二度目の永遠 ~ある夏にコロラドで見つけた牧場主との運命の恋~

泉野ジュール

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【乃亜の章】

あなたと歩む道⑨


 とりあえず乃亜は座って靴を脱ぐと、ジーンズを膝までめくって足先を温泉のお湯に入れた。さすがのダグラスの荷物にも靴はなかったので、濡れたものをずっと履いて歩いていたから、生き返るような心地だった。

「気持ちいい……」
 ダグラスは乃亜のすぐ隣に腰を下ろしたけれど、乃亜のように足を浸けようとはしなかった。かわりに彼の視線は乃亜の膝辺りをじっと凝視している。

「そこは……怪我をしたのか?」
「え」

 言われてはじめて、乃亜は自分の膝に目をやって、そこに擦り傷がついているのを発見した。最初に派手に転んだときの怪我だろう。
 出血はすでに止まっていたが、まだ赤い痕が生々しい。自分でも思わず顔をしかめてしまったから、心配性のダグラスがどんな反応をするのか想像するとちょっと怖かった。

「大丈夫で──ひゃあっ」
 ダグラスの頭が下がってきて、膝小僧の上にちゅっと唇を寄せた。

 嫌だったわけではないけど、驚いて思わずダグラスを温泉の中に突き落としそうになった。彼を押そうとした勢いで、逆に自分の身体の方が岩から落ちそうになる──ところを、彼の腕が救ってくれた。

「落ちないでくれ」
 と、静かに言って、乃亜を抱きかかえたまま膝の擦り傷を指先で慎重に振れる。「消毒しないと」
「じゃ、じゃあ……急に唇を寄せたりしないでくださいっ」

 ダグラスは反論したげに上目遣いで乃亜をじっと見据えた。
 身長差のせいでずっと見上げるばかりの構図だったから、こうしてダグラス・マクブライトの顔を見下ろすのははじめてかもしれない。
 別にどの角度から見ても彼が大きくて迫力のある男性であることは変わらないけれど、ちょっとこう……可愛いというか……母性本能をくすぐるようななにかが、そこはかとなく加わる。

「この程度ですんでいることを神に感謝した方がいいよ」
 ぴしゃりと告げて、ダグラスは例のリュックから消毒薬スプレーを取り出した。
 一緒にガーゼまで出てくる。
 シュッとスプレーを受けて、そこをガーゼで拭かれて、絆創膏が貼られるまでに一分も掛からなかった。さすが。

「……牧場の馬や牛も、よくこうやって怪我するんですか?」
「君の想像以上にね」

 ダグラスは作業が済むとさっさと道具類を規律正しくリュックにしまった。
 ちょっと見惚れてしまう動作というか……こう言ってはなんだが、素人ではない動きだった。牛や馬のためにここまでできるようになるものだろうか。
 乃亜の無言の疑問を察したのか、ダグラスは皮肉っぽい笑みを浮かべる。

「68Wだったんだ」
「え?」
「68ウィスキー部隊。コンバット・メディックのことだ。戦地の救急救命士みたいなものだ」

 乃亜は目の前の男性をまじまじと見つめた。
 さっきキスまでしてしまったひとなのに、知らないことだらけだ……。もちろんそれはダグラスにとっての乃亜も同じだろうけれど、多分レベルが違う。
 そういえば、フライパンでおでこをぶつけたときのダグラスの心配の仕方も、ある意味玄人だった。

「すごいですね……」
 他に言いようがなくて、乃亜は素直な感想を口にした。
「別にすごいことはひとつもないよ。ただ、君はよく怪我をするようだから、便利ハンディ―な技能ではあるんだろうな」

 ──もし、一緒に暮らすなら。
 そう彼の口から出かかったと感じたのは、乃亜の妄想だろうか。
 ダグラスはすでに姿勢を正してしまったので、彼の顔を見ようと思ったらまた見上げなければいけない。

 ふたりはしばらく見つめ合ったけれど、乃亜はなんと言っていいかわからないまま。ダグラスもまたなにも語らなかったので、乃亜は視線を足元に落とした。
 ふたりの胸中がどんなに乱れていようと、自然は不変で、普遍で、ときは止まってくれない。
 キスまでしたのに。
 なんだか逆に距離ができてしまったみたいで、お湯に浸かった足をプラプラと揺らして、その波が作る水面の波紋を無心に見つめた。

