するタイプのコースだ。
途中に川沿いに出て、その川には自然の温泉が注ぎ込んでいるそうだ。ひとが浸かれるように岩場の一部が整備されているおまけ付きで、中には水着姿になって浸かるひともいるらしいが、乃亜は足湯のようなことをして満足するつもりでいた。
だから水着の類は持ってきていない。
サンダーストームについて調べてみると、やはり日本の夕立と同じ仕組みで、主に暑い日の夕方辺りに集中して降る雷雨とあった。
ただちょっと規模が大きく、時々竜巻を伴うとのことだった。
(でも時間的にまだ早いし、大丈夫なはず……傘もあるし)
リュックを背負い直すと、乃亜は小道を進みはじめた。
舗装された道はなく、ただ歩きやすいように均されただけという感じの地面で、見上げてもてっぺんが見えないような背の高い木々が多く林立している。
ちょっと尋常ではない数値のマイナスイオンに包まれて、乃亜は大きく息を吸った。最高に気持ちいい。空気が澄みすぎていて肺が痛いくらいだ。
牧場から離れて。
春子とウィリアムのことも、ダグラスも、ネイトやマリアナのことも忘れて、一刻だけ。
乃亜はひとりで考えたかった。
否、ひとりで、なにも考えずに心を落ち着けたかった。
スプリング・ヘイブン牧場に着いてから……特にここ数日は、ジェットコースターのように感情を振り回されて、少し休息が必要だった。
「ふぅ……」
結局、ネイトがこのトレッキングを延期したいと言い出したのは、乃亜にとって渡りに船だった。ひとりになれた上に、罪の意識のあるネイトは出発点まで乃亜を車で送ってくれたのだから。
「この点は本当に不便よね……。またレンタカー借りるべきかな」
最初に仲の良さそうな老夫婦とすれ違った以外、トレッキングコースにひとの気配はなくて、乃亜は独り言をぶつぶつつぶやいてしまう。
帰りはネイトに連絡すればまた迎えに来てくれると言っていたけれど……。
乃亜はリュックのポケットに入れてあったスマホを取り出した。
──時刻はすでに正午過ぎ。
電波はあったり、なかったりで怪しい。実際今はない。でも……。
「あ……」
ある。
ダグラスからいくつかメッセージが入っていた。日本で普及している某アプリはここアメリカではあまりポピュラーではなく、同類の別アプリではあるが、使い方はほぼ同じだ。
『どこにいる?』
が、ひとつ目のメッセージだった。
すごい直球一直線……。
『ど・こ・に・い・る?』
ふたつ目。まったく同じ文章が大文字で綴られていた。ひとつ目のメッセージから一分後の送信だった。
『ノア、返事をしてくれ』
その五分後。まだダグラスにはプリーズという単語を使う余裕があった。
『返事をしろ、ノア。無事か?』
その三分後には命令形に進化していた。……そうでしょうとも。
乃亜だって返信できるものならしたいけれど、電波がなければどうしようもない。とりあえず、
『大丈夫です。トレッキングコースを歩いています。まだ川には着いていません』
……とシンプルな文章を打ち、送信してみる。これで電波が復活したら自動的に送ってくれるはずだ。多分。そう信じたい。
乃亜は目の前の小道をさらに進んだ。
* *
甘かった。すべてが甘かった。
うまくいっているときほど用心しろという先人の教えは正しかったのだ。
まず、小道の途中に倒れた木の株が転がっていて、景色に気を取られていた乃亜は派手に転んだ。これが皮切り。
小道の途中に、どちらに進路を取っていいかわからない曖昧な分かれ道があった。
電波はなかったのでネットにあった経路図には頼れない。スクショをしておかなかった迂闊さを後悔したが、あとの祭り。
転んだときの膝の傷が痛かったせいか、ちょっと投げやりな気分だった乃亜は、曖昧な記憶を手掛かりにとりあえず、ふたつあるうちの太めの道を選んだ。
おそらく、やってはいけないことだった。
後悔先に立たず。
気がつくと乃亜の進んでいた道は徐々に切れて、ただの森になっていた。
(どうしよう……。とにかく、戻るべきよね)
乃亜はさっきの分かれ道まで戻る決意をした。実際、途中くらいまでは戻った。そこで例のサンダーストームがコロラドの空を覆ったのだ。
大丈夫、と自分に言い聞かせて、乃亜は持ってきた折り畳み傘を出した。おそらくすぐにやんでくれるはず。
しかし乃亜の楽観はまたも当たらなかった。
そして乃亜はひとつの真実を学んだ。字面を信じろ、というものだ。乃亜の目の前にあるものは夕立なんかじゃなく、まさにサンダーとストームだった。
雷鳴と嵐。
東京からはるばる持ってきた折り畳み傘は五分と持たず、横なぶりの風に吹き飛ばされてどこかへ消えてしまった。
小道に舗装はないから、雨に濡れるとただのぬかるみになる。
それでも地盤が固いせいか、すぐには足を取られなかった。その分、雨水が流れてくると滑りやすくなる。乃亜は雨宿りを求めて少し進んでみたが、何度も転んでそれどころではなかった。
──『なにかあったら』……と、ダグラスの言葉を思い出した。『この番号に連絡するんだ』と。
「うぅ……」
涙さえ雨に流される中、乃亜はすでに濡れてしまっているスマホに手を伸ばした。
「え!」
なんと、少しだけだけど電波がある。
おまけにダグラスからのメッセージがまた来ていた。じゅ……十九件の。すべて読み込んでいる余裕はなくて、いつまた電波が切れるかもわからないから、乃亜は通話ボタンを押して通じることを祈った。
ダグラスが出たのは二秒後だった。
『ノア! くそ、やっと繋がった! どこにいるんだ!?』
「あ……」
嬉しくて喉が詰まり、すぐには声が出せなかった。
『ノア、どこにいるんだ? 無事なのか?』
「は、はい……」寒さで声が震える。
『まだピエドラへの道中にいるのか?』
「多分……。で、でも……途中で道を間違えたかもしれないんです……。分かれ道があって……」
『もう少し詳しく説明してくれ。その分かれ道は川に辿り着く手前なんだな?』
「はい……。その少し前に、倒れた木の幹がありました……。それで転んで……」
『転んだ!?』
ちょっと耳が痛くなるくらいのダグラスの叫びを聞いた。『大丈夫なのか?』
誰かに心配されるということが、こんなに心地よかったことはない。乃亜はダグラスの声のありがたさにスマホをぎゅっと握った。甘えたくなる。
「大丈夫です。でも、どうしよう……」
『俺が行くからそこを動かないでくれ。いいな? 平坦に見えるがいくつか小さな岩の崖がある。特に雨だと滑りやすい。絶対に動くな。すぐに迎えに行くから』
「はい。ありが──」
と、言いかけたときに、地面が揺れた。
同時に耳をつんざくような雷鳴がとどろき、足元が割れたのかと思うほどの振動があって、身体中の毛が逆立った。
心臓が止まるかと思った……。
その数秒後に、メリメリという不気味な音を立てて、乃亜から数十メートル先に立っていた巨木がゆがみ……そしてドォンと倒れた。
幸い乃亜がいる場所とは違う方向に倒れてくれたが、もし頭上に直撃でもしていたら生存の可能性はなかっただろう。
あまりのショックに乃亜はおそらく一分くらい意識を飛ばしていた。
ハッと我に返ってスマホを確認すると、ダグラスとの通話は切れていて、電波も再び途絶えていた。
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