43 / 68
【乃亜の章】
あなたと歩む道⑧
動くな、とダグラスが言ったから、乃亜はその場にうずくまって彼が来るのを待った。
あの落雷を最後に雨は少しずつ弱まっている気がしたけれど、地面のぬかるみはひどくなっていくばかりだ。ダグラスは本当にこんな雨の中、迎えに来てくれるのだろうか? 乃亜が危ないのと同じくらい、ダグラスだって危ないのでは?
最初に膨らんだ希望は、待っている間にゆっくり静かにしぼんでいって、乃亜は希望を手放しそうになった……そのとき。
乃亜は誰かが自分の名前を遠くから呼ぶのを聞いた。
──ノア!
何度も、何度も。
雨音にかき消された木霊のような響きが、次第に大きくなっていく。幻聴かと思いはじめたそれが、はっきりした現実の音に変わっていった。
「ダ──ダグラス!」
乃亜は叫んだ。
そこからは早かった。ダグラスはもう一度だけ乃亜の名前を叫んだあと、真っ直ぐにこちらに向かって速足で近づいてくる。
雨に白む視界の先にダグラスの姿が見えたとき、乃亜は立ち上がった。
ダグラスは背負っていたなにかを地面に投げ捨てて、乃亜のために駆けだした。
なにをするべきかは本能が教えてくれた。
乃亜は両手を広げて、彼のすべてを受け入れた。
濡れたふたつの身体がひとつに抱き合って、雨が、風が、遠くにまだ響く雷鳴さえが、ふたりの間には無くなっていた。
そして、乃亜は生まれてはじめての口づけをしていた。
「……んっ……」
雨水が互いの唇に滴るような、雨の中のキス。
ダグラスの大きな両手に頬を包まれて、息を奪われるような深い口づけを受ける。奪われると同時に息を吹き込まれるような、熱くて……でも癒される、本物の接吻だった。
「は……っ」
いつかくるこの瞬間のことを、乃亜は幾通りも想像していた。
ついばむようなもどかしいキスや、優しくて真っ直ぐなキス……。でもこれはそんな御伽噺のような触れ合いではなくて、もっと魂を焦がすような、性急で、相手に渇望された行為だ。
乃亜もダグラスの頬を両手で包み返した。
舌で互いの口内で探ろうとすると雨水が唇から滑り込んでくる。
雨の味がして、森の匂いがして、ダグラスの熱を感じるキスだった。
「見つけた……」
ダグラスが言った。
「はい……見つけて、くれた」
乃亜はささやき返す。
ただ事実の確認に過ぎない言葉のはずが、なぜか深い意味を持っているみたいに心に沁み込んでいく。
夢でさえ見たことのなかった熱いキスはいつまでも続いた。
* *
ダグラスが一度地面に捨てた荷物は、魔法のように役立つものがいくつも詰め込まれていた。
「とりあえずこれを着ていてくれ」
と渡された、雨合羽にもなる防水タイプのウィンドブレーカー。
顔だけでも拭くようにと出されたハンドタオルはジップロックに入れられていて、まったく濡れていなかった。
ダグラスは雨宿りのできる葉ぶりの大きな木の下へ乃亜をいざなった。
そこでしばらく待っていると、風は落ち着き、雨はしとしとと落ちる大粒から少しづつ薄い霧雨へと変わり、やがて日が差し込んでくる。
「わあ」
気がつくと、ついさっきまで雨だったことを忘れたような明るい空が広がっている。
瑞々しいプリズムが小さな虹を作り、森の中に掛かっていた。
色々と完璧だったダグラスの荷物に比べ、乃亜のそれは雨に濡れてほぼ全滅で、スマホがまだ使えるのは奇跡だった。
日本から持ってきた傘が吹っ飛んでしまった話をすると、ダグラスは息を飲んで硬直した。
「雷の標的になっていたらどうするんだ。合羽を用意した方がいいと言われたとき、うなずいていたのに」
「あのときのネイトさんとの会話、聞いてたんですか?」
「当然だろう」
「避けられてると思ってたのに」
乃亜はふふっと笑ったが、ダグラスは眉間に皺を寄せて首を振った。
「全部聞いていたよ」
ダグラスの言葉はいつもシンプルだ。
だからこその重みがあって、信頼できる。飾りのない真実。迷いのない決意。彼の口から紡がれるのはそんな言葉ばかりで、乃亜はそのすべてを宝物として心に刻みたいくらい、愛しく感じた。
幸い季節は夏なので、雨で冷えたといっても震えるような寒さではない。
ダグラスの荷物に入っていた着替えはみなビニール袋に入っていて無事だったから、それに着替えさせてもらってトレッキングを再開した。彼の大きなシャツが心地いい。
「雨水が流れ込んだせいで、温泉はあまり温かくはないかもしれないが──水量が増えて綺麗だと思うよ」
と、ダグラスが説明してくれたピアドラ川に出るまで、ぬかるみをゆっくり進んだせいで一時間近くかかった。
道中、ダグラスは急がずにゆっくり歩いて、所々で乃亜が滑らないように手を差し出してくれる。
これは彼のマナー……ああ、ホセはなんと言っていたっけ?