 乃亜を『ハルコ』にはしたくないから、ふたりはなにもはじめるべきじゃない……のだ。ダグラスによれば。
 なんだか泣きたい。

「ノア」
 ダグラスの声に乃亜は顔を上げた。
 彼は乃亜が視線を外していた間も、ずっと乃亜を──乃亜だけを──見ていたみたいだった。

「俺が……俺たちが、これ以上先に進まない理由を、俺が君を欲していないからだとは思わないでくれ」
 なに……を?
「ダグラス……」
「俺がこのまま君を抱かないからといって、そうしたくないわけじゃない。俺の心はもう決まっている。そして俺は、一度決めたものを覆したりはしない」

 それは……ダグラスにはもう心に決めたひとがいるから、乃亜は駄目という意味だろうか? つまり、ダグラスは『誰も乗せない馬』ではなくて、『生涯にひとりしか乗せない馬』だったということで……。

「わ……わたしじゃ、そのひとの代わりにはなれないの……?」
 乃亜の声は震えた。
「ノア、だれも君の代わりにはなれない」
「それは……って、え?」
「どうやって君が、君自身の代わりになるんだ? いいか、俺は好きでもない女の膝にキスをするようなタイプの男じゃない。好きでもない女を嵐の中助けにきたりもしない。毎晩湖畔への散歩に連れて行ったりもしないし、ましてやウィリアムとの家の鍵を渡したりは絶対にしない」

 それは……確かにそうかもしれない。
 でも。
 でも、ちょっと待って。

「あなたが『誰も乗せない』のは、他に好きなひとがいるからじゃないの……?」
「違う」
 ダグラスはあっさりと否定した。
「俺が言いたいのは……これは俺自身の問題で、君にはなんの落ち度もないということだ」
「でも、どうして」
「ここでは説明できない。いつか……教えられたらと思う。いつかこの軛《くびき》から解放されて、君に愛を乞う資格を持てたらと思う。……ただ、今の俺にはどうすることもできない。でもそれは俺が君に惚れていないという意味じゃない。それをわかって欲しい」
「…………」

 なにをどこまで信じて、どこからどこまでに線を引けばいいのだろう。
 こんな恋は。
 こんな想いは。
 こんなふたりは……。

 そんなの嫌です、理由を教えてと泣きつけば、ダグラスは心を変えてくれるだろうか。おそらくそれはない。なにより乃亜自身、こんな複雑な新しい恋に無条件で飛び込めるほど、心の傷が癒えているわけでもない。
 そのうえ、ダグラスは彼の気持ちを教えてくれたのに、乃亜はまだなにも伝えていなかった。

「ダグラス、わたし……」
「別に君からの答えや言葉を期待してるわけじゃないよ。俺にその資格はないことくらいわかっているし、ずいぶんと卑怯な告白をしている自覚もある。だから、なにも言わなくていい」
「でも」
「それでも、もしひとつ聞かせてもらえるなら──」ダグラスの指が乃亜の前髪に触れて、そっと耳に後れ毛を掛けた。「君の心はまだあの阿呆なシェフにあるのかどうか知りたい」

 乃亜はぷっと短く笑った。
「そんなひともいましたね。もう忘れました」
 ダグラスは満足げに微笑んだ。
「ネイトは?」
「あのひとはわたしをここに置いて、今頃、綺麗な金髪のお姉さんと乗馬してるんですよ? 論外です」
「あいつは馬鹿だよ」
 ダグラスは静かに告げた。乃亜も静かに首を横に振る。

 乃亜はしばらく足湯を楽しんでいたが、雷雨の名残か風が吹くと肌寒くなって何度かくしゃみをしてしまった。
「そろそろ帰ろう」
 ダグラスの大きな手が乃亜の背中をさすった。
 身体の芯の、そのさらに奥にある誰にも触れられたことのない場所が、ポッと火がついたように熱くなる。

「はい……。でも、あの」
「ん?」
「また来たいです。今度はゆっくり、天気のいいときに。そのときは……一緒に来てくれますか?」
 数秒の沈黙のあと、ダグラスはうなずいた。
「もちろん」

 ──いつか。
 いつかこんな曖昧な関係ではなくて、想いを確かめ合ったふたりがこの道を一緒に歩く日がくるだろうか。
 そんな疑問を抱えながら、乃亜はその午後、ダグラスと共にピエドラ川の小道を歩き終えた。
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