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【乃亜の章】
君がいるべき場所②
ダグラスの腕が力強いことを、乃亜はもうずいぶん前から知っていた。
でも今このときほど頼りになると思ったことはない。
これほど……甘えたくなったことは。
ダグラスは乃亜を毛布ごと横抱きにして、キャビンからマクブライト邸への道を歩いた。このまま永遠にこの腕の中にいたい気持ちになったけれど、揺れるのはどうしても避けられず、乃亜は弱々しく懇願した。
「下ろして……ください。歩けます、から」
そう言っただけなのに頭がクラクラする。
おまけにダグラスは顔を近づけてきて、乃亜の耳元をくすぐるようにささやいた。
「どうして?」
もう……。答えたくない問いだってあるということを、コロラドのカウボーイは学ばないのだろうか。
「吐いちゃうかもしれないから……。カーペットだけでも失礼なのに……あなたの服まで」
「ノア、俺は気にしない」
「わたしがします」
「じゃあ気にするのをやめた方がいい。いいか、もし俺が熱を出した君をひとりで歩かせると思っているなら、大きな、大きな間違いだからな」
う……ん?
なんだかもう頭が回らない。乃亜は甘え続けることにして、吐き気が上ってこないことだけを祈った。
幸い祈りは聞き届けられ、乃亜はダグラスの腕に抱かれたままマクブライト邸の玄関をくぐることができた。
「お嬢ちゃん! やっぱり具合が悪かったのかい?」
ホセが優しく心配げに声を掛けてくれる。乃亜はうなずいて答えようとしたが、ダグラスの腕にさらに力が入って、彼が代わりに答えた。
「ホセ、ノアは二階の寝室に連れて行く。彼女が食べられそうな料理と、風邪薬を持ってきてくれ」
「はいよ、ダグラスの旦那」
寝室……。
寝室に行くんだ……?
どの寝室だろう。まだ二階に上がったことはないが、この家の造りからして五、六部屋はあるだろうから、空いている客室もあるのかもしれない。
どうしてキャビンじゃなくてここなのかな……。
いくつかの疑問が浮かんでは、熱に邪魔されて消えていく。とりあえず乃亜はダグラスの腕に包まれていることに安堵してウトウトしはじめた。
ダグラスが階段を上り、ある部屋に入って乃亜をベッドに下ろしたときには、ほとんど眠りに落ちそうになっていた。
「まだ寝ないでくれ。もう少しだけ……薬を飲んでからにしないと」
「ん……」
「アレルギーは? なにか苦手な薬はあるか?」
「特にはなにも……」
それだけ確認するとダグラスは立ち上がって、部屋を出ていった。そして両手にいくつかの雑多なものを抱えて戻ってくる。
「吐きたくなったときはこれ」
と言われて、枕元に小さなプラスチックのボウルが置かれた。
うう……。恥ずかしいけれど確かにありがたい。
「薬はこっちだ。調べたところ日本にも類似品があったから、大丈夫だろう。ほら」
ダグラスの大きな手が風邪薬の小さなパッケージを器用に開けるのを、なんだか艶めかしいなと思いながら眺める。
自分自身で上半身を起こそうと努力はしたけれど、すぐには上手くいかない。
まごついていると、ダグラスはふっと小さく笑いを漏らした。
「なんのためにここに連れてきたと思っているんだ? 無理しなくていい」
背中を抱かれて、いくつかの枕を背後にあてがわれて、ベッドの上で斜め四十五度な感じで上半身を起こしたまま落ち着くことができた。
「ありがとうございます。ごめんなさい……」
しばらく夏の雨に打たれただけでこの有様とは、情けなくて泣きたくなってくる。もちろん、長時間フライトからはじまって牧場での慣れない仕事と森での半遭難……色々あった。疲れがたまってしまっただけかもしれないけれど。
「謝るな。ほら、口を開けて」
薬。そう、薬を飲ませようとしてくれているだけ……。
わかっているのに、ダグラスの仕草も口調も一々が色香に溢れていて、なにか他の意味を探してしまう。
よく見るとダグラスはいつものカウボーイ装備ではなくて、ロゴの入った普通のTシャツとジーンズというカジュアルな恰好だった。
普通に格好いい。
ああ……こんなふうに煩悩があるうちは多分大丈夫……よね? いくら曽祖父の土地とはいえ、遥かコロラドくんだりで命を落とすような真似はしたくない。
乃亜はなんとか言われた通りに唇を開いた。
カプセル状の薬がひとつ舌の上に乗せられて、思わずダグラスの指ごと噛んでしまいそうになる。ダグラスは微笑んで、水の入ったコップを彼の口元に持っていった。
──彼の。
「え……?」
ダグラスの顔が目の前に被さってきて、目を閉じる隙もないまま唇が重なる。彼の舌と一緒に口内に水が入ってきて、乃亜はほぼ反射的にカプセルを飲み下した。
「飲めたか?」
「は……はい……」
そんな、さも当然のように……。
それともあれだろうか、例のコンバット・メディックというのはこんなふうにキスで病人に薬を飲ませたりするものなのだろうか? これは医療行為で、こんなことで動揺する乃亜はおかしいの?
ダグラスの顔がさらに近づいてきて、ふたりのおでこがコツンと当たった。
「悪い……」
「……?」
「状況を利用させてもらったようなものだな」
なんだかもう言葉も出なくて、乃亜はじっとダグラスの灰色の瞳を見つめる。もし熱がなかったらもう少し冷静になれたかもしれないけれど、今の乃亜には無理な話だった。
「わたしたち、キスをするのに……言い訳がいるの?」
ダグラスからの答えは、喉の奥でなにか聞き取れない言葉を低くうなる、というものだった。
「俺にとっては」
「わたしは……いいのに」
「例のシェフにはさせなかったのに?」
「キスそのものが嫌だったわけじゃないんです。むしろ憧れてました。ただ……勝彦さんとは……」
勝彦さんとダグラスの違いはなんだろう。
乃亜とダグラスでは、生まれも育ちも、もっと言えば人種も国籍も母国語さえも違うのに、なぜか失われていたパズルのピースがぴたりとはまるように繋がることができる。
「ノア、そうやって俺の決心をぐらつかせるのはやめてくれ。どちらにしても、こういう話は君の熱が下がってからにしよう」
ああ……そうだ。
この誠実さかもしれない。ぶっきらぼうすぎて最初は冷たく感じる、でも一度知ってしまうと心から信頼できる、誠意。
「そうですね……。あなたに風邪が移っちゃったら……大変だし」
「そんなことはどうでもいいんだよ」
「明日の朝……ケータリング……できなかったら、ごめんなさい」
ダグラスは首を横に振った。
「例の婆さんに頼むよ。だいぶ良くなったと言っていたから、俺が行って手伝えばなんとかなるだろう。客は君の料理の方を恋しがるだろうけどね」
「ふふ、わたしが帰国しちゃったらどうするんですか?」
乃亜はからかうつもりで言ったのに、ダグラスの動きがちょっと可哀そうなくらいピタリと止まって、身体を固くするのがわかった。
乃亜が帰りがたいと思っているのと同じくらい、ダグラスも乃亜に帰って欲しくないと……思ってくれているだろうか。
「……どうするんだろうな」
彼は静かに言った。
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