南部男の矜持。そう、それだ。
それでしょう……?
「わあ、ここが? すごい! 可愛いっ!」
急に森が開けて、小道の先に一本の細い川が現れた。
細いとか可愛いという感想になってしまったのは、これに先駆けて見ていたサンフアン川やスプリング・ヘイブン牧場にある湖がもっと広大だったからだ。
この川はなんというか……日本の山でもよく見る感じの、歩いて向こう岸まで渡れる浅瀬の続く、ささやかな水流だった。
そして硫黄の匂いがする。
温泉だ!
「川は逃げないよ。滑るから走らないでくれ」
背後からダグラスの声がやんわりと忠告する。
実際、ひと気はまったくなくて貸し切り状態で、午後ではあるがまだ日の入りを心配するほどの時間ではない。
温泉が湧いているところに山からの水流が流れ込み、ちょうどいい具合の温度の露天風呂的なスポットが川縁に点在するという、夢のような場所だった。
「入ってもいいんですよね?」
念のために乃亜が聞くと、ダグラスはうなずきながらも顔をしかめた。
「ネイトと一緒に入るつもりだったのか?」
「え? ええ、もちろん。自分だけっていうわけにはいかないでしょう」
「…………」
「足湯だけのつもりでしたけど。水着は持ってきてないので」
「ああ……なるほど」
なる……ほど……?
乃亜が先に川縁に近づくと、ダグラスはその後ろをついてくる。大きな岩や角ばった石が多く、乃亜はその上をぴょんぴょんと跳ねるようにして渡った。
ちょうどいい具合に湯気の出ている大きな石に囲まれた温泉があったので、縁の岩にしゃがみこんで手を浸けると温度を調べた。
「気持ちいい! 本当に温泉だぁ!」
乃亜は日本語で感嘆した。ダグラスは肩をすくめながら乃亜の隣に来る。
「気に入ったのか?」
「もちろんです! ここに座ってもいいですか?」
「どうぞ。うちの敷地内でもあるまいし、別に俺に許可を求める必要はないよ」
確かに。
ずっと牧場内で生活していたので、土地からキャビンから邸宅のキッチンに至るまですべてがダグラスのものであることに慣れすぎていた。でもここは国立公園の一角だ。
主人と客でも、牧場主と臨時の雇われ人でもない。
ただ一緒に自然の中を旅するふたり……。
少なくとも乃亜はそう思いたかった。
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
繰り返す夜と嘘 〜【実録】既婚の僕と後輩の彼女、あの夜のキスから始まった13年の秘密〜
まさき
恋愛
結婚して半年の僕と、同じ職場の彼女。
出会った頃は、ただの先輩と新入社員だった。
互いに意識しながらも、
数年間、距離を保ち続けた。
ただ見つめるだけの関係。
けれど――
ある夏の夜。
納涼会の帰り道。
僕が彼女の手を握った瞬間、
すべてが変わった。
これは恋でも、友情でもない。
けれど理性では止められない、
名前のない関係。
13年続いた秘密。
誓約書。
そして、5年の沈黙。
これは――
実際にあった「夜」の記録。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
藤白ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です!
https://estar.jp/novels/26513389
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!